第16話 獣と獣の面談
その日、珍しく飾は服装に困っていた。
喜潤の面談へ赴くのにいつものエプロン姿というわけにはいかないだろう。とはいっても飾はそれほど衣装を持っているわけではない。ここは無難にスーツがいいだろう。
喜潤とは学校で待ち合わせることになっている。場所は大丈夫だ。
最悪の事態を考えて、今までも喜潤の行くところへはすぐに駆けれるように準備をしてきた。
黒いスーツをピッタリと着るのは何年ぶりだろうか。随分懐かしい感じがする。
(ああ、あの時、以来でしょうか)
小学校の入学式。六年という長い期間にまだ幼い喜潤が自立しないといけない学校生活。さすがの飾も不安になって、入学式に学校へ様子見を兼ねて同行した。
各方面に頭を下げたり、釘を刺したりして憂いを払ったら後は安心して六年間喜潤を預けられた。
あれ以来、飾が喜潤のために学校へ出かけることはなかった。
喜潤は聡い子だ。色んな事情を読み取ってくれる。それに飾は今まで甘えていた。
(喜潤様はもうずっと前から大人になっていたのですね)
これはきっと最後に自分が果たす喜潤の大人としての役になるだろう。だから、これからの喜潤のために障害となるようなことはしたくない。
時間になり、飾はパンツスーツを着込んで、学校へ向かう。ピッタリとするパンツ姿でも結構恥ずかしいのに短いタイトなスカートはさすがに履けなかった。
喜潤は校門の前で待っていてくれた。
飾も学校の中までは詳しくは知らないので、喜潤の気遣いに感謝する。
「お待たせしてしまったでしょうか?」
「い、いや。大丈夫だよ。ずっと学校にいるんだし」
「……そうですか」
喜潤は飾から逃げるように目線を逸らしている。
飾は今まで振り払っていたはずの不安に襲われる。
「服、変でしたでしょうか……」
「い、いや、変じゃないけど、不思議だなーって」
「そう、ですか?」
「いや、俺が家にいる飾しか知らないから戸惑っているのかもしれないけど」
「スーツを着たのは初めてではないのですが」
「ああ。覚えてるよ。えっと、小学校の時だったよな」
「覚えてらしたんですか?」
「ああ。なんか忘れられなくて」
飾は少しだけ嬉しかった。
喜潤の記憶の中に自分の居場所はあるのだ。
漫然と流れる日常の中にあった一片の変化。
それを喜潤はしっかりと覚えてくれていたのだ。
教室の前に着くと頃合いの良い時間であった。
「あ、雨宮君」
空が教室の外で立っていた。
「これから面談?」
「ああ。九佐木はもう終わったのか?」
「うん。もう帰るよ」
ちらりと空は喜潤の背中に控えている飾を覗く。
「へぇー。この人がうわさのお姉さん?」
「あ、ああ。まぁそうだな……」
「ふーん。……きれいな人だね」
空はそれだけ言って、廊下を歩いていく。
飾はその背中を見て、違和感を覚える。
(気のせいでしょうか)
匂いがする。甘い匂いが。
この匂いは飾を狂わせる匂いだ。猛烈な空腹を呼び、獣の本能を呼び寄せる。
(でも、こんな所で)
楔を外すわけにはいかない。それに気のせいだ。飾の勘違いだ。出会うはずない。
学校という場所に自分と同じモノがいるわけないのだ。
「飾? どうしたんだ?」
教室のドアに手をかけていた喜潤が不思議そうな顔をする。
「いえ、なんでもありません」
飾は気を取り直し、喜潤の後に続いて教室へ入る。
教室は面談用に整えられていた。
中央に向い合せで並べられた机が四つ。あとの机は後ろに全てまとめられている。
喜潤の担任である繕は奥の席に座っていた。
喜潤と飾が教室へ入ると、立ち上がり深々と頭を下げる。
「忙しい中、ありがとうございます」
「どうもはじめまして。飾です」
飾も繕に合わせるように頭を下げる。
「さぁどうぞ、座って下さい」
飾は促されて喜潤と一緒に席へ着く。自然に飾は繕と向い合せに座る。
「うんうん。あまり緊張なさらないで下さいね。雨宮君は大変優秀で、特に問題点はありませんから」
