第二十六話 両手
静かにクロエの部屋に入ると、私は大きな音を立てないようにそっとドアの鍵を掛けた。これでこの部屋で何が起ころうが、そうそう邪魔は入らないだろう。分厚いカーテンを閉めきったクロエの部屋は薄暗く、私はカーペットにつまづかないように足元に目を凝らしながら窓際に歩み寄って、ベッドの中をのぞき込む。クロエは私が入ってきたことにも気付かず、だらしない寝顔を浮かべたままよく眠っているようだ。
私がカーテンをさっと開くと、朝の光が窓から差し込み、クロエの顔を白く照らしだした。まぶたを刺し貫く強烈な陽光に、クロエがたまらず呻いて寝返りをうつ。
「おはようございます」
私が声をかけると、クロエはうつ伏せになって枕に顔を押し付けながら、手を上げて起きていることを示した。だがまだ体を起こそうとはしていない。七時には起こせと言っていたくせに。
「……しばらくあなたがいなかったから、どうも朝寝坊の癖がついてしまっていけないわ」
顔を枕に押し付けたまま、くぐもった声でクロエは答える。そういえば何日も地下で凛と一緒に過ごしたのだった。そのあいだ、もちろんクロエの身の回りの世話は放り出したままだった。まあどうせ雑用だ。大した差はあるまい。私は壁際の戸棚から紅茶の缶を取り出し、お茶の準備をした。
部屋が紅茶の香りがいっぱいになって、私が盆の上に載せたティーカップをナイトテーブルに置いても、クロエはベッドから出ようとしなかった。まあ、今朝は特に予定はなかったはずだ。時間はたっぷりあるということだ。
クロエが艶めかしく身を捩るたびにドレスが崩れ、豊かな金髪がすらりと肩の上を流れる。白いうなじが顕になって、私はそれにいかがわしい視線を送る。眠っているだけで絵になるというのは、疎ましくすらある。私は靴を脱いでベッドにのぼると、背中からクロエの胸に手を伸ばす。下着をつけていないので、するりと指を滑らせるとドレスの上からでも形が直に伝わってくる。
「こんな朝っぱらから、随分ね。また何かおねだりかしら」
「……このあいだの仕返しです」
目をこすりながらも、クロエは抵抗しなかった。私はクロエの肩を掴んで仰向けに体を起こすと、遠慮なく唇を押し付けてクロエの口内に舌を押し込む。クロエは目を閉じたまま、気持ちよさそうな表情を浮かべて為すがままになっている。主人に対する行為としては甚だ無礼だと思うのだが、この女はとんだ好きものだ。こういうことだったら、私に何をされても拒まないのだ。
私は密かに指で拳銃の形を作り、人差し指をクロエのこめかみに押し付ける。親指で撃鉄を起こす仕草をして、それから人差し指で引き金を引くふりをする。もし私が本物の拳銃を持ってきていたら、この女はたった今死んでいた。私にはどうせ抵抗できないと油断しきっているのだ。クロエはくすぐったそうに身を
拳銃は布に包んでベッドのマットレスの下に押し込んである。花壇の土の中に戻そうかと思っていたが、いつ必要になるかわからない。普段から持ち歩くわけにはいかないが、必要とあればすぐに取り出せるところに置きたかった。あれを使えば、飛び出した銃弾は頭蓋骨をいとも簡単に砕き、白い枕が一瞬で血と脳漿でどろどろになるだろう。穏やかな朝は一瞬で惨劇になり、クロエが支配する世界はすべて終りになる。そのあとどうなるのかは、知らない。
夜は凛と一緒にいなければならない。クロエがまた夜に部屋に来いというと話がこじれるので、こういうときに凛に隠れて少しクロエを慰めてやればいい。クロエの腕が私の腰に伸びてきて、体を抱き寄せる。舌が絡み合い、私の息が少し荒くなってくる。強烈な満足感が押し寄せて、クロエを殺す一連の妄想がどこかに消え去ってしまう。私は凛のことが好きなのに、何をしているんだろう。所詮は肉体的な快楽を貪っているだけなのに、逆らえない。あまりに夢中になって息が詰まりそうになり、唇を離して呼吸を整える。
「なんだかあなた、楽しそうね」
クロエが少し戸惑ったような顔をして言った。思わず口元に手をやると、自分の口元がいやらしく歪んでいたことに気づいた。
「……別に、普通です。さあ、着替えたらどうです」
私は表情を戻すと、ベッドに横たわったままのクロエのドレスを強引にずらした。形の良い胸がこぼれてあらわになる。私が手を添えてその先端を優しく口に含むと、クロエが口から艶かしい吐息を漏らした。
————————
夕食を終え、凛とふたり、自室で肩を並べてベッドに座る。凛の肩を抱いて今日の出来事を報告しあうこの瞬間が、一日で最も落ち着く瞬間だ。
凛がクロエに手をあげたことで咲さんも怒っているのかと思いきや、話を聞くと意外に咲さんはこれまでどおりの様子であるらしい。もしかしたら、咲さんとしてもクロエが調子にのって凛や私をからかうのが面白くないのかもしれない。凛が暴れたことでクロエもようやく多少は反省しているということか。
「体力がまだ戻っていないだろうからって、今日は予定を変えて銃の手入れを……」
そこまで言って、凛がはっとして言い淀んだ。
「銃?」
「……はい。私、咲さんに銃の扱い方も教わっていて」
