第11話 大変です。小春の体に異変が起こっています。
地上へ出てから見上げると、すぐそこに駅前ビルが現れました。天王寺公園へ向かった私と小春の間には、かなりの問題が生じました。けれどもそれもこれも何とか収束し、地下駐車場から地上へ上がりました。
南側には近鉄百貨店が見えます。二つのビルを繋ぐようにして、交差点には歩道橋が架けられてありました。駅の北西部には天王寺公園が広がっています。公園の中央には大阪市立美術館があり、駅から美術館へ向かう途中には、温室やら水上ステージなどもあったはずです。学生のときに何度か来た覚えがあったので、懐かしく振り返りました。美術館の裏手へ回れば、旧黒田藩長屋門の脇に慶沢園の入口があります。慶沢園というのは池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)と呼ばれている庭で、簡単に言ってしまえば日本庭園に分類されるのでしょうが、そんじょそこらにある庭とはスケールが全く違います。美術館の北側には大坂冬の陣で、徳川家康が本陣を敷いたことでも有名な茶臼山(ちゃうすやま)があります。茶臼山は古墳時代中期の、大規模な前方後円墳なのだそうです。つまりは偉い人のお墓であるというのを、学生時代に学校の先生から教えてもらった記憶があります。
私と小春は公園を尻目に西へ向かいました。社長は私たちよりもずっと後ろからついてきます。
「危ないから、ちゃんと前を見て歩け」
歩道を歩きながらも、小春は変わった物を見つけると、すぐにそちらへ駆け寄りました。普通の人ならば、目的の場所へ向かう場合には前方だけでなく、左右にも気を配ります。行き道を塞がれても問題はなく、うまくよけて先へ進むはずです。ところが小春の場合は厄介です。目的の場所へ一直線に移動しました。余りにも自分本位な考え方に唖然としながらも、放っておくわけにもいかず、私も一直線に後を追うしかありませんでした。
「すみませーん」
結果は当然のごとくです。苦労しながらも、新今宮の手前までようやく辿り着きました。
大阪南部と北部では言葉にしろ、気質にしろ、環境にしろ、かなりの違いがあります。北へ行くほど上品な雰囲気があり、南へ向かうほど荒っぽさが増します。阪急沿線と近鉄沿線を比べてみれば、南部と北部の違いがよく分かります。電車内の雰囲気から乗っている人の態度まで、南部の人はとにかく下品です。ところがその下品さが、音楽では大阪特有のブルースを生み、商売では粘り強く生き抜くタフさを現し、スポーツに至っては、負けても負けても阪神タイガースを応援する、我慢強い愛情を育てました。私が住んでいる平野区辺りも南部であるし、私と小春が今いる新世界周辺も、大阪では上品とは言えない場所でした。
社長はかなり後ろから私たちの後をついてきています。なんだかおかしな道ずれでした。小春の態度も驚きですし、社長のあの献身的な行いにしても、私にはどうも合点がいきませんでした。ひょっとすると、やはり私と小春を結婚させるつもりじゃないかと、一抹の不安を抱きつつ、私と小春は通天閣南本通を北へと向かいました。
大阪には臭いの染みついた地域が多いです。通天閣の周辺は串カツと土手焼きが名物で、濃いソースと味噌の臭いが町の空気そのものだと言えるでしょう。もう少し先、新今宮の辺りまで行ってしまうと、アンモニアの臭いで鼻孔どころか、眼球にまで刺激をもらいます。新今宮の周辺は《ドヤ街》と呼ばれている地域です。
大阪人は人情があり、ユーモアに溢れ、我慢強く、自分の意志を隠すことなく表に出す。そのくせ他人を区別したりするのが大好きだったりします。だから通り一つ隔てた向こう側には、別の世界を置きたがるんです。
右手には飲食店の暖簾が見えました。通りの左側では服の叩き売りをやっています。先へ進めば河豚料理で有名な《づぼらや》があります。《づぼらや》を越えた辺りには、パチンコ屋が数軒、並んでいました。
小春は妙に大人しかったです。周囲の人が怖いのか、体を縮めるような格好で歩いています。小春の行動範囲が狭まることは私にとっても、頗る付きで有り難かったです。あれこれ小言を言うまでもなく、意図した方向へ進んでくれました。ここまではそれほど手が掛かるというわけでもなく、小春は機嫌良く歩いてくれました。ところがまたもや、様子が怪しくなります。
両脇にパチンコ屋が現れた辺りで、小春は何を思ったのか、立ち止まったままで動かなくなりました。流れを堰き止められた後ろの人が、ひどく迷惑そうな顔をしながら、私たちを睨んでいます。
「どうしたんや? もうちょっとやから、機嫌よう歩いてくれや」
通行する人の邪魔にならないようにと、体をかわして小春の顔を覗き込みました。するとどうやら様子が変です。全身をぶるぶると震わせています。かなりの異常を訴えているように見えました。
「だ、大丈夫か?」
体じゅうから血の気が引きました。社長から聞いた話によれば、小春の頭の中には内出血が残っているらしいです。しかも手術すらできず、回復も難しいと話していました。医学的な専門知識が全くない私にしたって、脳の近くにある血の塊が、体に突然の変調をきたす恐れがあることくらい、容易に想像がつきました。
落ち着こうと努めてみましたが、平静を保てるはずなどありません。気づいたときにはもう、背後の社長に向かって叫んでいました。
「社長~、大変です」
社長の行動は素早かったです。人波をかき分けて、こちらへ走ってきます。まるでイノシシの尻に火をつけたような感じです。
「どないしたんや」
社長は目をむいて、鼻息も荒く、まるで私を食わんがごとくの勢いで現れました。社長はすぐに小春に近づきます。するとそのとき、小春の口もとがもごもごと動いていることに、ようやく私も気づきました。
「トイレ、トイレ……」
とたんに社長の言葉を思い出しました。
「二時間ごとに、トイレへ連れて行け」社長からの注意をうっかり忘れていた私も悪かったですが、他人のトイレまで気遣ったことなど、これまで一度もなかったので、こういう事態を予測しろと言っても無理な話です。
「おいこら、トイレじゃ、トイレを探せ」
社長の剣幕は凄まじいものでした。私まで下半身の栓が緩んでしまいそうなほどの勢いでした。首を回して辺りを探ります。するとうまい具合に、パチンコ屋の看板が目に入りました。パチンコ屋なら、店内にトイレがあるはずです。
「社長、あのパチンコ屋へ行きましょう」
私の言葉を聞くと、すぐに社長が小春に声をかけました。腕を引っ張って、入口へ向かおうとしています。ところが人の流れが壁になり、小春が愚図るから、なかなか思うようにはいきませんでした。そのうち小春の異変が激しさを増していきます。大変です。
小学生でもあるまいし、こんな心配なんて罰ゲームとしか思えませんでした。とにかく私は、勘弁してほしい気持ちでいっぱいです。
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