第六話 出会い

 金髪の女が去ったあと、私は自分の震えが止まるまでずっと小さく縮こまって座っていた。これからどうしたらいいだろう。助けは来るのだろうか。何もわからなかった。自分は危機的状況でももう少し冷静に行動できるタイプだと思っていたが、実際にはこの有り様だ。もしあの女がもう一度やってきたら、たぶん身がすくんで一歩も動けないだろう。


 こんなところに居たくない。何はともあれ、早くここから脱出しなくては。足首の鎖は割り合いに長く、独房の中なら十分動き回れるだけの長さはあった。独房の出口は、正面の鉄格子の隅に備えられたくぐり戸だけ。一応扉を引っ張ってみたが、施錠されていて扉はびくともしなかった。もっとも、この潜り戸が開いたところで、足の鎖が外れなければ逃げることはできないが。


 考えればすぐわかることだ——出られないから『地下牢』なのだ。もし出られるようなら、それは地下牢としての用をなさない。映画やゲームなら、地下牢に囚われた主人公というのはだいたい機転を利かせて脱出するけど、実際にはそう簡単にはいかない。錆びた鉄格子を揺すったり、冷たい石壁を叩いたりして、ひとしきり独房の中を調べまわったあと、脱出する方法なんて存在しないというあたりまえの事実を思い知った私は、途方にくれて床にうずくまった。


 何時間か経っただろうか。遠くできいと扉が軋む音がして、誰かが地下に入ってくるのがわかった。またあのいやらしい金髪の女が私を犯しにきたのだろうか。私の背筋にぞくっと寒気が走り、足は勝手にがくがく震えていた。我ながら情けないと思ったが、あの女に対する恐怖は、私の心にしっかりと刻みつけられてしまっていた。


 しかし、廊下の奥から姿を見せたのはあの女ではなく、黒と白の衣装を身につけ、黒い前髪を眉のあたりで上品に切りそろえた、小柄な少女だった。いわゆる、メイド服というやつだ。少女は私が独房の隅で小さくなっているのを少しのあいだ見つめてから、こんにちは、と小さな声で言った。


「私はりんといいます。あなたのお世話をするように言いつけられてきました」


 凛と名乗った少女はエプロンのポケットから鍵を取り出すと、鉄格子の潜り戸を解錠して独房に入ってきた。それから、私に手が届くかどうかというところにちょこんと正座で座った。凛ずいぶんと小柄で、私でも簡単に抱きかかえられてしまいそうなくらいだった。私より、ふたまわりは年下だろうか。


 あの金髪の女が言っていた少女だ。凛は私のことをぜんぜん警戒していないようだった。たぶん何も知らされていないのだろう。もしかしたら警戒しないようにあの女に何か吹きこまれたのかもしれない。お世話、か。あの女の狙いは見え透いている。


「お世話といっても、何をしたらいいのかよくわからないんですけど」


 そう言って、凛は困ったように照れ笑いしながら頭を掻いた。その仕草はとても素朴で、私は素直に可愛らしいと思った。


「あの、何かお手伝いすることはありませんか」


 メイド服の少女はそう言った。ただ、無垢としかいいようがない声。ロングスカートから覗く、薄いタイツに包まれた足首は、転んだら折れそうなほど華奢きゃしゃだと思えた。とても危険な相手には見えないが、この状況では言葉は慎重に選ばなくてはならない。


「……この足枷あしかせを外したいんだけど。鍵はないかな」


 まずはそれだ。いま独房の扉は開いているし、足枷さえ外れれば外に逃げることができるかもしれない。


「ごめんなさい、それは駄目だって言われています。それに、私はその鍵がどこにあるのか知らないんです」


 申し訳無さそうに凛は言った。たぶん、あの女が仕舞しまいこんでいるんだろう。そうなったら、もう鎖を壊すしかない。鎖を切るにはどんな工具が必要なんだろう。ペンチ、ハンマーとたがね、ディスクグラインダーとかだったっけ。私にはあまりそういう工具のような知識がないから、よくわからないが。


「じゃあ、これを壊す、ハンマーとかそういうの」


 凛はぶんぶんと首を振る。これも駄目らしい。鎖を外す手伝いは一切しないように言いつけられているんだと思うし、それを凛に頼んでもどうにもならないだろう。それか、それでも脱出の手伝いをしてもらえるように、時間をかけてうまく手懐てなずけるか。


「それじゃあ……お腹が空いたから、何か食べるものが欲しいんだけど」


「あの、実はそれも駄目だって言われてて……」


 とてもとても申し訳無さそうに凛は言った。まさか食事がないとは。それではそのうちえて死んでしまう。次の言葉を探しているうちに、凛は私の耳元にささやくように手をあてる。


「……あの、これは内緒ですが、どうしてもお腹が減ったら、私が何か食べるものをこっそり持ってきます。だから心配しないでください」


 凛は周囲を警戒しながら、ひそひそと小さな声で言った。それを聞いてひと安心した。凛はあの女の言いなりというわけではなく、ちゃんと私のことを考えてくれているみたいだ。初対面の私になぜそんなに親切なのかはわからない。もとからそういう性格なのかもしれない。


「そっか。他には……そうだ、体を拭きたい」


 あの女に触られた感触を取り除きたかった。凛はそれを聞くと、ようやくやることが見つかって嬉しかったのか、急にぱっと顔を輝かせて、わかりました、と言って出て行った。しばらくして戻ってきた時には、たっぷりとお湯を張ったたらいを抱えていた。


 温かいタオルで体を拭いていくと、気持ちの悪い感覚が少し消えていくような気がした。私は恐ろしい呪縛から解き放たれたかのようにほっとした。背中のほうは凛に拭いてもらった。この少女は、私よりもかなり年下なのに、本当に甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。なんだか、ずっと前から凛のことを知っていたような気さえしてきた。


 体を拭いてすっきりしたあと、もうひとつ困った問題を思い出した。


「トイレはどうしたらいいかな?」


「ええと……あれで」


 凛は恐る恐る部屋の隅の穴を指さした。冗談じゃない。ただの排水口じゃないか。そう思ったけど、この独房にはトイレはないし、あの女がトイレのたびに鎖を外してくれるなどとは到底思えない。他に方法はなかった。まあ両手が鎖から解放されているだけマシかもしれない。そうでなかったら、トイレも行けずに、大変なことになってしまっていただろう。


 ここから出られない以上、助けを待つしかない。あるいは脱出のチャンスが見つかるまで考えるしかない。ひとついえるのは、あの頭のおかしい金髪女のいわれるまま、この年端としはもいかぬ少女を私が犯すなどという馬鹿げた選択肢は、まったくありえないということだ。あの女の思い通りにはならなくて済むということがわかって、少しだけほっとした。

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