第18話 襲撃
金曜日。
約束の土曜日を明日に控えて喜潤の中には緊張感が漂っていた。
それは飾との話し合いのこともあるし、今日の放課後にある別の用事もある。
「ちょっと手伝ってくれないかな?」
繕にそう声を掛けられたのは一昨日のことだ。話だけならいつも聞いている。変に振って怪しまれるのは嫌だからだ。
「金曜日の放課後なんだけど、研究室の片づけをお願いしたいの」
「え、片づけですか? なんで、そんなことを」
「うんうん。研究室なんて名前だけに色んな資料があるんだけど、古いのも多くてね。前々から綺麗にしたいと思ってたけど、ようやく他の先生方から了解がとれたの」
「はぁ、そうですか。でも、なんで僕に」
「うんうん。お願いしやすそうだったからな? 雨宮君なら引き受けてくれると思って」
「……」
喜潤はやはりこの先生が苦手だ。
若さ来る熱意のせいか、孤立しているように見える喜潤にやたらと絡んでくる。
喜潤はあえて孤立を選んでいるのだが、彼女はそうは思ってないのだろう。
もっとも、半端に説明して深く内情を探られる方が面倒だ。ただでさえ、懸念していた三者面談が終わったばかりなのに、余計な手を入れられるのはこれ以上は勘弁だ。
「……いいですよ。別に」
断ってもよかったが、ここで断れば恐らく次もある。それも断ってもいいが、断り続けていれば余計に目を付けられる。
素直にしておくのが吉だろう。
「うんうん。よかったよ。大丈夫、喜潤君だけじゃないから、すぐ終わるよ」
「え?」
「西海さんも一緒だよ。うんうん。二人で力合わせて頑張ろうね」
(……二人。九佐木さんはいないのかぁ)
どうせなら、そっちの方がよかった。喜潤にとって比希は繕以上に苦手な存在だ。
空なら会話しなくても作業を終わることだって出来るのに、よりによって比希と一緒とは。
「じゃあ、金曜日の放課後。よろしくね」
でも、今更断れない。
喜潤は問題のない良い子なのだ。それは友好関係でも同じである。嫌いな人間なんていない。だから、教師の心配などいらないという存在でないといけないのだ。
その良い子を演じないといけないのが、今日だ。
愚だ愚だと不満を抱いてもすぐに放課後になる。そうなればさっさと終わらせて帰るしかない。
喜潤はすぐに国語研究室に向かう。
外を見るといつのまにか雨が降っていた。梅雨に相応しい黒々した重そうな雨だ。
これでは部活は中止だろう。事実、野球部やサッカー部と思える生徒達が残念そうに空を見上げていた。
国語研究室では、既に繕がマスクと軍手を用意していた。
国語研究室は普通教室二つ分ほどの広さで半分は教員の机が置かれ、詰所のようになっており、もう半分が資料庫になっている。
「うんうん。ありがとう。来てくれたね」
「まぁ、はい」
気怠そうに頷いて喜潤は繕からマスクと軍手を受け取る。
「大丈夫。作業はそんなに大変じゃないから。とりあえず、今日はラベルの付いている古い本を片っ端から抜いていけばいいから」
繕は喜潤に長方形の付箋を見せる。どこにでもあるカラフルなシール付ラベルだ。
「棚とか机の上とか色んな所にあるから、それを全部に廊下に置いてくれればいいよ」
「わかりました」
喜潤は早速、作業に取り掛かる。
比希の姿がないのが幸いだった。
彼女が来る前になるべく作業を進めて仕事も早く切り上げたい。
資料室は薄暗く、本以外にも壁掛けポスターやビデオテープ、壊れたと思える扇風機なんかもある。研究室とは名ばかりで倉庫のような使われ方だ。
喜潤なんかはこの惨状を見ると、全部捨てても良いだろうと単純に考えるが必要な物もあるにはあるのだろう。
繕に言われた通り、足を入れた先からラベルの貼ってある本を探していく。古そうに見える本の群れだが、ラベルが貼ってあるのはごく僅かだった。
「西海さんも来たね。うんうん。はい、これ」
喜潤が作業に入ってからしばらくして比希も来たようだ。
