第29話 飾が本当に隠していたこと
泣き声がした。
飾は最後の一欠片を口に無理矢理詰め込み、飲み下す。
口の中が酷く粘ついた。臭くて今にも吐いてしまいそうだ。でも、吐瀉するわけにはいかない。
自分を受け止めてくれた体を自分の体が拒否することは許されない。
顔を上げて、腕で顔中の血を拭い、ふらふらと立ち上がって自分を呼ぶ声を探す。
泣き声のする方へ足は自然と進んだ。
彼は一人、残され不安になったのだろう。いつも翠が傍にいたこともある。
ベッドの中を覗き込むとくしゃくしゃの顔をした彼が泣いていた。
「大丈夫ですよ。喜潤様」
飾はにっこりと微笑みかける。
まだ幼い喜潤には下で何があったかわからないだろう。
「何でも、何でもありませんからね」
あやしつけようと飾は喜潤を抱き上げる。
「……」
揺れる腕の中で、喜潤は安心したように眼を瞑る。泣き声は聞こえなくなった。
「喜潤……様」
今、思えば飾は初めて喜潤を抱いた。自分の腕でその小さな命を初めて抱え込んだ。
すやすやと眠る彼はまるで天使だった。ひたすらに純真で汚れのない心と目。全てが自分に優しくしてくれる人間に等しく向けられるのだ。
翠が彼のため狂ってしまうのもわかる。この子を守りたいと飾も思うのだから。
「もう少し、もう少しだけお休みなってください」
飾は眠りにつく喜潤に優しく語りかける。
「目を覚ました時に真実をお話しましょう」
ベットに戻した喜潤の頬には血が落ちる。
真っ赤な一滴。その血は一体誰の血だろうか。
遠く残る血の臭い。
小さい頃の記憶はない。母と父を覚えてはいない。
喜潤のそばには飾がいることが当たり前だった。
ずっとそうだったのだ。だから、飾は人間だ。自分にとって大切な人だ。だから、獣なんかじゃない。獣なんかじゃ――。
「来てしまわれたのですね、喜潤様」
返り血に染まる彼女はそれを拭おうともせずに喜潤の前に立つ。
「飾……」
喜潤の鼻は醜悪な空気の中にあって、もう役目を果たさなくなっていた。
べっとりと赤く塗りたくられた飾。色だけなく、肉片もアクセサリーのように所々についている。
「あ、あのさ」
何から話していいのかわからなかった。
飾を前にして喜潤は自分の気持ちだけでここまで来たのだとようやくわかる。
「ずっと考えていたことがあったんだ。なんで、俺は裂を助けたんだろうって」
喜潤は初めから話を始める。
全ての始まり。
なぜ、自分があんなことをしようと思ったのか、整理していく。
「……喜潤様はお優しい方です。怪我している人がいれば助けるのは当たり前なのでは? もっとも裂は非常に予定外の存在でしたが」
「そうだよな。普通はそうするよな。でもさ、家に連れてくることなんてしないだろ? 飾は倒れている人がいたら、家まで運ぶか?」
「いえ、そのようなことは――」
「俺もそうだったはずなんだ。いや、今までずっとそうだった。俺は誰かと関わりたくなんてなかった。友達もほしいなんて思わなかった。ずっと独りでいたかった。人助けなんて性に合わないはずなんだ」
「喜潤様、そんなことは」
「いや、そうだよ。飾だってわかってるだろ。俺がそんなことする人間じゃないって」
「……」
「でも、俺はあの日、裂を助けた。わざわざ面倒事を抱え込んだんだ」
今までの喜潤なら嵐を過ぎるのを待っていた。
面倒事は察知すると逃げていた。自分から何かに首を突っ込むことなんてしなかった。
「俺もさ、気づいていたんだ。飾がいつかいなくなるんじゃないかって。飾は俺を守る約束をしたんだろ? でもそれはずっとじゃない。大人になったら、俺が自立できるようになったら、ここから去るつもりだったんだろ」
