第34話 三人の家族はこうして崩れた

 その提案を初めにしたのは陽士だった。


「代理母ですって?」


 翠は顔をしかめる。


「ああ。今はそういう方法もあるらしい」

「認可されている方法じゃないわ。安全性、倫理、色んな問題があるわよ」


 翠は明らかに賛成できかねる様子だった。


「だいたいどこに私達の代わりにお腹を貸してくれる人がいるのよ。非現実的だわ」

「そう、だな。ただ俺はお前が子どもを欲しそうにしてたからさ」

「……」

 

 翠は黙り込む。

 彼女は子宮の病気で、子どもを産むことが出来なかった。

 陽士はそれを気にすることはなかった。しかし、翠は女としての欠陥に負い目と後ろめたさを感じていた。


 彼女は女としての道を捨てて、研究者になることを決めた。

 そんな彼女にとってを作るイヴ計画はとても魅力的であった。

 子の母に成れなくても人の母に成れる。

 彼女は女を捨てた後悔があった。母という存在をいつも羨んでいた。

 計画に携わった翠は陽士と出会う。翠は女になり、飾という娘を手に入れた。


 飾を連れ出すという作戦を立てたのも翠だった。

 彼女にとって飾は娘でここは小さな家庭なのだ。

 彼女が手に入れることが出来なかったものは今ここにある。


「私はもう母親よ。子どもは飾がいる。他の子なんて考えられないわ」


 翠は立ち上がる。


「飾、何か手伝えることある?」


 飾は夕食の準備をしていた。

 翠は家事が駄目で代わりに飾がいつも家を回していた。


「あ、翠様。では配膳を」

「もう飾、お母さんって呼んで」

「そんな、そんなことは……」

「もう飾は固いんだから」


 聞こえてくる二人の会話。そこからは確かに親子の愛を感じた。

 ぎこちなさはあるものの二人は二人を愛し、必死にそのぎこちなさを埋めようとしていた。親子に成ろうとしていたのだ。


 陽士は自分の提案を一旦は伏せる。

 余計な気遣いだったかもしれない。

 今の翠は飾を十分に愛し、がんばって親になろうとしている。

 彼女はもう立派な飾の母親だ。例え血が繋がらなくても、人間ではなくても。


 飾がそれを実行したのは母である翠を少しでも喜ばせたかったからだ。

 翠のおかげで自分は生きている。その恩返しをしたかった。

 自分に出来ることなら何でもしたかった。


 飾は翠へのほんの小さなプレゼントのつもりだった。


 飾は翠を説得し、ついに二人の受精卵をそのお腹に宿す。

 のちに喜潤となるその卵は順調に育っていた。しかし、喜潤がお腹の中で大きくなるにつれ、家庭の歪み、軋みも大きくなっていた。


「ねぇ、飾、夕飯は何がいいかな?」

「翠様、お料理は私が」

「大丈夫、大丈夫。私だって勉強したんだから」


 ある日の夕食。

 翠は腕まくりをしながら台所に立つ。


 飾はその様子を見て、慌てて立ち上がる。そのお腹ははっきりとわかるほどに大きくなっていた。


「飾は安静にしてないと。包丁で切って、フライパンで焼くだけでしょ? 誰でも出来るよ」

「確かにその通りですが……」


 翠はニコニコしながらまな板の前に立つ。

 飾は不安そうにその様子を見守る。

 

