第二十二話 贖罪
クロエが口をゆすいで流し台に吐き出すと、赤く染まった唾液混じりの水が泡立ちながら排水口に吸い込まれていった。口の中を洗い終えたクロエが、洗面台から戻ってきてソファに腰を下ろす。私は小さく切ったガーゼをクロエの口の中に当てて、両側から挟みこむようにして強めに頬を押さえて止血する。頬を両手で包み込んでクロエと見つめ合うかたちになって、私は思わず目を伏せた。
「
クロエは私の手をそっと引き剥がした。口の中にガーゼが入っているので、少ししゃべりにくそうだ。口の中を切っただけではなく、打たれた頬も少し腫れている。止血が済んだら、冷やしたほうが痛みは減るかもしれない。
「……あの、本当に凛が申し訳ないことをしました」
私はただ深々と頭を下げる。あれで凛があそこまで激高するとは、私にも予想外だった。あの獣のように唸りをあげて暴れる少女を止めるのは、私では到底不可能だろう。ああなった凛を一人でねじ伏せることができるのは、この城ではもしかしたら咲さんだけかもしれない。
「あなたが謝る必要はないわ。別に私は誰も責めるつもりもない。だって私が凛をからかったせいだもの」
クロエは感情を隠すタイプではなく、むしろ大げさに感情を表現することが多い。おそらく本当に怒っているわけではないのだろう。ただし、主従関係を侵す行為には、容赦なく罰を与える。クロエが凛を地下に閉じ込めるのは怒りの表現ではなく、主人としての立場に求められる振る舞いをしているということなのだろう。あるいは、この女はそういうお仕置きさえ楽しんでいるのかもしれない。
凛の行動が自分のせいだということも、クロエは十分理解していた。だが、それを理解した上で
「でも、地下牢はあんまりです。凛も地下には良い思い出がないようです」
「そうでしょうね。凛もあそこでとてもつらい思いをした。だからこそあそこでしばらく過ごせば、凛も頭が冷えるわ」
「……いつまで入れておくつもりですか」
「反省するまで、かしら。反省しないのなら、そのうち飢えて死ぬだけよ」
飢えて、死ぬまで。私のときもそうだったし、脅しではなくクロエは平気でそういうことをする人間だ。でも、クロエの意思がどうであれ、私のするべきことに迷いはない。私は凛がいなくては駄目なのだから。私は振り向いて扉に向かって歩き出した。
「あら。負傷したご主人様を置いて、使用人がどこへ行くの?」
「凛のところです。怪我をしていると思うので」
「駄目よ。あなたが行っては、お仕置きにならないわ」
クロエが私の手首を掴んで、私を行かせまいと抱き寄せる。先に暴力を振るった凛は、罰を受けるべきだろう。でも、クロエが平気で善悪を踏み越えて自分の意志を押し付けるように、私にだって主従関係などというものよりも優先すべき感情がある。主従や罰などという理屈に従いたくなんかない。私が守りたいのは、クロエではなく凛だ。ただ、ここでクロエの機嫌を損ねたくはない。クロエはこの世界を支配しており、たった一言命令すれば私の命さえ簡単に奪い去ることができる。だから。
私はクロエに覆いかぶさって、顎に手を添えてキスをする。唐突な行為に、クロエが驚いて目を見開いたのがわかった。唇が軽く触れ合ってからすぐに離れて、私の胸がどきんと鳴った。この女のことは、嫌いだ。でも唇は柔らかく、肌は陶器のように滑らかで、青みがかった灰色の目は吸い込まれるように大きい。男も女も関係ない。このような美貌の女を拒絶する人間が、この地上のどこにいるだろうか。拒む理由が、この矮小な私などにあるだろうか。つまるところ、私はこの女とキスをすることは好きなのだ。好き嫌いといった個人的な感情を超えて、私の女としての、人間としての感性が、それを求めている。この自分でも理解しがたい胸の高鳴りが、それを証明している。
この女にくらべたら、顎の下の黒子やいつかのニキビのあとが残る私の顔など、なんて醜いのだろう。でも、思わず目を逸らしたくなる衝動も、まばたきも抑えこんで、ひたすらにクロエの目をずっと覗き込む。自分でも不思議なほど、私はこの女に求められているのだ。
先に目を逸らしたのはクロエの方だった。だが、私はクロエを逃がすつもりなどない。クロエの頬を両手で包んでこちらを向かせると、再び唇を強引に押し付けた。舌を一方的に割り込ませて舐めまわす。
不意に、肩をとんと押されて突き放される。私の唇は、突然の幕切れに物足りなさすら覚えていた。クロエはぷいとそっぽを向くと、深くため息をついた。
「だから嫌よ、そういうの。……仕方ないわね。好きにしなさい。でも凛は地下牢から出さないわよ」
「……ありがとうございます」
