第11話 奇妙な夕食

 家に着いたのはいつもより大分遅くなってしまった。

 もう夕食の支度をしても良い頃合いだ。


「ただいま」

「おかえりなさいませ」


 家に帰ると、飾が玄関で何やら拭き掃除をしていた。


「遅かったですね。夕飯、もう準備できますので、お待ちください」

「ごめん。ちょっと学校で先生と話していて」

「先生と? 何かあったのですか?」

「いや、それほどのことじゃないけど」


 靴を脱いで、玄関に上がると、飾の右手に包帯が巻かれているのに気づく。


「手、どうしたんだ?」


 飾は慌てて、喜潤の目から隠し、


「ああ、ああ。ちょ、ちょっと切ってしまいまして。大事ではないですから、お気になさらないでください」

「あ、ああ」


 飾が手を隠した瞬間、喜潤は見てしまった。

 床に着いた赤い染み。確信は持てないが、あれは血ではないだろうか?

 飾は切ったというが、そのわりには大げさな手当ての仕方に見える。

 包帯は手全体に巻かれていた。指を切ったという程度の傷ではないだろう。

 飾に詳細を聞きたかったが、彼女が嫌がるのは目に見えた。強要まではしたくない。


 腑に落ちないものの、喜潤は自室に戻り制服を脱ぐ。

 夕食は毎日きっかり七時からだ。

 今はまだ六時で時間がある。テレビでも見てようかと、隣の部屋行く。

 戸を開けて、足が止まった。


 いつも飾がきれいにしているはずの部屋。

 昨日は裂が胸を丸出しで寝ていたが、今日はいない。

 代わりに昨日とは別の意味で、壮絶な光景が広がっていた。

 割れたガラス。散乱した物品。何があったのか、血まで壁についている。


「あ、喜潤様」


 下から飾が呼びかける。喜潤が階段の前に立つと、


「居間には入らないでください。申し訳ありませんが、大変散らかっていますので」

「……ああ。わかった」


 飾は台所へ戻っていくようだ。

 喜潤はもう一度居間を見て、襖を静かに閉じる。


 自分が学校へ行っている間に何が起きたのだろう。

 喜潤が思いつくのは裂の存在だ。

 裂から飾の真実を聞いたせいもある。

 本来の役目に戻り、裂と飾が争ったのではないだろうか?

 散らかった居間と飾が隠した包帯の手は関係あるはずだ。

 まさか、飾が日頃のストレスから部屋で暴れたということは――ないだろう。ないはずである。


 喜潤は階段を下り、台所へ向かう。

 飾にはいつも負担をかけている。

 今日も手を怪我しているし、手伝ってもいいだろう。

 裂の世話だって楽ではないはずである。

 飾が喜潤に対して怒ることはないが、もしものときもある。

 念には念を入れ、手伝いくらいはしてもいいだろう。


「よぉ、お帰り」


 台所に入ると、裂がイスに座っている。

 彼女の様子は今朝と何ら変わりない。

 喧嘩をしたわけではないようだ。では、あの惨状の原因は?


「あら、喜潤様? いかが致しましたか?」


 火の前に立つ飾がこちらを向く。


「いや、暇だから手伝いに来たんだ。飾も手を怪我しているみたいだし」

「まぁ。それは、それは。お気遣いありがとうございます」


 飾は嬉しそうに笑う。

 彼女の笑顔はどんなときでも喜潤を安心させる。いつもの飾の姿にほっと一息つく。


「お手伝いして頂けるなら、洗い物をお願いできますか?」

「ああ、いいよ」


 飾は手に包帯を巻くせいで、水仕事ができないのだろう。

 喜潤もそれくらいなら、お安い御用だ。

 水場の前に立ち、腕まくり。そこで、異質なものが目に入る。


 裂の隣の席。

 始めは微動もしないので、置物かと思った。しかし、それは人間のはずだ。

 顔の上半分は黒い皮製の目隠しで覆われ、口にはポールギャグが埋め込まれている。

 体は椅子に固定されており、拘束具の上から鎖が何重にも巻かれ、動くこともままならないはずだ。


「どうかなさいましたか?」


 火から目が離せないのか、飾が声だけ向ける。

 聞くか、迷った。

 あれは何なのか? どこの誰で、なぜ拘束されているのか?


