第3話 裂と飾

 初め見たときからわかっていた。目で見て、匂いで確信した。

 体は好物の香りをちゃんとわかっているのだ。

 

 それは一石二鳥の選択だ。

 不穏を乱す異分子は片付くし、大好物も食べられる。特に後者は自分にとって重要だった。

 

 あれから十七年は経つが、口の中に残る苦味はいつまでも消えない。あれほどまずいものを食べるのはあれっきりにしたかった。

 あの時から何を食べても口の中にあの味が蘇ってくる。それは生きる上で耐えられない苦痛だった。

 

 今、ここで自分が一番大好きなものを食べればそれもきっと過去のことになる。

 元々自分が負っていた役目でもある。何も間違ってはいない。これは正当な行為なのだ。

 

 御馳走は一口で食べるには大きすぎた。

 手で千切っては部屋が汚れる。後々の掃除の苦労を考えると、それは避けたい。

 逸る気持ちはわかるが、上品にいこう。

 切り分けるための包丁と動きを止めるための長めの棒を用意。

 

 飾は二つを手に居間へ向かう。

 喜潤はもう寝ただろう。起こしてはいけない。穏便に済ませなくてはいけない。

居間へ入ると一層足を軽くする。

 膨らんだ布団を前に全ての躊躇いを捨てて、右手の包丁を振り落とす。


「!」


 刺さった感触が弱すぎる。

 気配を感じて、とっさに左手を上げる。


「ぐっ」


 慌てて飛び退く。

 右手が殴打の痛みを訴えている。


「また喰われるわけにはいかないんだよ」


 棒を振るう。払うのは無。


「ちっ。こっちは腕がないんだぞ!」

「そのまま肉塊でいればいいものを」

「助けたのはそっちだろう」


 相手は怪我を負っているとは思えないほど、軽快に動く。さすが、というべきだろう。

 飾は棒を振り、ともかく相手を近づかせない。

 リーチを生かして戦いたいが、狭い部屋。小回りが利かない。


「腕の分、返してもらうぞ」


 少女が跳躍。

 棒で打ち落そうとするが、上げた足に止められる。

 少女の左足が、飾の顔へと伸びる。

 頬が抉れ、鼻が歪む。


 遅まきながら腕で顔を庇うが、その腕に痛みが走る。

 ぼやけた左目の視界。しかし、右目はそれを捉えている。


 飾の腕に歯を立てる少女の顔。

 長い睫毛の下で、黒い大きな瞳が人から獣の眼に変わる。

 それは肉食獣の眼だ。獰猛で、生肉を喰らい、生死を賭けて生きる獣の眼だ。


「……こんなに活きが良いなら、やはり病院は必要なかったようですね……」


 飾は空いた左手で少女の腹部を叩く。

 1、2、3。動かない。


「こんのっ!」


 体の部分で最も固い言える骨。頭蓋骨。それを首に力を溜めてぶつける。

 飾の強力な頭突きに少女の額が割れ、その口元が緩む。

 すかさず、飾は腕を抜き、少女を殴りつける。

 容赦はしない。


 腕のない少女は顔の防御がうまく出来ない。

 逃げようにも飾が素早く足を抑え込み、それを許さない。

 散々、飾は少女を殴りつけ、抵抗を奪うと、包丁に手を伸ばす。


 叩いた肉はさぞ柔らかくなっただろう。それはたまらなく美味しいに違いない。

 白刃に自分の顔が映る。鬼の顔つき。人ではない獣の顔。


「飾!」


 刃の侵略が止まる。


「どうしたんだ!」


 振り向いた飾の顔。

 憑きものが剥がれ、表情が歪む。

 言葉を飲み込み、正そうとした体に心が反発を起こし、さらに表情をぐちゃぐちゃにする。

 飾はその表情のまま、何も発せずに部屋を出ていく。


「……」

「……」


 すれ違ってもお互い何も言うことはなかった。

 飾も喜潤も、だ。


「だ、大丈夫か?」


 喜潤は飾に散々殴られて、顔の腫れた少女に駆け寄る。


「かはっ。くはっ」


 彼女は口から血溜まりを吐き出し、鼻からも血を噴き出し、気道を確保する。


「はぁはぁ」


 呼吸を整える少女を喜潤は手近な布で血を拭いてあげる。


「あんたは。あんたは違うんだな」


 ぼろぼろの姿とはかけ離れた鈴を振るうような綺麗な声だった。


「あんたは人間なんだな」


 喜潤に支えられながら、少女は喋る。


「あいつは違うけど。ありがとう。もう大丈夫だ」


 少女は体を起こし、胡坐をかく。


「はー。散々だったよ」


 その身の上の苦労は察するが、喜潤には聞きたいことがあった。


「聞いていいか? 君の名前は?」

「オレ? 言うほどのことなんて何もないぞ」


 声は綺麗であるが、言葉使いは粗すぎる。


「名前くらいあるだろう。教えてくれないか?」

「名前だな? サキだよ」

「サキ?」

「そう。裂けるって書いて『裂』。いい名前だろう。強そうで」

「まぁ、そうだな……」


 確かに強そうではあるが、女の子の名前としてはあまり相応しいとは思えない。


「腕、どうしたんだ?」

「ん? ああ、そういえばなかったっけ」


 裂は人事のようにくるくると体を捻る。


「知りたい? 腕の行方知りたいか?」

「あ、ああ」


 聞いた以上は教えてほしい。

 彼女の陽気な問いとは反対に恐ろしい答えが待っていそうではあるが。


「食べられたんだよ」


 裂は口の端を耳元まで釣り上げて、笑う。不気味な笑顔だった。


「誰とは言わないけどな」

「……」


 食べられた? しかもに。


「なぁなぁ、オレからも聞いていいか?」

「ああ。なんだ?」

「お前がアイツの監督者なのか?」

「監督者?」


 アイツとは飾のことでいいだろうか? 

 だとするなら、喜潤はどう考えても保護される側である。

 飾がいなくなったら、喜潤は野たれ死んでもおかしくない。


「うん? 違うのか? じゃあこの家に他に誰かいるか?」

「今は、いないよ」


 喜潤は重々しく吐き出す。

 今、この家にいるのは飾と喜潤だけだ。


「監督者がいない? そんなことあり得るのか?」

「そんなこと言われてもこの家にいるのは俺と飾だけだ」


 もう話を切り上げたかった。

 喜潤が聞きたいことは何も聞けてはいない。

 ただ、このままでは聞かれたくないことを聞かれる気がした。

 名前だけでも知れただけで今は充分だということにしたい。


「俺は寝るぞ。明日は学校なんだ」

「そっか。オレにお構いなく」

「……あまり騒ぎを起こさないでくれよ」


 最後にそう釘を刺し、喜潤は部屋を出ていく。

 残した言葉は喜潤の抱える期待とは矛盾していた。

 咄嗟に出たため、建前なのか振りなのかも喜潤にはわからない。

 ただ、今日はもう充分であることは確かだった。

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