第28話 獣と人と

 血の匂いがすごい。

 外から見た時は普通の一軒屋だったのに、中に入ったら屠殺場のようだ。

 

 鼻を塞ぐような血の香りと死の雰囲気が身体を包む。

 一歩踏み込む度に濃くなるそれは喜潤に吐き気を絶え間なく起こさせる。

 目の前を顔色一つ変えずに歩いていく二人はやはり喜潤との違いを思い知らせる。


「大丈夫か? 顔色悪いぞ」


 振り返った裂が声をかける。


「ちょっと休憩するかぁ」


 裂は喜潤の返事を待たずに座りこんで、壁に背中を預ける。

 喜潤も意地を張るつもりはなかった。狭い廊下、裂の向かい側に座る。

 身体の中にある淀んだ息を吐きだし、顔を上げる。


「血の臭いつらくないのか?」


 聞かずにはいられない。話をして気分を紛らわせたいこともある。


「……それはないよ」

「うん。すっごく良い香り」


 二人は平然として言う。

 喜潤は吐きそうなほど気分が悪いのに裂も咏も目を輝かせている。

 まるでこれから遊びに行くようだ。


「咏は姉妹とも戦わないといけないんだろ? 大丈夫なのか?」

「……うん」


 咏は曖昧に頷く。


「姉妹って言ってもあんまり実感ないかな? ご飯を一緒に食べることもなかったし。咏はずっと一人だった」

「……」


 咏の目はどこを見ることもなく、泳いでいた。久しぶりに帰ってきた我が家なのに懐かしむ様子もない。

 姉妹であろう他の末人達の心配もしていない。

 咏にとってここは居場所でなく、ただの身を置いていた箱だったのだろう。


「喜潤、こっから先は人間の領域じゃない。それでも本当に行くのか?」


 裂の眼は真剣だ。

 喜潤の気分が優れないせいか歪んで見える。


「裂は末人を食べないだろう? おばあさん、玲子さんから聞いた」

「そのつもりでは、あるよ」


 裂の言葉が濁る。


「でもさ、どうしても我慢できないってことあるだろう? 食べるなって言われてもさ、死にそうなほど腹減ってたら食べちゃうだろ。オレは末人を食べないって決めてはいる。でもこれだけ、良い香りがしたら……わかんないよ」

「……」


 黙っている咏も同意見なのだろう。そう、この家の中は人間の領域じゃない。

 裂が言うように喰うか、喰われるかの生存を賭けた戦いなのだ。

 まさに獣の領域なのだ。その領域に飾がいる。

 今は裂も咏も喜潤と変わらないように見える。しかし、ここから先彼女達がそのままである保証はない。

 人間である喜潤が彼女達についていけるだろうか。


「……行こう」


 二人を抜いて喜潤は歩く。ここまで来てもう戻らない。


「そうだな」

「うん!」


 二人の少女もそれに続いた。






 飾はソレを見下ろしていた。

 見れば見るほど哀れに見える。


 彼女は明らかに怯えていた。

 千切れた手首を固くタオルで縛り、止血をしている。

 治療の痕跡はない。見捨てられたということか。


「あうあが! いあうあああああ! あぎゃああああああ!」


 体を震わせながら、言葉にならない声を上げて飾を必死に威嚇している。


「あうぅあああ、いああ……」


 そのくせ、飾が身体を動かすと背の壁に身を寄せて逃げ道を探る。

 彼女が最後に縋った一枚壁が逃げ道を作ることはありはしないのに。


(嬲るのは趣味ではありません)


 見てはいられなかった。

 一歩近づけば泣きだし、声を一層大きく上げる。


「あぐあああああああああぎいいいいいい!」


 自分の強さを誇示し、近寄らせないようにしているのか、


「あうあ、あうううううぅううあぅぁぁぁ………」


 助けを呼んでいるのか、


「うううぅううううわぁああうぅぅぅぅぅ」


 助けを請うているのか。

 既に言葉を喋らない以上、どうにでもとれた。


 飾は迷わずに、刀を一閃する。

 横に払われた刀身は彼女の首を一断し、飾の腰に戻る。

 飾の目の前で天井を染めるほどの血飛沫が上がる。

 断ち切られた首は足元に転がってきた。

 床に広がった血海の中で遊び回ったため、表情を知ることは出来ない。


 残ったのは肉、肉、肉。

 何の意志を持たない柔らかい塊だ。


 飾は少し休憩を取る。

 空は気を利かせて飾を一人残してくれた。

 飾の意識は朦朧としていた。


 我慢の限界だった。

 これだけまでに立ちこめる誘う香り。ここはまさに楽園だ。

 どこを見ても食べ物がある。

 体が空腹を訴え続けている。


 刀についた血。べっとりとしたそれに飾は舌を這わせる。

 舐めただけで、体がその美味しさに癒されていく。

 これそこ自分が求めている味ではないか。

 そもそもなぜ、こんなにも自分を律する必要がある?

