第12話 小春はビリケンさんがお気に入り。

 大変です。小春の体の震えが大きくなっています。思わず私も叫びました。

「すみません、この子がトイレなんですよ。頼むから、どいてくれ」

 必死の思いを喉から絞り出しました。

 ようやく店まで辿り着いたのは良かったんですが、動転した私たちの視界が極端に狭かったからか、トイレはすぐには見つかりませんでした。私も社長も、それから小春も今やパニックです。こんなときに頼りになるのは、やっぱり社長です。入口近くに立っている店員に詰め寄って「トイレはどこや」、それはもう恐ろしい剣幕でした。

 店員さんには、心から同情いたします。向こうは目を丸くしながら、社長の顔を眺めていました。ほんの少し間を置いてから、店員が無言のままで右手を伸ばします。店員が指さした方向には、幅一メートルほどに渡って、四角いブラインドが設置してありました。ブラインドの中程に目をやると《トイレ》と書かれたステッカーが貼ってあります。

「なんちゅう、わかりにくいトイレや」舌打ちの後に社長が思わず漏らした言葉からは、どうしようもないほどの憤りが感じられました。気持ちは私も同じです。誰もがこの場にいれば、私や社長と同じ思いを抱くに違いないと確信しています。

 目的の場所をやっと探し当てた私たちは、女子トイレの前に立つと、ノックもせずにドアを開け放ちました。もちろん、ドアを蹴破らんばかりに開け放ったのは社長のほうで、私は横で大人しく見ているだけが精一杯でした。愚図る小春の背中を押して、無理矢理トイレの中へ押し込みました。間一髪は昔、ゲームの中で何度か味わった覚えがあります。現実でそれと似た思いをすることは滅多になかったので、今日の経験は一生、忘れることができないだろうと予想しました。

 どちらにしても一息ついて、トイレの前に立ちます。近くの壁にもたれかかりました。店内は入口から奥に向かって、パチンコ台がずらりと並んでいます。私の前にあるのはどうやら、パチスロです。スロットを操る客のほとんどが私たちに注目していました。そのうち体の力が抜けて、ひどい脱力感に見舞われました。床のシミを見つめながら、小春が出てくるのをひたすら待ちました。

 時間が長引けば長引くほど、今度は別の不安が脳裏をよぎります。トイレに入ったまでは良かったが、そのあと小春がうまく処理できたかどうか、それが心配になりました。ゴール目前の失敗というものは、オリンピック選手でも時たま経験します。しかも小春の愚図さといったら、呆れるばかりです。狭い個室の中で、今まさに繰り広げられているだろう、おぞましい光景を想像すると、全身に鳥肌が立つのを自覚しました。女子トイレのドアが、このまま開かないことを密かに願い、どきどきしながらも次の瞬間を待ちました。

 やがてドアの向こうがごそごそ言いだして、小春がトイレから姿を現しました。口もとにはうっすらと、笑みが戻っています。妙にすっきりした表情を浮かべている様子から判断して、最低限の目的は達しただろうと予想できました。

「おお、えらい子や、お利口やったなあ」

 社長は手放しで喜んでいます。だけど私は用心のために、取りあえずワンピースの裾の辺りを念入りにチェックしました。

 このあたりが、肉親と他人の決定的な違いでしょう。

 小春は人の気も知らず、出入り口付近にいる子供をじっと眺めています。その子がかぶりついているアイスクリームが気になっている様子でした。私のほうはいまだに《痕跡》を、せっせと調べています。ようやく調査が終了し、おそらく成功しているだろうと判断した私は、無事を確認して、今度こそ心の底から安堵しました。

 社長が小春の腕を掴んで、店を出ようとしています。私も後に続きました。

「これから、いったいどうするつもりなんや」

 社長はかなり疲れている様子でした。心なしか声もかすれています。

「通天閣にでも、上ろうかと思っています」

「よっしゃ、そうせい」

 社長はまた、私たちから距離を置きました。この状況にいったいなんの意味があるのかわからず、私は一抹の不安を抱きつつ、次の目的地へ小春と二人で向かいます。だけど、すぐには緊張の糸が切れず、小春の腕を掴む手にも殊の外、力が加わっていました。

「いたあ、いたあ」

 隣にいる小春が私の手を振り解こうとして、懸命に頑張っています。次の瞬間、手の甲に鋭い痛みが走りました。

「いたっ」

 すぐに小春の腕を離して手を引っ込めました。どうやら小春が手の甲に爪を立てたらしいです。痛みのある場所をもう一方の手で押さえ、首を反らして天を仰ぎました。すると視線の先には、空に向かって突き刺さるように伸びた通天閣がそびえ立っていました。

 通天閣の展望台は五階にあります。見晴らしの良い場所に立ち、辺りを見渡しました。真っ先に目を引いたのは外の景色ではなくて、赤い敷物の上にだらしなく足を伸ばして座る《ビリケン像》でした。ビリケンさんというのは幸運の神様で、合格祈願・縁結びなど、ありとあらゆる願いを聞いてくれる至極、都合の良い神様であるらしいです。顔はまるで商売の神様、戎さんをやんちゃな子供に仕立て上げたような感じです。ビリケンさんの前には、金色に輝く二本の柱が立っています。金色の柱は屋根を支え、屋根は背後の壁へと続いていました。

 小春は外の景色など、見向きもしませんでした。よほど幸運の神様が気に入った様子で、しばらく腰を屈めて覗き込んでいました。ところがいきなり足を床に投げ出して、ビリケンさんと同じ格好で座り込んでしまったんだから、手におえません。

「そんなところへ座ったら、せっかくの服が汚れてしまうやろ」

 ひっぱり起こそうと思っても、小春は体を踏ん張って、なかなか立ち上がろうとはしてくれませんでした。そんな様子に周囲の人が訝って、遠巻きに取り囲んでひそひそやり始めました。

「ほら見てみぃ。なんか、言われてるぞ」

 何とか小春を抱き起こそうとしました。ひどく嫌がりましたが、かまわず乱暴に小春の体を扱いました。

「やーっ」

 小春はひときわ高い声で不平を漏らしました。それでも私は決して手を緩めませんでした。大阪のおばちゃんに取り囲まれて、ひそひそやられてる小春を見ているのが、たまらなく嫌だったからです。

 結局のところ、展望台で時間を潰せたのは十分足らずです。この調子だとどこへ行っても小春は周囲に溶け込めず、周りもまた、小春のために迷惑を被ることは目に見えていました。他人はたいてい優しくないが、優しくしてやるしかない人間も、やはり世の中には存在します。それを私なんかが言うのはおかしかったんですが、ほとんどの場所が小春を受け入れてはくれず、心の内で、遣り切れないものを感じていました。

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