序章-5 そして―




「さて、じゃあアガサ。美祢の事よく見ておいてね。」

『お任せください!!』


 ここでももちろん磯城は晴れやかな顔のアガサに釘をさす事を忘れない。


「ただし、もうクラッキングはやらないように。」

『な、何でですか??こういう時は念入りな準備をしてこその……。』


 美祢を見守るためだけに外国の軍事衛星まで持ち出したのだ。そんな彼女が本腰を入れるとなると何をしでかすかはもう悪い予想しかない。いやその予想すらも軽々と上を行ってしまうだろう。


「あのなあ。他所のコンピューターにクラッキングなんて犯罪だぞ。お前だけならまだしも所有者であるこっちに飛び火するかもしれないんだぞ!この歳で前科持ちなんて御免だからな。」


 22世紀に入るとIT技術の発達により社会に与える影響が大きくなったことでクラッキングによる犯罪の影響がより深刻化した。

そのためにそれらの取り締まりがますます強化され、不正アクセス行為禁止法は施行当時1年以下だったものが22世紀現在では20年以下の懲役にまで引き上げられている。


 しかも、今回の潜入先には白帆市・日本政府・あげく米国の軍事衛星と、どれも国権の最高機関(しらほしは日本領の特別区となっているがもう事実上独立状態になっている)。

 万が一にでもアガサに何か不手際があればサイバー攻撃を受けたとしてCIAやら日本警察・挙句の果てにはしらほしの戦闘部隊である《守護職》やらが磯城達を捕まえに来るかもしれないのだ。


『そ、そんな!いくら政府相手とは言え私が尻尾をつかませられるわけがありません!!痕跡は抹消しましたから!!』

「そう言う問題じゃなくて!……ああもう!どう言ったらいいのか……。」


 彼女にモラルのなさに思わず眩暈がしてしまう感じがする。

 なのでモラルのなんたるかを叩きこんでやろうと意気込んでいた時。


「あれ………?」


 磯城は異変に気付いた。

 まず1つ目に、音が聞こえた。

 澄み渡り、それでいて荘厳な聞く者の心に響く美しい音色。

 ただ、磯城が気にかかったのはその音がすぐ近く、真上から聞こえた事だった。


「何……?」


 呆然とする磯城に対し、アガサは更に混乱させる言葉を放った。

 


「坊ちゃま?上の方を見てどうしたんですか?」

「……え?アガサ、お前」 


 聞こえなかったのか?と言おうとしたところで2つ目の異変が磯城を襲う。

 視界がぶれ、地に足をつけているはずなのになにやら浮遊感を感じる。


「これ……って?眩暈?」


 先程の表現は比喩であって本当に眩暈が起こるというわけではない。

 なのに。何故、実際に眩暈が起こっているのか?


『坊ちゃま!!』


 アガサが叫ぶように声を出す。

 しかし異変はまだまだ続く。


「(視界が……黒い?)」


 先程まで視界は空転していたのに対し今では視覚の消失し、完全に黒く染まっている。

 それだけではない。残りの四感――聴覚・嗅覚・感覚・味覚――そののすべてが消失していく。


『――ち――――ま。』


 アガサがもう一度叫んだ……ように磯城は感じた。

 アガサの声も途切れ途切れにしか聞こえなくなってしまっている。


 こんな状況になる病気なんて聞いたことが――。

 ない。と言いかけて止まる。聞いたことがあったからだ。ただし病気ではなかったが。


「始め荘厳の響きあり。そして体の表面が溶け去り世界と溶け合う――。向こうで命を賭けた恐怖を幾度となく出くわしたが、何よりも2つの世界を行き来するその時こそ、私にとって最大の恐怖だった。」


 磯城は書いてあったことをそのまま言葉に紡ぐ。


 それは、ある《開拓者》が書いた『異界探訪記』の中の《間の関を》抜けるシー

ン。通り抜けるほんのわずかな間を襲う感覚と似ている感じがした。


「じゃあこれは――なの(え?)?」


 そうなった理由を口に出した。出したはずなのだがもうすでに自分の声すら聞こえていない。

 完全に聴覚が消えてしまったのだ。


「――。」


 初めて読んだときは何を馬鹿なと読みながら思ったことだが今ならわかる。

 氷のように解けて最後にはなくなっていくような感触。

 自分が自分でなくなっていくこの恐怖がどれ程代えがたいものなのかを理解した。


 そして、磯城はここで一つの疑問が出てきた。


「(でも 、  何  故   こん   な  こ)」


 だが、磯城が覚えているのはここまでだった。

 胸に湧く疑問を出し終える事もなく。

 あとはもう何も考えられないまま、混濁した意識はゆっくりと闇に呑まれていった。


 そして後。

 居間にあった家具は倒れ、本や破片が散乱し、

 磯城は世界(ここ)から完全に消えた。


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