第三話 ほかに方法が思いつかなかったこと

 鉄格子のそばにいつの間にか置かれていたナイフの刃は、先端が欠けていなかった。最初に手渡されたナイフは私が折ってしまったから、これは私が穴に捨てたものとは違うものだとわかった。たぶん同じデザインのものがたくさんあるんだろう。


 めぐみちゃんは再び現れたナイフを見て、とても怯えていて、またナイフを捨てて欲しがった。でも、もう私はナイフには触りたくなかった。きっと、もう一度捨てても、たぶんまた誰かがナイフを持ってきて、そこに置くんだろう。そういう答えは、許してくれなかった。それだけは、私にもわかった。


「じゃあ、私じゃなくて、その金髪の女の人を殺してよ」


 慈ちゃんの言葉に、私は首を横に振った。あれから金髪の女の人はいっこうに現れなかったから。それに、私があの女の人を殺すのなんて、ぜんぜん出来る気がしなかった。あの人は私よりもずっと体が大きかったし、怒らせたら私のほうがあっという間に殺されてしまう気がした。


「おなかかない?」


 慈ちゃんがそう言ったときにはじめて、私も自分がとてもお腹を空かせていることに気が付いた。慈ちゃんを殺せば食べるものをくれる、とあの女の人に言われたのも思い出したけど、それを言うのはやめた。慈ちゃんをまた怖がらせてしまうだろうから。


 私は助けが来るまでずっと待っているつもりだったけど、そういうわけにもいかないことにも気づいた。待っていれば、いつかきっと警察の人たちなんかが見つけてくれるんじゃないかと思ったけど、食べるものがないから、その前にお腹が空いて死んじゃうかもしれない。もしこのまま慈ちゃんが死んでしまったら——そのとき私は、あの金髪の女の人に助けてもらえるのだろうか。それとも、『殺せ』なかったから、駄目なのだろうか。もしどうせ死んでしまうのなら、殺してしまうほうが私が助かると思ったけれど、それは想像するとあまりに怖かった。


 それから、いったい何時間が過ぎたのか、ぜんぜんわからない。お腹が減ってきたからなのか、私たちはどんどん口数が減っていった。


 しばらく慈ちゃんの声を聞いていないなと思ったら、慈ちゃんは隣で石の壁にもたれて、目を閉じて眠っていた。私は時々横になっていたけど、慈ちゃんはずっと鎖にぶら下がったままの姿勢なので、きっととても疲れているだろう。私よりももっと弱っているのがわかった。もし間に合わなくなりそうだったら、そのとき私は慈ちゃんを殺せるだろうか。練習、してみようか。そう思って私は、鉄格子のそばに置かれたままだったナイフを、あれだけ触りたくなかったナイフを、拾い上げた。


 どこを刺したらいいのだろうか。確か人間には首に太い血管があって、そこを切られると死んでしまうと聞いたことがある。でも、もし慈ちゃんが首を動かしたら、顎や頬にあたってしまうかもしれない。首がうまくいかないなら、心臓のところを刺せば、人間は死んでしまうはずだ。 


 胸に刺す場合は、服がじゃまでうまく刺さらないかもしれない。やったことはないから、よくわからない。慈ちゃんを起こさないように、そっとシャツをまくり上げてみた。そっとめくったつもりだったけど、慈ちゃんははっと目を覚まして、それから私の右手にナイフが握られているのを見て、がくがくと震え始めた。それはもう恐ろしさで声も出ないという様子で、私を見ていた。


「違うの、練習しようと思っただけ」


 言ってみてから、それがぜんぜん言い訳になっていないということに気付いた。慌ててナイフを元の場所に戻してから、また慈ちゃんによく説明しようとそばにひざまずくと、ぴちゃりと音がして膝が何か生温いものを踏みつけた。鼻に、つんとした匂いが届く。どうも慈ちゃんは漏らしてしまったらしい。私のせいだ。


「……お願い、殺さないで」


 慈ちゃんはかすれた声でそう言った。私は殺すつもりはなかったと説明しようとしたけど、本当にそのつもりがなかったのか、やがて自分でもよくわからなくなってきた。だって、慈ちゃんがお腹が空いて死んじゃうくらいなら、私が殺してしまったほうがいいってことに気づいてしまったから。でも慈ちゃんの怯えた様子を見て、私もなんだかとても怖くなってきて、ごめんねと何度も謝った。慈ちゃんは謝られるたびにむしろ息を呑んでいたけど、しばらくしたら落ち着いてきたようだった。


