1章-3  新世界より




『大丈夫ですか坊ちゃま。』

「……………ん?アレ?」


 突然聞き慣れたお手伝いの声が聞こえて、意識を覚醒させた磯城はゆっくりと目を開けた。

 そして首を動かしながら周囲を見渡し……磯城は疑問に思った。

 さっきまでいたリビングがないことに。


「と言うか……ここ……どこだ………?」


 目の前に広がるのは鳥のさえずりと葉が風で揺れる音しか聞こえない深く生い茂る森の中。

 彼にとって初めて見る景色だった。


 そして木々の隙間から見上げた空は灰色で、視線を下におろすと少しがけだが大きな山が見える。

まさに自然豊か、風光明媚な――。


「待て………………………………山??え?」


 そこまで考えていた磯城は自分の見た風景のありえなさに目を疑った。


 磯城が住んでいる街、東京都白帆市。

 そこは太平洋沖に浮かぶ人工都市。

 間違っても、木々の隙間から大きな山が見えていい場所ではない。


 その事実に眠っていたために緩やかだった脳が目まぐるしく回転を始め、急いで身を起こした。

 改めて見回すと、

 東京都心よりも遥かに規模が大きい人工島のしらほしは緑はそれらの街よりも多い。

 これは緑に囲まれた住みよい街づくりをスローガンに掲げた初代市長の働きが大きい。


 長い間人工島(しらほし)で暮らしている磯城には馴染みがないが、ここが本土では当たり前にある自然の森だという事は知っている。そしてそんな馴染みのないモノが目の前にある理由なんぞ1つしかない。


「《しらほし》じゃないな………。本当どこだここ?」


 この事実はますます磯城を混乱させるが、さらに重要な事実に気付く。


「……あれ?」


 それは、先程まで自分に呼びかけていた家政婦がどこにもいない事だ。


「アガサ?どこだ?」

『ここです。』

「ここって……え?」


 周囲には森しかなくアガサの姿は見当たらない。


『ここです。坊ちゃまのチョーカーの中に入っております。』


 よく聞いてみればチョーカーに内蔵されているスピーカーから聞き慣れた家政婦の声が聞こえた。


「いつの間に……。」

『もちろん家政婦(メイド)の嗜みです。』

「いやいや。違うだろ。と言うかヤバいだろこれは……。」


 人間の思考そのものがチョーカーの基盤に納まる事にも驚いたが、それよりも驚かされたのは彼女の無謀さについてだ。

 彼女が行った《チョーカー》のクラッキング。それは大問題なのだ。


 ちなみに、ついさっきアガサが行っていたストーキングにもちいていたカメラとGPSに対してのクラッキングであり本体ではない。

 そして今回行ったのはその本体に対してだった。

 

 実はとある理由で、他所に比べチョーカー本体への干渉は非常に罪が重い。

 この間もそれを犯した人間に死刑の判決が出たことで非常に話題になった。

 世論の中にはやりすぎじゃないかと言う声も少なからずあったが、事情を知る大部分の市民にとって当然の処置だという事で納得しさえしている。磯城もその一人だった。


 それを知っている磯城としては何よりもまずアガサの処分と自分の運命に慄きを隠せなかったが、現状の磯城としてもこんなわけのわからない状態でひとりきりで放り出されるよりも何倍もいいに決まっているので何も言わず胸の奥にしまいこんだ。


「アガサ……ここがどこかわかるか?」

『不明です。ですが……。』

「……ですが?」

『その……?』

「???」


 珍しい。と磯城は思った。

 思った事をズバズバと口にするアガサがここまで言いよどむのは滅多に無いからだ。

 

「……………う~ん。」


 アガサがこういう状態になる理由は1つ。


『おそらくここは……《間の関》の向こう側ではないかと…。』

「やっぱりか。」

『って、あれ?驚かないんですか?』

「いや?驚いているよ?どうリアクションしていいのか困ってるんだ。」


 目を覚ましたら。そこは異世界だった。


 などと言うどこかで使われていそうな陳腐な書き出し。

 しかしそれこそが今この瞬間の御陵磯城の最初の感想だった。


「………ん。」


 ふと強烈な光が差し込んできて、磯城は思わず手を顔にかざしながら空が見上げた。


「え……。」

『うわあ…………!』


 磯城とアガサから感嘆の声が上がる。 


 上空は慣れ親しんだ塵と煤に塗れた灰色の空は無く。澄んだ蒼天が果て無く広がり。

 その空の果てで赤と青が入りまじった不可思議な色合いをした月が浮かんでいた。

 磯城はその光景を知っている、幾度となく写真で眺めていたからだ。


「セリス。マゼリア。」


 思わず零れるその世界の名。

 もう辿りつくことは無いと思っていた。

 長い間願い続け、その果てで諦めたかつての憧憬が広がっていた。


 疑問でも、混乱でもなく。

 

「………綺麗だ。」


 ただ、純粋な感動のみが胸の内に拡がっていた。



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