第十九話 言い訳
クロエが舐めるように私の身体に視線を這わせていくのを感じた。私の身体を隠すものは下着だけだ。クロエの手が伸びてくる。クロエが身体をなぞれば、薄い下着はその刺激から私の体を守ってはくれないだろう。クロエがほんの少し手を動かして下着をずらせば、容易に私の秘部は露わになってしまう。だが、クロエは私の手をとって衣装の裾を引き下ろして整えると、あきれたようにため息をつく。私はクロエの意外な反応に戸惑う。
「私に自分を捧げるだけの覚悟があるのなら、その覚悟で遠慮せず殺っちゃえばいいのにね。……仕方ないわ。殺しを命令するのだけはしばらく待ってあげるから、そうやって身体と引き換えに約束を迫ったりするのは、はしたないから止めなさい。取引とかじゃなくて、奏とはもっと良いお友達みたいな感じで仲良くしたいのよ」
クロエは私の両手を自分のそれで包んで言う。ただ浅ましい欲望だけで私を誘ったというわけではないのだろうか。
「それにね、そういうふうに、いやらしいことばかり考えてる女だと
どうやら、私はひとまず助かったらしいことがわかって、全身からふらりと力が抜けた。ソファから落ちそうになって、クロエに抱きとめられた。
部屋の照明を落ちて薄暗くなる。クロエに抱きかかえられるようにして、私はベッドに入った。クロエのベッドは、私や凛ともまた少し違った、華やかな匂いがした。
「何も怖がらなくていいのよ。自分のしたことが怖くなったら、いつでも私が慰めてあげるから。あの時みたいな熱いキスをすれば、どんな恐怖だってぜんぶ吹っ飛んじゃうんだから。それにね、女の身体は女のほうがよくわかってるわ。私とならやさしく慣らしていくから大丈夫よ」
いつもは私が凛を抱いて寝ているのに、今日は私がクロエの腕の中にいる。いつもは私は甘えられる側なのに、今夜は私のほうが甘える側であるらしい。私はクロエの胸にしがみつくように乗っていて、私が胸をぽにゃっと揉むと、クロエはクスクスと笑ってくすぐったそうに少し身をよじった。
「……ごめんなさい」
「もっとしてもいいのよ。女はそうやって触られと気持ちいいんだから」
クロエが私の髪を優しく撫でる。地下での命令にも、クロエはいくらか猶予をくれたらしい。きっと、しばらくはひとまず安心して眠っていいのだろう。
クロエは私のすべてを優しく受け止めてくれる。ここでは欲しいものは手に入るし、命の危険があるわけでもない。この女の命令を受け入れて、罪も怒りもすべてこの女に押し付けて日々を過ごせば、どんなに幸せだろう。そして、凛がそばにいれば、他に何を望むというのだろうか。ただ私の心の奥底の良心が、いつか見た凛の涙が、クロエにすべてを委ねることをどうしても許さないのだ。考えるのに疲れきった私は、クロエの胸に顔をうずめると、目を閉じた。
————————
カタン、と時計の分針が動く微かな音で、私は目を覚ました。眠れなかったわけではないが、凛のことが心配になって自然に目が覚めてしまったようだった。目を凝らして時計を見ると、もうすぐ夜明けというころだ。
私は静かにベッドを抜けだす。クロエはすうすうと穏やかな寝息を立てていた。無防備だ、と思った。ナイトテーブルの上に置かれた、重そうな黄銅の台のランプに目をやる。これを頭に思い切り振り下ろせば、この女は目を覚ますことなく死ぬかもしれない。
そこまで想像して……それが出来ないのが私だ、ということを確認する。たぶん失敗して、目を覚ましたクロエに恐ろしい仕置きを受けたあとに殺されてしまうだろうし、うまく行ったところで、それをやったら私はこの女と同じところまで堕ちる。彫像のように美しいクロエの寝顔をしばらく見つめてから、クロエの部屋をあとにした。
自室の木の扉を静かに少しだけ押し開け、隙間から部屋の中を覗き込む。部屋の中は暗く、カーテンからわずかに漏れる夜明け前の空の明かりが、床を冷たい青い色で光らせている。凛のベッドのほうを見てはっとした。ベッドはもぬけの殻だった。
「お姉ちゃん——どこへ行っていたの?」
意外な方向から声が聞こえてきて、私は振り向く。凛は私のベッドの上にぺたんと座り込み、私の枕をぎゅっと両手で抱きかかえて、戸口に立ち尽くす私を見つめていた。問い詰めるような強い口調にぎくっとする。すぐに戸口から体を滑り込ませて、後ろ手に扉を閉めた。
「……トイレだよ」
「嘘だ。二時間以上もトイレに行くわけない」
凛は夜中に目を覚まして、ずっと私の帰りを待っていたのだろう。私はとっさに安易な嘘をついたことを後悔した。
「ねえ、どこに行ってたの?」
凛の声は怒りが滲んで震えていた。凛は抱えていた枕を振りかざすと、ぶんと振って私に投げつける。飛んできた枕は私の足に当たって、ぽすっと音を立てて床に落ちた。怒って物を投げる凛を見るのは、これが初めてだった。私は枕を拾うと、凛のところに足早に駆け寄り、隣に座った。
凛の顔を近くで見ると、頬のうえに涙の筋がきらりと光ったのが見えた。私がいないことに気づいて狼狽し、泣きながら私のベッドに臥せって時が過ぎるのを待っていたのだろう。どんな言い訳をしても、凛をもっと怒らせてしまうような気がする。私は自分でも驚くくらいに優しい笑顔を作る。
「もう戻ってきたから心配ないよ。まだ暗いから、一緒に寝ようか」
そう言って凛の肩に手を掛けたところで——凛がはっと息を飲んだ。自分の中に沸き上がってくる感情をどうにか抑えこむかのように、凛は頭を垂れて拳を握りしめる。
「この香り……クロエ様、ですね」
一晩クロエのベッドで眠ったのだ。クロエがよくつけている香水の匂いが、私の体にも染み付いていたらしい。まずい。言い訳を考えて頭のなかがめまぐるしく回転するが、何一つまともな言い訳が思いつかない。
「……クロエ様が
「凛、聞いて。私は何もされてないから大丈夫だよ。そんなに怖い顔をして、寝ぼけてる……のかな」
私はごまかすようにふふっと笑って言ったが、凛にはまるで聞こえていないようだった。凛の肩が小刻みに震えているのが、私の手にも伝わってくる。
「……許しません。奏お姉ちゃんは、私と一緒に寝るんです。邪魔するなら私は——クロエ様を殺します。絶対に、殺します」
私が今までに聞いたこともないような冷たい声で、凛がつぶやいた。ふうふうと鳴る凛の呼吸が、少しづつ荒くなっていく。ぎり、と歯を食いしばる音が聞こえた。
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