 また私たちは、ぼーっと助けを待ち続けた。そのうち、慈ちゃんがもぞもぞと動くので、どうしたのかと聞いた。


「……太ももが痒い」


 太もも、と言っていたが、痒いのはどうも下着のしたらしい。濡れたままだったので、それで痒くなってきたようだ。なんだか悪い気がしたけど、元はといえば私のせいだ。スカートの下から手を入れて代わりに掻いてやると、慈ちゃんはほっとしたような顔をした。それから、恥ずかしくなったのかぽろぽろと涙をこぼし始めた。私もなんだか悲しくなってきて、慈ちゃんにぎゅっとしがみついて一緒に泣いた。



 もう何十時間、いや何日経っただろう。何もしないで待ち続けている時間は、実際よりもずっと長く感じるものだ。もうとっくに話すこともなくなって、ふたり並んで壁にもたれかかってぼんやりと座りこんだままだった。


 私は部屋の隅の鉄格子の上で用を足していたが、慈ちゃんは鎖に繋がれて動けないから、もう慈ちゃんの服はぐちゃぐちゃに汚れていた。あたりには強烈な匂いが充満していて、そのせいで私も慈ちゃんも何度か吐いた。ただし、もう胃の中はとっくに空になっていて、酸っぱい匂いのするものをわずかに吐き出しただけだ。空気は湿っていてそれほど喉は乾かなかったけど、それでも喉が渇いた時には、ひやりとした壁についた水滴を舐めた。


 慈ちゃんはもう目に見えて弱っていた。鉄の輪がはめられた手首は紫色になっていたし、顔をあげることも少なくなっていた。慈ちゃんには何も言わなかったけど、私はとにかくお腹が空いて仕方なかった。というか、もうお腹が空いたという感覚はとうに通り越していたのに、なぜか考えるのは食べ物のことばかりだった。そして、あの女の人の、食べ物をくれるという言葉を何回も心のなかで繰り返した。ただし——『殺したら』。


 何か口に入るものが見つかれば、草でも虫でも食べてしまったかもしれない。でも、わずかなホコリも苔も見つからなかった。慈ちゃんのおしりの下に広がるドロドロとしたものは、たぶん口にしたらすぐに吐き戻してしまうだろう。


「ねえ、慈ちゃん、生きてる?」


 大丈夫、と聞けば良かったかもしれない。それじゃまるで私は慈ちゃんが死ぬことを期待しているみたいだから。慈ちゃんはゆっくりと頭を上げて、こくりと力なく頷いた。その様子をみて、慈ちゃんはもうすぐ死ぬ、そう思った。私も、もう耐えられない。空腹も、悪臭も、あてもなく待ち続ける時間も、慈ちゃんが死んでしまったらという不安も。私は鉄格子のそばまで這って行って、ナイフを拾い上げた。ナイフをちょっと傾けてみると、それは暗闇の中でもギラリと鋭く光った。


 私は試しに自分の手のひらをナイフでつついてみた。ちくり、と鋭い痛みが走って、わりと軽い力だったのにすぐに血が滲んできた。ナイフはとても鋭いようだった。


 慈ちゃんは私がナイフを手にとったことに気づいたようだった。恐怖のあまりなのか、もう力が残っていないのか、呆然と私を見つめている。だって、お腹が空いた。怖いのは私だって同じだ。仕方ない。誰が見たって、こうするしかない。先に謝っておこう。死んじゃったら、たぶん、もう聞こえないから。


「ごめんね、慈ちゃん」


 私がそう言うと、慈ちゃんは顔をひきつらせた。目を見開き、ぴくぴくと唇を震わせている。私が慈ちゃんのそばまで這って行くと、まだそんなに力が残っていたのかと驚くほど激しく体をねじり、とても重たい鉄の塊の鎖をがちゃがちゃと鳴らして逃げ出そうとした。でも慈ちゃんは今いる場所から一歩も動けてはいなかった。


 もしこんな状況じゃなかったら、私は決して慈ちゃんを殺したりはしないだろう。きっと、ずっとずっと、学校を卒業してからも友達で、それから大人になってからも友達だっただろう。私は特別残酷なわけでも、特別悪い人だというわけでもないと思う。ただ、いろんな運命みたいなものが、うまく行かなかっただけだ。私はナイフを両手で握って自分の右胸の前あたりに構えると、狙いをつけて、それから目をつむって身体からだごと慈ちゃんの上にのしかかった。

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