「その通りです、喜潤様。お話した通り、前から決めていたことです。飾にはその決断をする勇気がなかったので先延ばしにしていただけです」
「俺はそれが嫌だったんだ。ずっとこのままだったら、飾はいなくなる。それが嫌だったんだ。飾と一緒にいたい。そのために飾から守られる人間を脱したかったんだ」
飾はずっと喜潤のそばにいてくれた。
喜潤が知らないところで彼を守ってくれた。だから、今度は喜潤が飾を守る番なのだ。
飾を手放さないために喜潤が飾を守れるようにならないといけない。
「喜潤様のお気持ち、よくわかりました。こんな私にそこまで想って頂けていたなんて」
飾の堅かった表情に緩みが見えた。
飾は嬉しかった。喜潤があの喜潤が初めて本心を語ってくれたのだ。
飾のためと言ってくれた。それは飾にとって最上の褒め言葉だ。
嬉しさに揺らぎそうになる心。
喜潤の想いに比べてなんて自分は弱いのだろう。
このまま喜潤の優しさに甘えたくなる。でも、それは許されない。
罪は告白しないといけない。ここで誤魔化すわけにはいかない。
飾は顔を引き締めて、喜潤を見る。
「残念ですが、喜潤様。喜潤様の想いは私の話を聞けばきっとお変わりになると思います」
変わってくれなければ、飾が困る。彼らに合わす顔がない。飾の罰は終わらない。
「話ってなんだよ。俺の気持ちが変わる話なんて、そんなのあるわけない」
裂と出会い、飾の本当の姿は知ったはずだ。
それでもなお喜潤は飾がそばにいることを望んだ。
今更、飾が人間ではないと告白しても、喜潤は驚かないし、気持ちが変わることもない。
強気な喜潤であったが、飾は静かに告げる。
「喜潤様、あなたのお母さんもお父さんも私が食べたんです。死んだ二人の死体を私が食べんです!」
「飾……」
喜潤は目を閉じる。
自分の父と母がない理由。それをようやく確信出来た。なぜ、いるはずなのに会えないのか。どうして一度も会えなかったのか。声も聞けなかったのか。
いないからだ。喜潤が自分で会いたいと思った時、もう二人はこの世には骨も残っていなかったのだ。
「あんなにお世話になったのにぃ。あんなに大切にされたのにぃ。私は二人を食べたんです。獣。そう獣です、私は!」
「飾!」
喜潤は叫ぶ。やめろ。聞きたくない。飾は、飾は――。
「私は怪物です。鬼です。魔物です。そんなものが今まで傍にいたなんて、お世話をしていたなんて恐ろしいですよね!」
飾の喉から乾いた笑いが漏れる。
「私は人間ではありません。新人類を産むため作られた末人。自身の進化のためにこうして同じ末人を食べるんです! 食べたくて食べたくて仕方ないんです! 末人だけじゃ済みませんでした。人間だって食べてしまったです! 食べてしまったんです……」
彼女は止まらなかった。喋れば喋るほど気持ちが高まっていく。
今まで自分の中に溜め込んだ罪の告白は感情になって口から吐露されていった。
「喜潤様、私を軽蔑してください。この獣を許してはいけません。私はあなたの全てを奪ったんです。あなたは私を憎まなくてはいけません。憐みなどもってはいけないのです!」
迎えにきたはずなのにそんな飾が近づくと身がすくむ。
血と肉片で汚れた彼女。その背中に転がる食べ残し。
二つを前にした喜潤は一歩だけ後ずさる。
「……」
飾はそれを見逃さなかった。目を喜潤から逸らして告げる。
「私のことが怖いですか、喜潤様」
「……そんなこと……」
「怖いですよね? 私は、私は人間じゃありませんから」
「……」
喜潤も飾を見れなかった。お互いの視線は決して交わらない。
喜潤の身体が震える。
どうしていいのかわからない。