「――いや。何でもないよ」

「そうですか」


 喜潤は見なかったことにする。いや、見えないことにする。それが最良だった。 飾には聞きたいことがたくさんある。でも、実際声に出して尋ねればいつも飾は困るだけだった。


 喜潤には飾しかいない。飾を困らせる質問はしたくなかった。

 そして、いつしかこの家では何も訊かず、与えられるものを享受するのが喜潤にとって正しい選択だと気付いていた。そうでなければ目の前にいる人が消えてしまいそうだから。


(でも、いつまでもこのままじゃダメなんだ)


 漠然とした不安は喜潤の勇気に変わり、裂を助けるという選択を取った。

 喜潤の選択は『このまま』を変えようとしている。

 今だってそうだ。この家にこんなにたくさんお客が来るのはいつ以来だろう。


「……」


 喜潤は洗い物を続ける。

 飾に尋ねることはしなかった。

 飾は裂のことを何も喜潤に話してない。だからといって喜潤が何も知らないとも思ってないだろう。

 喜潤が裂や自分のことを知った上で飾は説明をしない。それはきっと飾が話したくことなのだ。


 喜潤にはまだ飾の気持ちを踏みにじって質問を重ねることは出来なかった。

 裂を拾ったのも大変な勇気が必要だったのだ。

 今の喜潤にはそんな勇気は備わっていなかった。なので、見ないことにする。

 二階の血で荒れた居間も、目の前にいる拘束された人物も、喜潤は目の端から追いやる。


 飾に聞くことはない。

 必要なら教えてくれるし、どうしても知りたいなら彼女以外に聞くべきだ。

 どちらにしても、今、必要なのは『沈黙』だ。






 飾は至って普通に炒め物を続ける。喜潤も見習って洗い物を開始する。

 喜潤が手伝ったせいか、夕食はいつもより早くに始まった。

 夜のメニューは白米に野菜炒め、ワンタンのスープ。いつも通りの夕食である。


「いただきまーす」


 元気よく食べだす裂。

 飾の配慮のおかげで、裂の食べ方は幾分きれいになった。

 犬食いは相変わらずだが、がっついたり音を立てることはなくなった。

 もっとも喜潤が裂の食べ方なんかよりも隣の拘束された人物の方が気になって仕方なかったせいもあるかもしれない。


 拘束人は喜潤から対角線上の席に配置されている。

 隣に裂、目の前に飾。どうあっても暴れられない布陣だ。


「んぐうう! うううううぎぎいいい!」


 突然、拘束された人間が呻きとも叫びともつかない声を上げて体を揺する。

 椅子に拘束されているから揺するになったが、拘束が甘ければおそらく暴れるになっていただろう。


「喜潤様、おかわりはいかがですか?」


 目の前で拘束された人間が自己の存在を主張しても飾は無視するように喜潤に夕食を勧めてくる。


「あ、ああえー、じゃあ、貰おうかな……」

「はい。お待ちください」


 喜潤はチラリと飾の正面の席に視線を移すが、飾は真っ直ぐに喜潤を見て自身の正面に目を向けることはない。


「おい、静かにしろって」


 裂が暴れる拘束人に耳打ちする。


「でないと、殺されるぞ」


 一瞬、拘束人が震えた気がした。


「ふぅ、ふぅ、ふふふぅう」


 荒い息をあげながらもいないはずの客は騒ぎを止めたようだ。

 拘束人に飾はおろか裂まで触れない。

 明らかにいるのに二人はまるでいないように振舞っている。だから、喜潤は穏やかではない会話がいくら気になっても聞くことはしなかった。

 慣れたはずの食卓の異様な光景。

 誰もそれを話題にしないまま食器同士の喋る音だけが食事を進めた。


「ごちそうさま」


 喜潤は食事を終わりにする。


「お茶をお入れいたしますか?」


 飾の提案は遠慮しておく。


「それでしたら、お風呂へ。喜潤様、お顔に疲れが残ってらっしゃいます。今日は早くお休みになってください」

「あ、ああ。そうするよ」


 チラチラと喜潤は拘束人をみるが、飾は意に介さない。

 興味がないと言えば嘘になる。

 喜潤が望んでいるのは何よりも変化だ。

 心は求めていも決断は出来ない。大きな変化には大きな勇気がいる。

 まだ喜潤の勇気は小さな変化を重ねることで精一杯だ。


 自分の思惑と外れ過ぎたことは今までと同じように沈黙を尊ぶだけだ。

 結局、喜潤は何も聞き出せないまま風呂に入り、寝床につく。

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