棚越しに声が聞こえる。
繕は比希に喜潤と同じように道具を渡し、作業の説明をしているようだ。
「それじゃあ、後はよろしくね。私はこれから会議があるから。終わったらまた顔出すね」
手伝わないのかよと突っ込みそうになるが、冷静に考えれば喜潤の苦手な人がここから一人いなくなるのはプラスだ。
三人でこの倉庫から探し物を黙々とするのは窮屈なことこの上ない。
扉の締まる音と溜息が入って来る音が同時に聞こえてくる。
「お疲れ」
喜潤は作業の手を止めて比希に挨拶をする。
苦手ではあるが嫌っているわけではない。
円滑な時間を過ごすために挨拶位はあっても良いはずだ。
「どうも。――珍しいわね。雨宮君がこんなことしているなんて」
「……断り切れなかったんだ。先生、結構、押し強いし」
「同じく。ルーム長なんてやるもんじゃないわね。私、国語嫌いだし。あ、でも先生は好きな方よ。そこは勘違いしないでね」
「別に告げ口なんてするつもりなんてないよ」
「まぁそうよね」
比希は笑っていた。おそらく喜潤も笑っているだろう。
資料の片づけは思ったよりも苦痛ではなかった。
懸案だった比希がそれほどまでに棘がなかったせいかもしれない。
「西海さんって、九佐木さんと仲が良いよな?」
それはふと漏れた言葉だった。
喜潤と比希の間に最初の挨拶以外の会話はなかった。
喜潤はいつのまにかそれを苦痛に感じていたのだ。
「ずっと一緒だからね。生まれた時から」
「え、そんなに長くいるのか?」
「うん。何ていうんだろう? 体の一部みたいなもの?」
「そっか」
話はそこで終わった。
喜潤はまた手を動かして、片づけを再開する。
「ねぇ、雨宮君は空のことどう思ってるの?」
間を置かない内に比希の方から尋ねてくる。
「どうって言われてもただのクラスメイトとしか……」
「でも、よく話してるでしょ? 朝とかさ」
「よく言われてもな……。別に何か特別な感情があるわけじゃないしさ。……何か誤解してないか?」
「……」
比希からの返事はない。
喜潤は自分の行動を振り返ってみる。
確かに空とべったりしている比希から見れば喜潤は空に色を掛けているように見えるかもしれない。だが、喜潤にとってみれば普通の範囲だ。
そもそも喜潤が他の人とそれほどまに話をしないからそういう目で見られているのかもしれない。そこが基準になればよく話しているように見られるのもわかる。
(でも、俺には――)
喜潤の気持ちの落ち着き先は決まっている。
別にこんな所で公言はしないが、他を気に掛けるつもりは毛頭もなかった。
「……空とはずっと一緒にいた」
黙っていた比希が喋り出す。
「私にとっては体の一部みたいなもの。なのにさ、空って目を離すとどこかへ消えちゃいそうなの」
「……」
「だから、怖い。空がいない日常を想像できない。私がいて、空がいる。それが私の世界。欠けたら世界が半分になる。だから、気になるの」
ああ、喜潤は密かに納得する。
比希の独白は妙に共感できる部分があった。
きっとそれは飾と同じなのだろう。
飾も喜潤が生まれた時からずっと一緒にいる。
喜潤にとって離れることなんて考えられない。でも、飾はいつか消えてしまいそうでもある。
喜潤の飾に対する想い。比希の空に対する想いは同じなのだ。だから、喜潤は比希のことを変だと思わなかったのだ。
「あ、ご、ごめんね。急に。別に空と仲良くしないでなんて言うつもりないから。空だって私以外の友達がいたって良いと思うしさ」
「そう、だな。話くらいは許してくれると有難いけど……」
喜潤は小さく笑う。
空と話すために比希に許可を貰うのというのは何か可笑しな話だ。
比希は否定したが、やはり比希は空の保護者のようだった。
比希もそれに気づいたのだろうか。自嘲するように笑っている。
しばらく二人で顔を見合い、笑っていた時だ。
「すみませーん」
声がした。
喜潤も比希もピタリと笑うのを止める。
「あれ、誰もいないのかな?」
