第20話 喜潤の父と母

 母は自分に優しかった。

 喜潤の一挙一動をつぶさに見て、彼が困ればすぐに助けてくれた。

 父も母ほどではないが、喜潤をしっかりと愛してくれていた。

 ただ、二人にとって、喜潤への認識の違いがあった。


 母は喜潤を長子、長男としていた。でも、父は喜潤の前に飾という長女を置いていた。

 二人のそのズレはやがてあの血の臭いに繋がってしまった。


 目が痛い。

 ザラザラとした目脂が瞬きを躊躇わせる。喜潤は眼を擦ろうと右手を上げる。

 動く。


 左手も上げようとする。

 痛い。

 そうだ。自分の左肩は喰われたのだ。

 頬を撫でると、吐き出された肉片のべっとりとした感覚がまだ残っている気がした。


「気が付かれましたか?」


 飾の声がした。

 喜潤は真っ白なベッドで寝ていた。その隣に椅子に座った飾がいる。


「飾……。よかった」


 喜潤が笑うと、飾も安心したように笑う。


「ここは病院です。お怪我は大事ありません。心配しましたが、これで安心ですね」

「ずっとそばにいてくれたんだな。ありがとう」

「いえ、最後のお役目ですから」

「え?」


 喜潤は耳を疑う。

 飾は今、なんと言った?


「喜潤様、約束のお時間です。こんな状況で話すべきではないかもしれませんが、時がきたのかもしれません」

「飾、何を言っているんだ」

「お体に障ります。お静かに聞いてください」


 飾は起き上がろうとする喜潤の体に手を添える。

 片手だけであったが、喜潤の体はベッドに張り付いたように動かなくなった。


「お話したいこととは、喜潤様のお父様とお母様についてです」

「えっ?」


 それは全く予想外の話だった。喜潤の考えていた流れと全く違う。

父と母。いるはずの二人は今どこに?