「それはよかったです」
飾の意識は別の場所にあった。
さきほどからする甘い匂い。強くなっている気がする。しかし、こんな所でそれがあるはずがない。飾は必死に自分に思い違いだと暗示をかける。
飾をよそに繕は話を進めていく。
喜潤の成績の話を皮切りに進路の話。
今のままなら国立大学は安心して行けると。生活面でも問題はなく、内申点も良いと。
それは飾が予想していた話であった。
喜潤に限って何か問題を起こすことは考えずらい。
わざわざ飾が来たわけではあるが、彼女が心配するような話はされないだろう。
飾としてもそれを確認しにきたに過ぎない。
「ただ――」
繕の声のトーンが落ちる。
「あまりお話に上げたくはないのですが、私はご家庭の心配を実はしてるんです」
「家庭、ですか?」
「はい。喜潤君は飾さんがいるとはいえ、ずっと一人で暮らしているんですよね? ご両親はこちらへ帰って来られることはあるんですか?」
「喜潤様のご両親はお忙しい身でありますので……」
「そうなんですか。喜潤君は? 寂しくない?」
繕は飾から喜潤に視線を向ける。喜潤は特に動じず、
「寂しくなんて。もうそれが当たり前ですし、俺も子供じゃないですから」
「うんうん。そっか。喜潤君ってしっかりしてるね」
繕は満足したようだ。広げた書類を畳み、机の上を綺麗にしていく。
「うんうん。今日はありがとうございました。これからもよろしくお願いしますね」
一仕事終え、飾はほっと息を着く。喜潤と一緒に廊下へ出ようとしたが、
「あ、保護者の方は残って頂けませんか?」
「私ですか?」
「はい。手身近に済みますので」
一瞬、繕が笑ったような気がした。それも方唇だけを釣り上げる不気味な笑いだ。
「大丈夫だよ、飾。先に帰ってる」
喜潤は気付いてないようだ。ならば、飾の思い過ごしか。
極度の緊張にあり、疲れているのかもしれない。後、もう少しだけだ。
「わかりました」
飾は再び、繕の向かいに座る。
監督者だけの話とは何だろうか。P TAとかそういった話だろうか。
飾が訝しんでいると、
「うんうん。もういいかな?」
「何が、でしょうか?」
「飾さんとは一度、本音で話し合いたかったの。同じモノとして」
「同じ? まさか!」
「うんうん。その考えで正解ですよ」
今度ははっきりとわかった。
繕の浮かべた笑顔。その示す意味。先ほどから漂っていた香りはこういうことだったのか。
「くっ」
飾は立ち上がろうとするが、繕が机を蹴り上げる。
浮かび上がった目の前の二つの机。その下を繕は掻い潜り、距離を取ろうとする飾の首根っこを掴む。
「なっ」
そのまま飾は頭を繕の真下まで引き摺り寄せられ、身体を倒される。
蹴り上げた机は垂直に落ち、飾を押さえるように足から体の上に落ちる。
見上げると繕のニヤニヤと笑う顔が目を覆う。
大の字に広がった飾の体は机の足の間から手足を伸ばし、そのまま拘束される形になっている。
繕が首を掴んだままなので、一切の身動きがとれない。
「うまくいったかな」
「な、なんのつもりですか」
「つもりも何も私達のやることは一つじゃないかな?」
「こ、こんな所で私を食べるつもりですか」
飾と繕がいるのは学校の教室だ。
確かに繕のフィールドかもしれないが、ここでは普通の生徒達が過ごしている。
飾を抑える机だって、彼らのものだ。そんな所を血で汚すつもりなのか。
「ひ、人が来ます。ここは学校ですよ」
「うんうん。今は面談期間で生徒はほとんどいないよ。他の先生も職員室かな」
喜潤に助けを求めるべきだろうか。
声を出せばまだ届くかもしれない。しかし、喜潤を巻き込んでいいのだろうか。
繕の目的は飾だ。
飾が喜潤を呼べば彼も巻き込むことになるかもしれない。
繕が飾を遠慮なく食すつもりなら、助けにきた喜潤だって無事ではすまない。
「私を食べたいなら、静かに食べてください。喜潤様にわからなように」
