第二十三話 鉄格子
目の前の少女の肢体をなぞるように見つめていた。傷ひとつないなめらかな白い肌。同年齢の子と比べても起伏に乏しい胸。まだ毛も生えていない下腹。だが、この肉体には恐るべき力が秘められていた。
一見華奢に見えるふくらはぎは、よく見ると適度な筋肉で引き締まっている。鉄格子を掴む指先は細いが、ひとたびそれを握りしめれば大人でも軽く叩き潰す凶器になる。二の腕が誰かの首に巻き付けば、あっという間に相手を絞め殺すだろう。だが、その少女はいま、冷たく光る鉄格子の前にまったくの無力だった。私は体の奥底から湧き上がる熱い衝動に、体を強ばらせてひたすら耐えていた。
「——おねえちゃん!」
ひときわ大きい叫びを耳にして、はっと我に返った。そうだった。私はこんなふうに凛を眺めるために来たわけではない。鉄格子に駆け寄って、格子の隙間から手を伸ばす。鉄の棒ごと抱きかかえるようにして、ぎこちなく凛の両肩をそっと掴んだ。滑らかな肌が指先に触れて、心臓が跳ねるように高鳴ったが、ゆっくり息を吐いて自分を落ち着かせる。凛が私の顔を見上げて、嗚咽を漏らす。泣きはらした目は真っ赤になっている。
「凛、怪我はない?」
私が訊くと、凛はこくんと頷いた。だがあの鋭い咲さんの蹴りを受けたのだ、まったく負傷がないということもないだろう。私はひざまずくと、凛の脇腹を手で触れて確認する。蹴りがあたったと思われる部分が少し赤くなっているのがわかったが、軽く押しても凛がそれほど痛みを感じている様子はない。骨折などの重症はないようだ。あの卓越した動きを見る限り、相手を傷つけずに制圧するだけの技術を身につけているのかもしれない。
他にも擦りむいたりしたところはないかどうか、凛の肌をあちこち調べる。目の前の秘部を思わずまさぐってしまいそうな卑しい衝動を押さえつけながら。私が来て気が抜けたのか、凛は鼻をすすりながらしばらくぼうっと私のことを見つめていたが、やがて自分のあられもない格好を私に凝視されていることに気がついたようで、胸と股間を手で隠してぺたんと石畳に座り込んだ。耳まで真っ赤になっている。それを見て、私も着替えを持ってきたことを思い出した。私はさっき取り落とした着替えを拾い上げて、軽く埃を払うと凛に手渡す。
「……服を持ってきたよ」
凛は恥ずかしそうに背を向けると、畳まれたワンピースに挟まれた下着を取ってそれに足を通した。あまり着替えを見つめるのも悪いと思いながら、私は凛の背中からずっと目を離せずにいた。陰鬱な地下牢と裸に剥かれた少女との取り合わせはあまりに淫靡で、それでいて美しかったのだ。次第に隠れていく肌が惜しいとさえ、私は感じていた。
白いワンピースを身につけると、凛はようやく少し落ち着いたらしい。私の方へ向き直って、私の手を握りしめた。私と凛は、手をつないで冷たい石畳に膝を突き合わせて座り込む。鉄格子の間隔は狭く、触れ合えるのも腕だけだ。抱きしめることもできずにもどかしいが、ひとまず凛が無事であったことに安心した。
脱獄の道具を持ち込まないように服を脱がせたということのようだが、まさか下着まで奪うとは。辱めを与えて罰とする意味もあったのだろうが、それは凛があまりに可哀想というものだろう。凛の裸足を見て、私は靴や靴下を持ってくるのを忘れたことに気がついた。
「凛は私を守ってくれたんだよね。ありがとう。私はずっとここにいるから、凛と一緒にいるから、安心して」
散々泣き叫んで、もう声を出す元気もないのだろう、凛はまた無言で頷いた。私もそうだが、凛もどうやら独房には恐ろしい思い出しかないようだ。クロエが凛を出すまでは、私もここにいよう。何日だって構わない。今度は私が凛を勇気づけてやる番だ。
「
凛が私のほうに向いて
「いいよ。謝らないで。私がお礼を言いたいくらいだよ」
「……クロエ様がお姉ちゃんに抱きついたり触ったりして、私、それがとても嫌なんです」
凛の目元にまたじわっと涙が溜まったのがわかって、私は慌てる。この子は何も悪くない。悪いのは、すべてクロエだ。
「私は大丈夫だよ。そのくらいなんてことないし、嫌だったら私が自分でクロエ様をひっぱたくから。凛は何もしなくても大丈夫だからね」
拒絶すればクロエが私を無理に襲うことはないことはわかったし、日常的なスキンシップにもなんだか慣れてしまいつつあった。キッチンで抱きつかれたときも殴ろうとまでは思わなかったけど、今度からは凛がクロエを殴る前に、私が自分でクロエを張り飛ばしておくべきかもしれない。
「そうじゃなくて……ただの私のわがままなんです。お姉ちゃんがクロエ様に取られちゃったらと思うと、胸が苦しくて、怒って目の前が真っ赤になって……。私、きっと、お姉ちゃんが好きなんです。すごく、好きなんです。独り占め、したいだけなんです」
凛の目に溜まった涙の粒は、今にもこぼれそうな大きさだった。あの時この子も、どうしようもない衝動に突き動かされたのだろう。私も凛の可憐さに何度見惚れただろう。凛の健気さに何度救われただろう。私だって、凛を誰かに譲る気はない。