 翠は研究と勉強一筋の人間だ。家事などしたことない。少なくとも飾がこの家に来てから見たことなかった。

 案の上、言葉とは裏腹に翠の手捌きは散々だった。

 野菜炒めを作るだけなのに、ニンジンの皮も剥けず、玉ねぎも均等に切れない。


「いたっ」

「だ、大丈夫ですか!」

「あははは。手、切れちゃった……」

「すぐに手当しないと!」

「いいって、いいって。これくらい」


 翠は怪我の手当てを拒んだが、さすがに台所を任せることは出来ない。


「翠様、座っていて下さい」

「う、うん」


 翠ももう無茶を主張しなかった。

 代わって飾が台所に立ち、今までの翠の苦戦が嘘のように料理を仕上げていく。


「飾? 何やっているんだ?」


 台所には陽士も入って来る。


「陽士様、夕飯の用意を、と」

「飾、お前は妊娠しているんだ。安静にしてないとダメだろ。俺がやる。何をすればいいんだ?」

「そ、そうですか。では――」


 飾と陽士が並んで台所に立つ。

 翠は二人の様子をダイニングテーブルの前で眺めている。自分もそこへ加わりたかったが何をしていいのかわからない。ただ眺めているだけだ。


「ね、ねぇ、陽士。私、指を切っちゃたんだけど……」

「おいおい、大丈夫か?」


 翠は少しだけ嬉しそうに笑う。


「うん。大丈夫だよ。そんなに深くないしさ」

「全く。居間に絆創膏があるから」

「え?」

「ここはいいから、向こうで怪我の治療をしてろって」

「……」

「翠様、やはり私がお持ちしますね」

「飾、大丈夫だよ。翠だってそれくらい出来る」

「で、ですが」

「ううん。いいよ、飾。ありがとね」


 翠は血の滲む指を庇いながら廊下に出る。

 一枚のガラス戸越しに仲の良い掛け合いが聞こえてくる。


 翠は知らない内に自分の唇を固く噛んでいた。

 指の傷。小さな傷なのにひどく痛んだ気がした。





 身重になる飾を陽士が気遣い、何も出来ない翠はただ様子を心配するしかない。

 疎外感、孤独感が翠を蝕む。

 自分の子どものはずなのに。自分は痛みも苦しみもなく、喜びもない。

 自分だけが蚊帳の外に置かれ、取り残されていく。


「ベッドはどこへ置くべきかなー。おむつはどうしよう」

「おもちゃはまだ早いでしょうか?」

「うーん。ミルクも心配だな。あ、そ、そのさ、飾はその……」

「どう、しましたか?」

「い、いや。なんでもない……」


 喜潤のために話合う二人を翠は陰から見つめていた。

 自分も何かしたい。

 産まれてくる子どものために。自分の血を分けた自分の子どものために。


(あの子は私の子ども。飾は預かっているだけ。私の子ども。子ども。私の子ども。私が母親。私は母親。母親になったんだ)


 翠は膨らむ飾のお腹を見ながら暗示するように心の中で繰り返す。


(渡さない。絶対に渡さない。私の子ども。渡さない。母親は私。絶対に渡さない)


 大切なものを全て、全て飾に奪われていくようだった。

 翠が築き上げたはずの物。大切にしていた物。全てが翠から飾の手に移っていく。


(アイツの好きにはさせない。私は守って見せる。私のかけがえのないものを)


 喜潤が産まれた瞬間、翠の中から娘は消えた。


「私の子は喜潤だけよ!」


 翠は飾に喜潤を触らせることはなかった。


「喜潤は私の子ども。私が母親よ!」


 翠の子どもはただ一人。喜潤だけだ。


「翠、何を言っているんだ? 飾にも喜潤を抱かせてやれ」

「陽士こそ、何を言っているの? 喜潤は誰にも渡さないわ!」


 翠は喜潤を抱きかかえながら、飾を睨みつける。

 飾の伸ばした手は何も掴むことなく、彼女の胸元へ戻る。


 飾は哀しそうな顔で翠を見つめる。

 翠は一層、険しい顔で睨み返すだけだ。


(私が守らないと。喜潤は私が守るんだ)


 飾は自分の大切な物を獣だ。

 この獣から自分は家庭を喜潤を自分の居場所を守らなければならない。


「喜潤のためなら、私は何でも出来る」


 彼女は飾の母をやめた。

 そして、自分の子どもを守ろうとする鬼になってしまったのだ。


「お母さん……」


 目を開くと頬が濡れた。


「痛っ」


 体を起こそうとしても痛むばかりで、動かない。白い天井を見つめたままだ。


「翠様……」


 飾は誰から産まれることはなかった。だから、母はいない。

 飾は母のいないまま一生を終えることも出来た。でも、翠が母になってくれた。

 

 どんなことがあろうと飾はたった一人の母を恨めない。

 飾はずっと翠を愛していく。


 まどろみが飾をまた眠りへと誘う。今だけは彼女はゆっくりと休む。

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