第8話 むっつりスケベの淳平。
ようやく河原から上がって先へ進んだ。私は伸び上がるようにしながら胸を揺らせ、青い空に向かってはじけるような笑い声を響かせた。歩きだすとまた、あのころの記憶が蘇ってくる。
河原でのお店開きの朝、私は顔を洗いに洗面所へ向かった。そこで三度、ひょっとすると四度くらい、念入りに歯を磨いた覚えがある。それからいつものように彼らが誘いに来て、私たち四人は連れ立って河原へおりた。とりあえず近くの石ころをベニヤ板の上に並べ、お店を開く準備に取りかかった。その間、少年たちは川に入って思い思いに遊ぶ段取りで、用意が整うと私の方から彼らに合図を送る必要があった。
どうでもいいことなんだけど、私は彼らと水遊びをしたことがなかったように思う。なぜ彼らは、私と川に入ることを好まなかったのであろうか。橋の上に腰かけて、涼しげな彼らを眺めることは許されていたが、そこから飛びおりて水浴びなどをしようもんなら、彼ら三人は目くじらを立てて怒りだした。
『お前は女だから、そんなことはするな』
お前呼ばわりの上に、名前は物心ついたときから呼び捨てで、その上、細かいことにまで介入してくる。やれスカートをはけだの、リボンをつけろだの、とにかく口うるさくて、当時の彼らはまさしく小姑そのものだった。そこらあたりの男子の心情については、今以て謎である。
とにかく準備も整って、河原から少年たちを呼ぶと、三人は川から上がって私の店を訪れた。
『いらっしゃいませ』
こういったことば遣いはテレビの影響で、彼らの好みでもあった。
『この店はいったいどんな商品を置いてんねん』
健次は遠巻きに眺めているだけで、こちらに近づいては来なかった。真っ先に私に向かって声をかけてきたのは辰男である。
『いったいなにがほしいの』
私は辰男に向かって質問した。
『もっと店員らしくしゃべらんかい』
辰男は生意気にも、私に向かって横柄な言葉遣いで命令した。
『ちゃんとしてるもん』
『どこがちゃんとしてるんや。今日は暑いですね、とか、そのくらいの世間話はするもんや』
今から思えば、それほど豊富な知識を彼らが持っていたとは思えなかった。
『それで――』
多少、むかついたので、無愛想にやり返した。
『それでって、いったいどういう意味や。そんな店員なんておらへんわい』
『なにがほしいのかって聞いてるだけよ。ばかじゃないの』
売りことばに買いことば、こうなったら一歩も引く気はなかった。
『ばかってなんや。おかしいやろ、そんな言い方。もうお前のところではなんにも買ってやらんぞ』
『いいもん。辰男なんて大嫌い。淳平に買ってもらうから、向こうへ行け』
隣に立つ、背の低い少年に私は視線を向けた。
不思議なことだが、子どもながらにみんな個性というものを所持していて、本人の好みとは裏腹に、周りはそれぞれの評価を勝手に決めてしまう。健次は乱暴者だがそれ故にガキ大将であったし、辰男には少し尖ったものを感じたが、少年たちの中では一番背が高く、しかもどこかあか抜けた雰囲気を持っていた。残りの淳平が一番のだめなやつで、ほとんど私に対して話しかけようともせず、そのくせたいてい私のそばにいた。むっつりスケベということばが一番ぴったりなやつだったし、気弱で自己主張のかけらもないようなタイプといえば、言いすぎだろうか。
とにかく、このときも淳平はうつむいまま、ただもじもじするだけで、なにを考えているのか私にはさっぱりわからなかった。
『待て、おれが一番に買う』
そんな私たちの様子を見て健次が口を挟んだ。どうやら男たちにとって、一番というものはよほど重要であるらしく、健次のことばを聞いたとたん、辰男の舌打ちが聞こえ、あの淳平でさえも河原の石をけ飛ばした。
『健ちゃん、ずるいわ』
辰男は声に出して不平を漏らした。淳平までが健次をにらんだのだから、おもしろい。