 食べることはどんな生き物でも持つ自然の摂理。それの否定は生の否定だ。しかも自分は末人。同じ末人を食べるために生まれた存在だ。その存在を根本から否定するのか。


(ニンゲン)


 飾は自分のことを人間だと思いたかった。

 喜潤と暮らすためにも獣にはなりたくなかった。

 もし自分が獣なら喜潤は――。


 いや、もういいのだ。

 自分は喜潤と別れると決めた。

 この戦いが終わり、真実を告げることになれば彼とは袂を分かつことになる。

 そうなれば飾が人間の生活をすることもないだろう。どうせ、遅いか早いかの差だ。


 獣の道を選んだ自分の何を今更、律する必要があるというのだ。

 人間の時間はもう捨てた。もう自分は人の皮を被らなくてよいのだ。


「くっ」


 刀を振り切る。

 首のない死体は胴体を上下二つに割る。零れ出す内臓。


 飾は迷わずにそこへ顔を突っ込む。

 水をがぶ飲みするようにその肉を口の中へ中へかっ込んでいく。

 うまい、うまい、ウマイ。


 空はたいしてうまくないと言っていたが、それは誤解だ。

 飾にとってはこんな物でもご馳走に値する。それだけ飾の口は汚れていた。飢えていた。

 押さえていた衝動。ずっと我慢してきた。二十年間最早限界だった。


 あの夜、あの時。

 飾の目の前に転がった死体。

 法に則りそれを処理したら、自分はどうなる? 喜潤はどうなる?

 だから飾は片付けた。絶対にばれない自分だけにしか出来ない方法。

 今と同じように

 自分が親と慕っていたモノを。自分を娘と可愛がってくれたモノを。

 

 忘れもしない味。

 アレはとても不味かった。

 泥のような味。ねばつき口の中にいつまでも苦味が残る。

 それに比べれば今、味わっているモノは極上の食物だ。


 あの時は何度も吐きそうになった。

 味もしない固い骨。ぶよぶよとして歯応えもない肉。苦くて渋い内臓。

 どれをとっても不味くて口に入れられるものではない。

 良く知ったものなのに味は最悪だった。


 吐き気が止まらないそれでも食べなければいけなかった。でなければ、夜が明けて元の生活を送ることはできない。喜潤を守ることが出来ない。だから、食べた。他でもない喜潤のために。


 飾はこれを罪だと考えた。

 人成らざるものが、人に成ろうとした罪。そのせいで一人の子どもを、二人の人間の運命を壊してしまった。その大罪を飾は負った。


 飾が人であろうとする限り、この味は決して忘れない。

 飾は今、血肉となった二人に代わり、幼い喜潤を育てていかなくてはいけない。

 喜潤は飾の子ではない。喜潤は人間だ。

 ここでを喰らうような獣とは違うのだ。違うのだ。


 末人の肉はいくら食べても満たすことはない。

 食べても食べてもまた食べたくなる。今まで押さえてきたせいもある。

 特にこの一カ月。自分の前に何人も末人が現れた。何度も彼女達の血の香りを吸った。


 理性という鎖で自分を律していた飾。それも今日までだ。

 この程度の味で満足するほど自分の舌は貧弱していた。この程度のモノを旨いと感じるなら本物はどれだけ自分を満たしてくれるだろう。

 味を想像するだけで体が暖かくなり、表情が恍惚とする。


「くっふふふふ」


 自然と笑いが漏れた。内側から食欲の衝動が身体を叩く。

 飢えを満たすだけでなく、心を満たしたい。気持ちよくなりたい。

 体を掻き立てる狂乱。

 我を忘れ、残った死肉を貪る獣。その背中を呼ぶ声があった。


「飾!」


 現実に引き戻される意識。飾は顔を上げ、ゆっくり振りかえる。


 彼は、彼はそこにいた。

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