「そう。じゃあ……約束しようよ。私と凛はずっとお互いを一番に大切にしようって。恋人になっちゃえばいい」
私自身、自分がずいぶん変なことを言い出したと思った。でも凛と特別な関係になるとしたら、きっとそういうことだろう。私も、凛も、お互いをこんなに好きなのだから。でも、恋人という単語を聞いて、凛が不思議そうに首を傾げる。
「女の子どうしでも、恋人ってなれるんですか」
「なれるよ……なれるんじゃないかな」
眼から鱗が落ちた、というように、凛はぽかんとして目を見開いている。私は凛の頭をそっと抱き寄せた。鉄格子が頭にぶつかって私たちを近づけさせまいと阻むが、私と凛の気持ちをそんなもので妨げることはできない。私が何をしようとしているかに気づいたらしく、凛が目を閉じた。私は顔を近づけて、そっと凛の唇に自分のものを重ねる。鉄格子越しのキスはぎこちなかったが、すべての不安も疑問もすべて溶けていくようだった。
「今のが約束のキス。これで凛と私は、恋人だよ」
歯の浮くような台詞だ。自分のことながら、よくもまあこんな
「喉、乾きませんか」
やがて凛が私の顔を見上げると、ぽつんと言った。散々泣き叫んだからだろう。それにあれだけ涙を流せば、水も欲しくなるに違いない。
「じゃあ水を持ってくるから、ちょっと待っててね」
私はそう言って立ち上がった。離れるのを凛は少し不安そうにしたけれど、頷いて私を黙って見送った。階段を登って上の扉を押してみたが、施錠されているらしくびくともしない。何度か扉を叩いてみたが、返答はなかった。私のこともしばらく閉じ込めておく気らしい。
私は階段を降りてシャワー室に入る。つまみをひねると、シャワーヘッドからたっぷりと冷たい水が吹き出した。水だけはいくらでも手に入る。部屋を見回してコップの代わりになるようなものを探したが、水を溜められるものが見つからない。仕方ないので、シャワーの水を手のひらに受けて水を溜めると、それに口をつけてまず少し自分の喉を潤した。それから、もういちど水を溜めて、凛のところへ急ぐ。でも、歩くたびに指の間からあっという間に水が漏れていく。たどり着いた頃には手のひらの中はすっかり空になってしまっていた。
「ごめん、凛。もう一度汲んでくる」
私はシャワー室に戻ろうと思ったが、凛は鉄格子の間から手を伸ばして私の手首を掴んで引き寄せる。何かと思ったら、凛は水滴がついた私の手のひらに唇を押し付けた。指を一本ずつくわえては口に含み、指の間も舌でそっと舐めていく。その感触はくすぐったかったが、不思議ととても気持ちがよかった。ひと通り水滴を舐め終えると、凛は恥ずかしそうに目を伏せた。
「……もう一回、行ってくるね」
私はシャワー室に行き、再び手のひらに水を溜める。そのとき、もっと確実に水を運ぶ方法を思いついた。私は水をすうっと啜り、少しだけ頬が膨らむまで口の中に水を含むと、凛のいる独房まで歩き出した。
————————
地下では時間はまったくわからない。私と凛は手を繋いで硬い石の床の上に体を横たえ、ひたすら時間が過ぎるのを待った。暇なら凛と互いに体をつつき合って笑った。空腹だったが、あまり気にならなかった。私も凛も、お互いがそこにいれば何も怖くはなかったからだ。そのうち体も汚れてきたが、私だけシャワーを浴びるつもりもない。白いワンピースの汗臭さすら、凛が隣にいる確かな証拠だったのだ。
昨日の話も、明日の話もしなかった。今この瞬間だけあれば十分だったからだ。私が凛の背の低いところが可愛いから好きだというと、凛はもっと背が高くなりたいとむくれた。凛が私の目が鋭くて格好いいというと、私は凛のような丸くて大きい目が良かったと言った。それで、もう褒めるところが見つからないくらい、お互いのことを語り合った。
眠る前と目を覚ましたときにはキスをした。舌を絡めるような深いキスではなかったが、凛はそのたびに自分が今世界で一番幸せな人間だというように目を伏せて優しく笑い、私もそんな凛を見るのがただ嬉しかった。何度も舌を押しこみたい衝動にも駆られたが、鉄格子が邪魔で軽くしか唇が触れ合わない。本当はキスをするたびに、もっと深くしたいという欲求が高まってきていた。私と凛を分断するこの鉄格子がなくなったら、きっと私は凛を潰れるほど強く抱きしめて、凛が恥ずかしがるのも気にせずに凛の体を貪ってしまうに違いない。
————————
何日経っただろう。私が先に目を覚ましてぼんやりしていると、廊下の奥でがちゃりと音がした。こつこつと階段を降りる足音がして、そのうち奥の扉が軋みながら開いてクロエが顔を覗かせた。私は表情からクロエの機嫌を読み取ろうとしたが、クロエの口元はただ緩やかに結ばれているだけだ。
私が凛の肩を強く叩くと、凛は目をこすりながら体を起こした。少しのあいだ私の顔を見て呆けていたが、近づく靴音を聞いてすぐに状況を理解したのだろう。はっと息を呑むと、私の手をいっそう強く握りしめた。凛の汗か、私の汗か、手のひらは熱いのに、その上を冷たいものが伝っていったのがわかった。
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