『なにがずるいんや』
健次はいきなりすごみだした。
『だって、民主主義やと思う』
意味がわからない。
『うるさい。お前は二番、淳平は三番や』
健次は聞く耳を持たず、少数意見を押し通そうとしている。
『じゃんけんにするべきや』
あきれてものもいえなかった。民主主義がじゃんけんだなんて、総理大臣に聞かせてやりたいくらいである。
『じゃんけんなんてあかん。そんなもん運だけやないか。実力で決めへんかったら、かえって不公平や』
健次にも、それなりの言い分はあるようだった。
『じゃあ、どうやって決めるん?』
辰男はなおも引き下がらなかった。
『相撲や。男はやっぱり、力で一番を勝ち取るほうが納得できるもんや』
今さらながらにあのときのことを思い出すと、社会の縮図を見るような思いがして、胸が締めつけられる。ただし力勝負なら、順番はすでに決まったようなものである。それも公平とはいい難い。
『相撲なんて、絶対にいやや』
辰男は最後まで食い下がったが、結局、健次の主張が通って河原で三人は向かい合った。取り組みは総当たり形式で行われる運びとなる。少年たちの顔は真剣そのものである。バカげたことだといってしまえばそれまでだったが、彼らにとっては私だけが唯一、身近な異性であったから、そういう意味においていえば、相撲であろうがなんであろうが、みんなが納得できる形で順番を決める必要があったのは、仕方なかったのではなかろうか。
いよいよ私のファーストキスをめぐる戦いが始まった。最初の取り組みは健次と辰男である。ここで辰男は妙なことを言いだした。
『もっと公平にするべきや。普通に相撲をとったら、健ちゃんが勝つに決まってる』
確かに不公平である。健次は辰男よりも年齢が二つ上、淳平はそれよりも一つ下で私と同い年だ。体つきの違いはもとより、年齢の差であったといえるだろう。
『どうしろって言うんや』
健次の場合、声の大きさでも多を圧倒しているため、こういう会話をやらかすと、たいていの場合、相手のほうがたじろいだりする。ところがこのときばかりは当てが外れ、辰男と淳平は一歩も引かない構えを見せた。
『おれと相撲をとるときには健ちゃんは右腕を使わないこと、もし使ったら反則負けにする』
苦肉の策とは言え、よくもこんなときにそこまで頭が回るものだと感心した。
『じゃあ、淳平はどうするんや』
『淳平とやるときには健ちゃんは両腕を使わないこと、これでええやろ』
『お前と淳平がやるときにはどうなるんや。自分に都合のええことばかりいいやがって、そんなのインチキや』
たいてい誰かの希望が通ると、その他の者は困るものだ。
『そやかて、おれと淳平は一つしか違わへんのに、ハンディなんかつけたら、おれのほうが不利になるやないか』
どうやら、どんな発想も自分が勝つというところから、出発しているようである。
『わがままいうな。お前も淳平とやるときには右腕を使うな。これでみんな公平や』
健次は強引だった。たとえ両腕を使わなかったとしても、他の二人に勝つ自信があったに違いない。そんな二人のやり取りを、むっつりスケベの淳平は黙ったままで聞いていた。しかも、相当危ない目で健次と辰男をにらんでいる。
『それじゃあ、そろそろ始めるぞ』
いよいよ仕切り直し、健次と辰男は腰を落として向かい合った。はっけよい残った。辰男は口のほうの威勢はよかったが、組み付いてからわずか数秒で、あっけなく健次に投げ飛ばされる。彼の場合、背は高いがあまりにも線が細く、腕の一本や二本ではとても問題にはならなかったようである。
『いてぇ』
辰男は尻もちをつきながら、ひざを抱えて顔をしかめている。
『次は淳平や。かかって来い』
健次は自信満々その場で仁王立ち、口もとには余裕の笑みさえ浮かべていた。
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