私が礼を言うと、クロエは余計に口をへの字に曲げた。頬をわずかに染めているのが、ちょっと可愛らしいとさえ思える。そして、私は自分の存在がまたよくわからなくなる。私は自分の快楽のためにクロエを貪っていたのか、それとも凛を救うためだったのか、自分でもよくわからなくなっていた。私は自分を落ち着かせようと、大きく息を吸ってゆっくりと吐いた。とにかく、凛は地下牢で心細い思いをしているはずだ。私はぺこりと頭を下げると、早足に扉に向かった。
地下への入り口の扉の前には咲さんと菫さんがいた。咲さんは両肘を抱くようにして壁にもたれ掛かっている。教え子の突然の凶行に、咲さんとしても思うところがあるのだろう。私に向かって向き直った瞬間に、咲さんから鋭い怒気を浴びた気がした。
「凛は……」
「駄目よ。それよりあなた、クロエ様の手当てはどうしたの」
「もう済みました。凛に会いに行っていいと」
それを聞いて、咲さんがぴくりと眉を動かした。私にそこで待つように言って、菫さんに目配せをすると、咲さんは足早に歩いて立ち去った。
「咲はクロエ様に指示を仰ぎに行ったから、奏は今のうちに凛の着替えを一式、用意してあげて。下着も全部ね。あちこち擦りむいていたから、救急箱も」
菫さんが言った。クロエの意思には忠実に従うものの、菫さんからは私と凛を気遣っている気配は感じ取れた。私は頷いて踵を返した。
部屋に戻ると、すぐに凛の箪笥を開いた。凛はいつも自分の衣装は自分で用意していたから、凛の箪笥を開くのは初めてだった。下の方の大きい引き出しから、最初に目についた白っぽいワンピースを取り上げる。少女らしいフリルがあちこちに施された可愛らしいデザインだが、この衣装を着た凛は確か一度だけしか見たことがなかった。それからすぐ上の小さな引き出しを開く。中には凛の下着が几帳面に丸められて並んでいる。なんだかとても悪いことをしているような気がして、どきりとする。手早く白い無地のものを適当に拾った。
凛には、大人っぽい理性や冷静さと、子供っぽい衝動が不安定に同居している。だが、私は凛を誰よりも信用していた。あの子は確かに私を慕っていたし、私を必要としてくれていた。私が奪われそうになると、わがままと言えるまでに奪い返そうとした。あの子が私を必要とするなら、私もまたあの子を必要としているのだ。ショーツと同じ色のキャミソールを手にとって畳まれたワンピースに挟み込むと、急いで部屋を出た。
私が再び地下牢への階段の前に行くと、すでに咲さんが戻ってきていた。咲さんは黙って不機嫌そうに顎で扉を示す。クロエの意思を確認できたらしい。私は咲さんの手を握って頭を深く下げる。咲さんはまた鬱陶しそうに顔をそむけたが、腕を振り払うということはしなかった。この人は冷徹な印象だったが、意外と照れ屋な性格なのかもしれない。
牢に入る前に菫さんに簡単に身体検査をされた。凛に道具を渡されては困るからだそうだ。凛には咲さんから牢破りの技術さえ教えこまれているらしい。鉄格子を切るワイヤーソーは、ポケットはもちろん、服の僅かなたるみにでも、束ねた髪の中でも、どこにでも隠し持てる。女の身体には隠し場所が多いのよ、と言って、菫さんは肩をすくめてにこりとした。私はそもそも、ワイヤーソーなる道具は見たこともなかったが。脱走させる気もなければ、たとえそうしようと思ってもそれが成功するとも思っていない。ただ、凛のそばにいてあげたいだけだ。私は再びふたりに一礼をして、地下へと続く木の扉を押した。
階段を下まで降り、そこにある重い鉄の扉を押し開ける。戸口にわずかに隙間が開いた瞬間から、泣き叫ぶ凛の声が漏れ出してきた。
「——やだ! もうここは嫌! ごめんなさい、ごめんなさいクロエさま! だして! たすけて、おねえちゃん——」
私は声のする独房へ駆け寄り——はっと息を呑んで途中で足を止めた。鉄格子の向こうには、生まれたままの姿になった凛がいた。女らしい起伏にも乏しい、染みひとつない幼い肢体。服をすべて剥ぎ取られてあらわになった秘部を隠すこともなく、その華奢な指先で力の限り鉄格子を握り締め、大きな目を見開いている。先ほど嵐のような暴力を振るった怪物が、哀れにも小さな独房に押し込められて怯えて泣いている。後悔と絶望に浸され、強張った表情。頬を伝う涙の筋。それはあたかも一枚の名画のようにも思えた。
私の手から着替えの白いワンピースがこぼれ落ち、その上に乗っていた救急箱は床に大きな音を立てて転がって中身を石畳にぶちまけた。ここへ来た目的も頭のなかから消え失せて、本能が命じるままに私は目の前の光景を目に焼き付けようと立ちすくんだ。女である私が、この少女の裸体にただ純粋に惹きつけられていた。私はごくりと喉を鳴らして唾液を飲み込んだ。
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