最終章 母と子のこれから

第32話 喜潤が決めたこと

 獣?


 そう自分は獣だ。だから、人に馴染まなかった。誰かと一緒にいるのを嫌がった。

 人でない自分の心の内を見られたくなかった。


(飾のことが好きなんだ)


 飾は母だ。

 もう一人の母。自分を産んでくれた女性。それを知ってもなお喜潤は飾のことが好きだ。


 肉親的な愛情ではない。もっと踏み込んだことがしたい。


(飾は母だ)


 それは人が持つ心ではない。その背徳は人道を外れた者の想いだ。

 そう、喜潤は獣なのだ。だから、飾に向き合える。


 同じだから。自分だって獣なのだから、彼女を非難することはできない。

 ずっと一緒に暮らせていた。だったら、これからも出来るはずだ。


(父さん、母さん、ごめん)


 どういう理由にしろ飾は父と母を食べた。

 喜潤の血の元になった二人を食べた。

 でも、喜潤はそれを不気味とも怖いとも思えない。あんなに母に可愛がられたはずなのに、あんなに父に優しくされたのに今、喜潤が必要としているのはその二人を食べた飾なのだ。


 親不幸も極まりないだろう。

 常人ならそんなこと絶対に出来ない。でも、喜潤は出来てしまう。

 自分は人間じゃないから。


(飾、俺も獣だよ。君と同じ獣だ。飾は獣でも、俺には愛する人なんだ)


 そう答えは出た。喜潤は辿り着いのだ。




「喜潤様――」


 飾の声は擦れていた。歪んだ表情は喜潤の顔を見たくないと物語っているようだった。


「ここへ、ここへ来てはいけません」


 飾は喜潤に背を向け圓へ飛びかかる。

 圓は動かなかった。

 

 飾の拳が圓に触れる。

 殴るのもでもなく、当たるのでもなく触れる。それは全く力がなく攻撃とはとても呼べなかった。


「うあぁぁぁ!」


 飾の気迫とは反対にその体はもう限界だった。

 左腕は上がらず、右腕も拳も作るのがやっとだった。

圓の左手が飾の首を掴む。


「うっ。ぐぁ」


 飾はもう抵抗も出来なかった。

 首を掴む手を解こうと持ち上げた手は力なく垂れる。


「飾!」


 喜潤は駆けだす。

 策はない。考えもない。ただ、自分の身体を武器にして相手にぶつける。

 圓を押し飛ばし、飾を抱き上げる。


「しっかりしろ、飾!」

「かはっぁ。はぁはぁ。喜潤様……。私はもう。っ!」

「大丈夫、俺が来たんだ」


 彼女の息は荒い。目の光も弱くなってくる。


「私は、私は、あなた様を守らなくてはいけません。陽士様と……翠様の約束です」

「飾だって、飾だって、俺の母親なんだろ?」

「……そうですね。あなたは十ヶ月もの間、このお腹の中にいました」


 飾は自分のお腹を円を描くように撫でる。


「私は次第に大きくなるお腹と共に喜潤様の存在を感じていました。あなたが生まれてきた喜びはどんな痛みも苦しみにも勝りました。翠様も陽士様も同じです。あなたはみんなに喜びを与えたんです。みんなが喜びに潤ったから、あなたは『喜潤』なんです」


 飾は目を閉じる。

 喜潤の肩に手を置き、力を込める。

 自分の体なのに鉛のように重い。


「守ってみせます。だって、私は、喜潤の『母』だから」

「飾……」


 喜潤は彼女の背中に初めて母の面影を見た。それはとても小さな背中なのに全てを背負えるほど広く見えた。優しさと強さを兼ねた背中だった。


「帰りましょう、喜潤。夕食、まだでしょ?」


 そう言って振り返る彼女。所々に血と疲れが滲む顔であったが、女神のような微笑だった。

 心の内から溢れる輝き、それがオーラとなって飾を煌かせる。そして、彼女の体はそのまま崩れ、落ちていく。


「飾!」


 圓の手が飾の脇腹を抉る。


「ウマイ。うまい、ゾ。お前」

「こんのぉぉぉおぉぉ」


 飾が圓の腕を捕まえる。残った力を振り絞り、それを握りしめる。


「やれ、裂!」


 裂は一瞬迷った。

 飾を巻き込んでしまう。しかし、彼女は決断した。チャンスは今しかない。


「終わりだぁぁぁぁ!」


 構えた右手。

 そこから噴き出る紅蓮の業火。

 地獄の火炎も飲み込むほどの真っ赤な火を薄暗い部屋を真昼へと変える。


 喜潤は肌で、熱を感じながら、飛び出していた。唇が一瞬で乾く。

 炎を潜るように前に出る。

 髪が焼けたかもしれなかった。いや、髪どころではない。背中が熱い。

 それでも指は掴んだ。飾の体を。

 赤々と部屋を彩る炎が身体の届く前にその体を抱きしめることが出来た。


 喜潤は飾を抱いて、部屋の床に転がる。

 その背後で一面の空気すらを焦がすような炎は圓の体を焼いていた。


「うギャぁグァぁあああああ」


 半身が焼かれた圓は床をのたうち周る。

 肉の焼ける臭いが部屋中に立ちこめ、喜潤は吐き気を覚え、咏と裂は唾を飲む。


「アヅイ、いた……イ」


 爛れた皮膚。焼けた体が引きつる。


「終わりだな」


 玄得が歩き出す。


「彼女は大事な研究素材だ。失うわけにはいかない」

「せん……セイ」


 玄得は圓に肩を貸し、立ちあがらせる。


「逃げるのかよ」


 二人の前に立つ裂。玄得はそれに動じず、


「足が笑っているぞ。無理するな」

「無理なんて」

「なら、圓とまだ戦うか?」


 玄得の肩に身を預ける彼女の眼からは光は消えていない。

 荒い息は抑えられない食欲の表れだ。

 そんな圓に裂一人でまだ戦えるか。それに飾の傷もある。末人とは言え、彼女も治療しなくては命が危ない。


「失礼させてもらう」


 玄得は裂の横を抜けていく。裂は歯ぎしりしてそこを堪えて置く。


「元気になったら、また戦おう。今度はこちらから出向こう」


 玄得は最後に楽しそうに言い残した。


「裂! 飾が、飾が」


 喜潤は悲痛な叫びを上げる。

 裂の火焔に巻き込まれないようにとっさに飾を助けた。

 飾の身は焼かれなかったものの傷口が大きく開いている。


「わかってるよ、咏」

「うん!」


 三人で力を合わせ、飾を抱き上げる。

 その間、飾は虚ろな目で何事か呟いていた。

 思いだすように巡るように。

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