第19話 国語研究室での蹂躙

 歩く度に床が濡れる。

 少女は犬のように体を振るい、長い髪先まで水滴を払う。


「ははは。すごく、すごく、良い匂いがする!」


 その嬌声は少女が末人であることを示していた。

 彼女は侵入者と同じように入り口から入り、比希の方へ向かって歩いてくる。

 侵入者の横を素通りして、倒れている喜潤の耳元で一言囁くと、比希に笑いかける。


「遅いから迎えに来たよ。雨も降ってるしさ」

「空……」


 比希は立ち上がろうとするが、身体に力が入らなかった。

 座ったまま目だけを比希と倒れて血を流している喜潤を交互に見る。


「空、雨宮君が……」

「そうだね。早く、病院へ行かないとまずいか……」


 空は倒れている喜潤を見る。喜潤の肩は抉れ、血の流れが止まらない。


「でも、こいつが話が通じるとは思えないのがね……」


 両手を下げて立つ。侵入者。

 彼女は顎をあげて、鼻を犬のように微動させている。


「香り、嫌なチと混ざる。でも、スル」


 顎が下がると、空とぴったりと目が合う。


「こっちが本物、カぁ」


 満面の笑みは真っ赤に染まった八重歯だけが輝る。笑みには魅力も価値もなかった。


「名前はあるのかな? なくても構わないけど」

「……『さん』、ダ」


 空は手近にあった本を投げる。喜潤と比希が選んでいた不用品だ。

 飛んでくる本を『さん』は易々と払いのける。

 開いた視界に空の姿はない。


 空は床を蹴り、近くの机の上に飛び乗る。

 ペン立てで体を寄せ合うペン達を指で挟んで数本引き抜く。

 掌で挟んだペンを一斉にノックして芯を出す。

 普段は文字を起こすインクがその時だけは体に食い込む爪になった。


「ぐあああああいいいいあ」


 『さん』の肩をボールペンの先が食い破る。

 引き抜かれたそれらの先端からは真っ赤な血が落ちる。

 空はペン先から滴り落ちる赤い液体に舌を伸ばす。


「こんなもんかぁ」


 決して満足した感想ではなかった。


「でも、せっかくだから肉も食べたいかも」


 空は『さん』を見て微笑む。真っ白な牙が鈍く光る。

 そのまま、ペンを挟んだ右手を薙ぐ。

 『さん』は血飛沫を飛ばすそれを一歩下がって避ける。

 それを逃さないと空は左手を伸ばす。逃げ遅れた『さん』の右手中指が掴まれる。

 空は決して離さない。『さん』の中指はそのまま抜けた。


「あ、ぎぃああああ」


 痛みに『さん』は体を屈め、千切れた指を庇う。


「一口サイズかな?」


 空に躊躇いはなかった。自分の手にあるまだ温かい指を口へ放り込む。


「香りは一流。味は三流だね」


 肉は柔らかいが、渋みが強い。骨は固く味もない。歯ごたえだけがする。


「偽物? 本物じゃないよね?」


 唇についた血を舐めとり、空は首を傾げる。


「う、うる、サイ。ワタシは、おとってはいない! アンタにダッテ、勝てる!」


 『さん』は大きく口を開ける。

 整然とした白い歯の向こうに真っ赤な舌が蠢く口の奥底が見えた。

 暗く深い喉は獲物を欲するように大きく震える。


 空はその威嚇に怯まずに、前に出る。

 舐めて食べてわかった。

 『さん』は怯えている。空に、いや、オリジナルの末人に。

 空にはわかっていた。

 彼女が末人ではないことに。香りは確かに末人だが、味はあんなものではないはずだ。


 空自身も末人を食べたことはない。だが、本能が告げるのだ。これは違う、偽物だと。

 香りと味が一致しない。それは強烈な不快だ。

 食べれなくはないが、食べたいとは思わない。

 体の底から食を欲する末人の香りとはあまりにもかけ離れた味だ。


(でもさ、お腹空くんだよね)


 それをわかっていても香りに釣られる。特に普段の日常で抑圧された欲望が今が好機と急き立てるのだ。


「きなよ。血の一滴まで食べつくしてやる」


 動いたのは『さん』だ。その動きに戦術はない。

 破れかぶれというか勢いに任せた攻撃だ。


 空は冷静に動きを見て、身体を捻り伸びた手を躱すと、左手で『さん』の頭を掴み、壁に叩きつける。

 一回、『さん』は抵抗して、空に向かって爪を立てるが、空はその手を掴むと直線に伸ばし、手首に噛みつく。


「あぎああああああああああああああ!」


 骨を噛み砕き、肉と皮で繋がったそれを捩じ切る。味はやはり旨くはない。

 騒ぐ『さん』を黙らせようともう一度、壁に頭を叩きつける。

 三度、四度、と叩きつけ、声が小さくなる。

 五度目は止めになるかと思っていたが、


「空!」


 比希の声がそれを止めた。


「場所を考えて。後片付けはどうするの?」

「……」

「それに殺したらわからないこともある」


 その言葉に空は冷静になった。

 ここは国語研究室。

 教員達が使うのにあまり汚すのは非常にまずい。そして、何よりも食べ物の処理に困る。

 たいしてうまくないこれを誰かが来る前に片づけなければいけないのだ。

 無理に食べて腹を壊すのも嫌だ。


「そうだね」


 空は掴んだ『さん』を放り投げる。

 床に転がった『さん』は頭を振り、千切れた手を止血するように反対の手でガッチリと締める。


「帰りなよ。それとも、場所を変えて死んだ方が好み?」

「う、ぐぐぐぅ!」


 言葉は出なかった。押し殺した感情を唸らせるだけだ。

 空は指に挟んだペン先を向ける。

 それを合図に『さん』はじりじりと動き、研究室から出て行った。

 後ろ姿を見送ってから、空は比希に向き直る。


「雨宮君、まだ生きているよね?」


 比希は捨てる予定だった本のページを破り、喜潤の傷口に当てて止血を必死にしていた。


「まだ大丈夫。でも、早く病院へ」

「……良い病院があるといいんだけど」


 命の危機は迫る。だが、学校で食べられましたとも言えない。

 悩ましい言い訳を考えながら比希と空は息だけをする喜潤を担ぎ起こした。

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