「うんうん。随分素直だね。もっと抵抗すると思ったのに」
「喜潤様にご迷惑はかけられません。ですが、もしあなたが私と約束出来ないなら」
飾は決して諦めたわけではない。
覚悟したのだ。食べられること。戦うこと。
繕が飾を食し、関係ない喜潤にこれから様々な害を及ぼすなら、指一本になってもその肉を抉るつもりだ。
素直に血肉なるつもりは微塵もない。
「食べられちゃったら、そんなことわからないと思うけどね」
「それでも私はやります。あなたの血肉なったら、内側からでも苦しめます」
「うんうん。その覚悟は嘘じゃないみたいだね」
繕の手が緩む。締め付けられていた飾の体に空気が流れ込んでくる。
「誤解しないでほしいけど、私は食べるつもり初めからないよ」
「では、なぜこのようなことを」
「うんうん。その前に私の立場を話した方がわかりやすいかな」
繕の手は完全に飾の首から離れる。しかし、代わりに足が机を押さえ、飾は自由には動けない。
「今の私はね、すごく楽しいの。先生をして、授業をして、生徒のことを考えて。私はこの暮らしを壊したくない。飾さんならわかるね?」
「つまり、騒ぎは起こすな、と」
「うんうん、正解。私はもう末人に戻るつもりはないの。だから、あなたが私に牙を向くことをしなければ、このまま教員と保護者ということでお付き合いしたいな」
「それは私も同じです。私には喜潤様をお守りする役目があります。その本命を忘れることはありません」
「うんうん。なら、私達は同じ陣営だね」
不意をうたれたとはいえ、繕は相当な実力者だ。
飾自身も自覚はあるが、戦いや狩りはそれほど得意ではない。
繕を飾や喜潤にとって危険と判断しても排除できるのは難しい。
繕に敵意がないなら、飾はそこに乗るしかない。
「一つよろしいでしょうか?」
「うんうん。いいよ、いいよ。いくつでもいいよ」
「あなたは自分のことを人間だと思っているのですか?」
「うんうん、もちろんだよ。すごい力があっても、年をとらなくても、私はもう人間だと思ってるよ」
「そうですか」
「私からもいいかな? 飾さんは末人を食べたことがある?」
「ありません」
「一口も?」
「はい。まだ末人はありません」
「ふーん」
「あなたはあるのですか?」
「もちろんないよ」
二人の言動の根拠を信じるものは何もない。
ただ、飾には繕の発言を信じないとしても打つ手はない。
繕に飾は勝てない。これは揺るぎない事実だ。今は飾は繕に従うしかない。
「うんうん。聞きたいことはもう終わりかな? 終わりなら私達は不可侵条約ということで。いいかな?」
「わかりました」
飾を長らく拘束していた机が取り払われる。
飾は机の下から這い出し、埃を落とす。
飾にとって繕と出会ったことは全くの予想外であった。しかし、一方で彼女の中である決断も出来た。それだけは今回の収穫といっていいかもしれない。
「もう一つだけ、聞かせて頂いてよろしいですか?」
「うんうん。いくつでもいいよ」
「どうして、それほどまでの力を?」
繕は末人を食べたことがないと言っていた。ならば実力は飾と同じくらいのはずだ。にも関わらず、飾は何も出来なかった。本当に繕は無食だというのだろうか。
「鍛えたから」
簡潔に彼女は答える。
証拠だよ、言わんばかりにシャツを捲り上げて、自身の腹筋を見せる。
青いブラジャーの下に見える繕の腹部は見事に割れている。無駄な肉がなく、まるで鋼の盾のようだ。
飾も腹が出ているということはないが、ここまで鍛えているわけではない。
「ありがとうございました」
感謝の意を示すつもりはなかったが、自然と言葉が出た。
まだまだ自分には足りないものがたくさんある。それを教えられた気がしたのだ。
繕はクスリと笑い、
「どういたしまして」
穏やかに飾を送り出した。
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