彼女を迎えにきたはずなのに彼女はそれを拒絶する。
いや、初めに拒絶したのは喜潤自身だ。
喜潤が拒絶したから、飾は孤立してしまった。
「でも、俺は、それでも俺は飾を放したくない。飾が自分のことを獣と言っても、飾は俺にとって大事な人なんだ」
喜潤は決して退かない。飾を迎えに来たのだ。
ここで喜潤が退いたら、飾は行ってしまう。喜潤の手の届かない所へ行ってしまう。
「ありがとうございます、喜潤様。あなたが優しい心を持って育ったことを飾は誇りに思います」
「じゃ、じゃあ!」
「ですが、喜潤様。実はもっと恐ろしいことがあるんです。恐ろしすぎて可笑しいくらいの話が。それでも、尚この獣を許せますか?」
大事なこと。
まだあるのだろうか。
飾が喜潤に隠してあること。
喜潤が飾について知らないこと。
ちらりと飾を見る。血に汚れた彼女の顔はやはり直視は出来ない。
「恨んで下さい。これ真実ですし、嘘ではありません。そして、私を罰してください……」
飾は下を向く喜潤に近づき、顔を覗き込む。
光のない眼がじっと喜潤を見る。喜潤は目を逸らせなかった。
「あなたを産んだ人。実は私なんです」
可笑しい話と言ったのに飾は笑わなかった。
もちろん、喜潤も笑えない。
魂を抜かれたように飾を見返すだけだ。
「翠様はご病気で子どもが産めませんでした。なので、私がお腹だけ貸したんです。代理母というものですね。あなたは確かに母、翠様の卵子と父、陽士様の精子で出来た正真正銘二人の血を継ぐ子どもですが、この世界に産まれてくる前は私のお腹の中にいたんです。私が痛い思いをしてあなたを産んだんです。おもしろいでしょ?」
「……う、嘘だろ」
自分が飾から生まれた? 代理母って。
そんなことあるわけない。
「本当です。だから翠様はあなたを溺愛したんです。私に母親の役を取られるのが怖かったんです。翠様はあなたを必死に自分の子だと思うとしました」
「母さんは、母さんは、俺の母親は一人だ」
「そうですね。普通はそうですね。喜潤様がそうしたいなのら、それで構いません。あなたは翠様の血をちゃんと継いでいますし、戸籍的にも翠様の子どもです。でも、あなたを産んだのは私なんですよ(・・・・・・)」
それは何を意味するのか。
「喜潤様、申し訳ございません。私はあなたの誕生を汚しました。それは決して消せない汚点です。もう私をお許しなる気持ちは一片たりともお持ちでないでしょう。全てが終わったら、罪を償うためにこの首を差し出します。――苛烈な罰をお待ちしております」
飾は足下に転がる肉片を拾い上げるとぐちゃぐちゃと口に詰めながら、歩き出す。
喜潤はそれを追えなかった。
足が崩れ、床に手をつく。
びちゃりと血が顔に跳ねた。ぬるぬるとした感触が膝から伝わってくる。
自分は、自分は飾を一瞬恐れた。
それは彼女が人間に見えなかったから。
自分とは程遠い存在に思えたからだ。それなのに、それなのに、彼女は自分を産んだんだと言う。
喜潤は約十か月も彼女のお腹の中で外の世界を夢見ていたのだ。
あの獣と十カ月も繋がっていたのなら、喜潤、彼だって獣ではないのか。
飾は最後にそう言っていた。
(獣。俺が? 俺は獣なのか……)
飾から産まれた以上、喜潤だって彼女と同じなのだ。
喜潤は飾を迎えに来たつもりでいた。それは飾のことを好きでもあったからだ。しかし、喜潤が彼女に対して持つ愛は恋人への愛と同じと言っていいのだろうか。
飾が母ならそれは近親への愛だ。
喜潤が飾を慕うのは当り前なのだ。
彼女は異性である前に母なのだから。
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