そういえば、凛は機械の掃除だのと言ってどこかで作業していることがあった。それを隠そうとしていたのだろう。凛は居心地悪そうに指を絡めてもじもじしている。
「あの……ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「だって……お姉ちゃんは私がそんな武器を振り回していることを知ったら、悲しむかなって」
凛は気まずそうだ。地下牢で凛が女の子を殺したとき、私が凛の手からナイフをもぎ取って泣いたことを思い出しているんだろう。
「凛が悪いわけじゃないから、気にしないで。頼もしいと思うくらいだよ」
私は凛の頭をそっと抱き寄せる。頼もしく感じたのは本当だ。ベッドの下に隠したあの拳銃を、凛に渡してしまおうかとも迷った。私より凛のほうが、よほど上手く扱えそうだからだ。しかし、それゆえに必要を認めれば凛はあっさり相手を撃ち殺してしまいかねない。おとなしいようで案外気は短いし、厨房で暴れたときは包丁を振り回しそうになった。私も凛にこれ以上誰かを殺してほしいわけじゃない。凛にあれを渡すときは、どうしてもそうせざるをえないときにしよう。
「いつの間にか、私は暴力を振るうことが怖くなくなってしまっていたんです。
凛は私の胸に顔をうずめたまま言った。慈ちゃんという名前がまた凛の口から漏れて、以前に食堂で凛は気を失ったことを思い出す。
「それなのに、夜になるといつも怖い夢ばかり見て。朝になるとみんな忘れちゃうんですけど、いつもとてもとても怖かったことだけは覚えているんです」
取り乱すかと思ったが、凛の声はとても落ち着いていた。私も凛の言葉をじっと待つ。
「
「大丈夫。私はずっと私のままだよ」
凛は私に誰も殺さないように望んでいるし、私も凛に誰も殺して欲しくない。でも、クロエがそんなことを許すだろうか。ここから逃げ出すすべも見つけられていない。一度殺人に手を染めてしまえば、私自身歯止めが効かなくなるかもしれない。凛の心を守るものも失われ、凛はクロエの指図するままに更に手を血で染め上げていくことになるだろう。それは、たとえ生き残れたとしても望ましい未来とはいえない。
来るべきその瞬間に、必要な判断を下すしかない。今はただ、不安を和らげるように、できることをするだけだ。凛の顎をそっと持ち上げて唇を重ねる。クロエとのキスが肉体的な快感だとしたら、凛とのキスは心が満たされていく幸福だ。私はこの味をもっと深く味わおうと、思わず舌を絡ませようとする。その途端、凛が私を押しのけるようにして、唇が離れた。
「……ごめんね、嫌だったよね」
私が慌ててそういうと、凛は耳を赤くして俯いた。
「いえ、嫌なわけじゃなくて、ちょっとびっくりして……」
そう言って、凛は私の頬にもう一度キスをすると、私の胸に顔を沈めた。凛は軽いキスでも照れてすぐ下を向いてしまう。深いキスを嫌がっているわけではないようだが、今はこのままの関係で充分に満足であるようだ。凛はまだ子どもなのだろう。恋人と呼ぶ関係の割には、私は少し物足りない気もしていた。
————————
その日は朝からぱらぱらと小雨が舞っていた。窓の外には薄い曇り空が広がり、もう陽は上っているはずだが、外は陰気に薄暗い。
「そういえば、
朝の身支度を整えながら、凛がふと思いついたように言った。確かに、ここ数日のあいだ菫さんの姿を見ていない。私と凛が地下牢から出て、自室に食事を持ってきてもらった時に会ったのが最後だ。顔を合わせるとしたら食事どきが可能性が高いが、いつもみんな少しづつ時間をずらしているので、たまたま会っていないのかと思っていた。菫さんが以前私に言った言葉を思い出した。
——私が、いなくなったら。
それは、まさにこの状況のことではないのだろうか。このことは凛には言っていない。私は動揺が伝わらないように、あくまで落ち着いた手つきで凛の服を整える。
「……何か用事でもあって、外出してるんじゃないかな」
背中越しに何事もないように声を掛け、凛の黒いワンピースの背中のファスナーを上げてやる。凛もさほど気にしていない様子でエプロンに頭を通す。外が雨だからなのか今日は咲さんとの訓練ではなく、高所のすす払いや窓拭きを頼まれているらしい。スカートでは動きにくくないのかと訊いたが、いつもこの格好でやっているからと、まるで気にしていない様子だ。まあ凛は猫のように身軽だから、心配はないのだろう。張り切って部屋を出て行く凛をいつものように見送る。
誰かに菫さんの行方を訊いておいたほうがいいだろう。クロエなら確実に何か知っているだろうが、下手に探りを入れたら不自然に思われるし、問い詰めても意地悪にはぐらかされる可能性も高い。訊くとしたら最後だ。ただの外出ならそれでいい。でももしそうでないなら、何か悪いことが起こっているのはまず間違いない。私は拳銃が隠してある自分のベッドのほうを一瞥してから、足早に部屋を出た。
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