聞き覚えのない少女の声だ。生徒だろうか。
喜潤は最初に来た時、研究室に繕以外の先生がいないことを思い出す。
比希が来た時も同じだろう。
その繕も今は会議に出てここには誰もいない。
「あれ? おかしいな。香りがしたんだけど……」
香り? 喜潤はその単語に妙な引っ掛かりを覚えて、身体が止まる。
一方の比希が軍手を脱いで、資料室から出る。はっとして、喜潤も慌ててそれに続く。
「先生達なら会議で。ここには私達しか――」
説明をしようとした比希の言葉が途中で止まる。資料室から出た喜潤もその理由を理解する。
「……やだ、何、あれ」
研究室の入り口に立っていた少女。
下はジャージで黒のTシャツという非常にラフな格好だった。街中で、コンビニでも見かければそれほど異様ではない。ただ、ここは学校だ。
正装とは言わずとも決まった服装がある。部活動の前後で来たと言えばなんとか納得できるかもしれないが、ジャージは所々に穴が見える。
その穴から覗く異様に白い足は病人のようだった。履物も運動をするようなスニーカーではなく、薄いサンダルだ。とても部活の参加者とは思えない。
だが、一番奇妙なのは彼女の顔だ。
ニコニコと好意的に笑っているものの、目が何かを探すようにギョロギョロと異様に動き周り、その動きに合わせるように吊り上った頬の端々が痙攣のように細かく動く。
ぱらぱらとした短い毛先が落ち着きのないのも彼女の頭が細かく動いているせいだろう。
見た目の年齢からは喜潤達と変わりないように思える。
(あれ、どこかで)
彼女の顔。喜潤はどこかで見た覚えがあるような気がした。その奇妙な動きに目が行きがちだが、そういったものを抜きにしてみればまだあどけないその顔つきを知っているような気がした。
「……怖い……」
一歩、比希が下がる。喜潤はその体を思わず抱き留めそうになった。
「ア、いるんですね。すみませーん。私、お腹空いているんです。良い香りがするんですケド?」
「え?」
なんだろう? 聞き覚えのあるフレーズだ。
「香りだけするんですよね。でも、ヤダナー、間違えるのは。食べたくないん、デスヨ。食べたく、ナイ」
動き回っていた眼球がこちらに固定される。
一歩目は見えた。
ジャージの裾を引き摺るサンダルが一歩だけ踏み出すのはわかった。
喜潤は咄嗟にすぐ近くにあった比希の体を引く。
引かれた比希の体は喜潤の後ろにある資料室に放り込まれる。その反動で喜潤の左の体が少し前に出てしまった。
庇おうとしたのではない。逃げようとしたのだ。
見た時から侵入者の異常さはわかっていた。
彼女の言葉でいつのまにか確信していたのかもしれない。
後ろにある資料室に入ればとりあえずは立て籠もれる。そう思って、比希の体を引いたのだが、間に合わなかった。
左肩に激痛が走る。
体が、足が、真っ赤に染まる。息が出来ない。
痛みが体を巡り、全ての機能を停止していくようだ。
「あああああああああああああ!」
それでも声だけは出た。
叫びを上げて、床をのた打ち回る。
「あ、あ、あああ、あ」
息が出来ない。
体中をべっとりとしたものがまとわりつく。
「雨宮君!」
裏返った比希の声が遠い。
高くなりすぎたそれは研ぎ澄まされた刃のようであった。
喜潤の肩を抉り食べた侵入者は口を数回動かし、ペッとぐちゃぐちゃの赤い塊を吐きだす。
「まず、イ。まず、イなぁ。良い香りだったのに、マズイ!」
喜潤の顔にまだ温かい肉片がべちょりとつく。
「く、あ、あああ」
意識が飛びそうだった。
この世界に打ちこまれた杭が抜けていく。体が重く感覚がない。
「か、ざ、り……」
何も見えない。何も感じない。
「遅れちゃったなー」
撫でるような柔らかい声が、喜潤の耳を抜けていく。
それをきっかけに喜潤は目を閉じる。
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