「嫌だ。……聞きたくない」


 それは意志からくる言葉ではなかった。

 二人の存在を喜潤は本能的に拒否しようとしていた。

 聞けば全てが壊れてしまう。この十年で築き上げたもの。場所。関係。そして、心。


「喜潤様、本当に申し訳ありません。ですが、私はお話ししなくてはいけません。このまま私が黙っていることは許されないのです。お願いですから聞いてください」


 聞きたくない。でも、知りたくはあった。

 唯一の肉親なのにその存在はこの家でタブー視されてきた。


 喜潤も飾も今までその二人の話題は避けてきた。

 喜潤には二人の両親がしっかりといるはずだ。

 血の繋がりを持った二人の男女。必ずいるはずなのだ。


「喜潤様のお母様、翠様とお父様、陽士様のお二人は大変素晴らしい方です。こんな私を拾ってくれ、私に生きる場所を与えてくれました」


 飾は昔を懐かしむようにゆっくりと話しだす。


「私はそんな二人の恩にお返しできるようにどんなことでも承るつもりでいました。ですが、私はそんな二人を裏切ったのです。喜潤様」

 突然、名前を呼ばれ、喜潤の体が跳ねる。喜潤は恐る恐る飾の顔を見る。

「あなたのお父様とお母様はもうこの世にいません」


 飾の顔は憐れむというより後悔するような顔だった。

 帰れない過去。戻せない時間。やり直せない出来事。飾は全てを後悔していた。


「二人は十七年前にもう亡くなられています」


 遠く残る血の臭い。

 喜潤はずっと誤魔化してきた。その臭いを。その記憶を。


「知って、るよ。そんなことわかっていた」

「そうですか……」


 飾は静かに呟く。

 知っていた。

 自分の両親がもういないことは。

 でも、それを認めたくなかったのだ。認めたら、自分の両親がもういない。

 それを認めたら、飾がいなくなってしまう。

 喜潤は飾を失いたくない。それはずっとずっと変わっていない。


「喜潤様は知る必要があるのです。何故、お父様とお母様が亡くなられたかを」


 その死に飾は関係していた。

 いや、張本人といってもいいだろう。飾が、飾が、二人を殺したも同然なのだ。


「二人がこの家に来た時、そこに私もいました。喜潤様はもうご存じですよね? 私が普通の人間ではないことを」

「ああ。裂から聞いた」


 喜潤としては話はもうそれで終わるはずだった。

 飾がそれを告白して、喜潤が受け入れて終わる。そんな夢をどこで見ていたのだろうか。


「では、そのことについては簡単に。私は末人です。本来なら、イヴ計画にこの身を費やす予定でしたが、翠様と陽士様は私を連れ、計画から逃げ出したのです。お二人は私を子どもとして、この家で三人で家族として過ごす予定でした」


 残酷な計画に二人の若い男女を研究者から人間に戻した。

 そして、二人は飾を連れ出すことによって父と母に変化した。


「初めの三年は順調でした。変化が起きたのはそれから。喜潤様、あなたが生まれてからです」

「俺が、生まれたから?」

「翠様はあなたを溺愛しておりました。初めてのお子様でしたし、翠様の体質の問題もあり、それは至極当然のことです。でも、その溺愛ぶりが陽士様との軋轢や誤解を生み、ついに――」


 飾は口を閉ざす、その眼は心なしか潤んでいるように見える。


「誰も、誰も悪くありません。あれは事故だったんです。翠様も陽士様も悪くありません。なのに、翠様の死の責任を陽士様も自らの命で取りました。お二人は悪くありません。もちろん、喜潤様だって。悪いのは本来いるはずのない私なのです」


 飾がいなければそんな結果は起こるはずのないことだった。

 飾がいたから、二人は死んでしまった。二人の死の責任が飾にある。

 それにその後のことだって。


「俺は、俺は、両親のことよく覚えてないよ」


 飾の話を信じるなら、喜潤はまだ一歳にもなってないだろう。

 その頃の記憶もあやふやだ。唯一覚えているのはやはり母の愛だ。

 翠によく愛されたと喜潤はぼんやりとではあるが覚えている。


「俺の父さんと母さんが死んだのは事故なんだろ。飾が殺したわけじゃないだんだろ。だったら、飾だって悪くない。誰も、誰も悪くないんだろ」


 喜潤は飾の罪を否定したい。

 このままでは両親だけでなく、飾までいなくなってしまう。


「ありがとうございます、喜潤様。お優しい喜潤様ならきっとそう言ってくれると思っていました。やはり、言って頂けると心が落ち着きます。ですが、本題はここからです。二人の死に私の責任は例え無くても、私の罪が無くなることはありません。私は、私はお亡くなりになった二人を――」


 喜潤の意識はそこで途切れた。

 肉体も持たなかったし、精神もそれ以上の話を聞くのを拒否していた。

 眠ることによって彼は今の辛い現状から逃げ出したのだ。


「……」


 飾はそんな喜潤を責めることはない。揺り起こすつもりもない。


(私はやはり卑怯です)


 真実を告げるのは怖かった。

 どれだけ時間が経っても喜潤に真実を話す勇気は用意出来なかった。


「ですが、時が来たのは事実です」


 いつかはこうなると思っていた。

 自分の存在は喜潤への危機になる。彼の日常に危険を呼び込むと。


「喜潤様、飾は行ってきます。これが最後の、喜潤様をお守りする最後のお役目です。もしも、帰って来れたら最後までお話しましょう」


 苦しそうに眠る喜潤に飾は優しく語りかける。

 願わくば最後の勇気は喜潤のために残しておきたい。

 それは誓いだ。もう一度、喜潤に会うという戦いに赴く前の誓いだ。


 飾は逃げるつもりはない。

 喜潤を危機に晒した存在からも、自分の犯した罪からも。だから、喜潤に誓いを立てる。必ず戻ってくると。罪を償うために必ず彼の前に叩頭すると。


 飾は立ち上がり、振り返らずに病室を出た。

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