第13話 ジャンジャン横丁で昼食、小春はもちろん、二度づけ禁止。

 お昼近くになって、小春のお腹が「ぐぅ」と音を鳴らしました。障害のある得意先のお嬢さんと、奇妙な道連れになった私は、新世界で昼食を摂ります。体からの催促はどうやら思考から来るものではなくて、本能に近いものであるらしいです。

 新世界で昼飯と言えば、ジャンジャン横丁で摂ると、相場が決まっています。新世界本通を南へ下ると南陽通に出ます。南陽通は通称ジャンジャン横丁と呼ばれています。昔、三味線をジャンジャン鳴らして、客を呼び込んだことに名前の由来があるらしいです。この界隈の名物はなんといっても、串カツとどて焼きに決まっています。当然のことながら、私と小春が目指している店も、串カツとどて焼きを新世界らしく食べさせてくれる店でした。ジャンジャン横丁を南へ歩き、居酒屋と将棋屋を越えて中程まで行けば、右手に《八重勝》と書かれた暖簾が見えます。

 八重勝の暖簾は季節によって変化します。春には青で日ざしを圧倒し、夏には水色で暑さを和らげ、秋には茶色でほんの少し黄昏れて見せ、冬には濃紺を配色して寒さを追い払うのです。

 私と小春は水色の暖簾をくぐって、店内に足を踏み入れました。入るとすぐに横長のカウンターがあります。カウンターの向こうには、白い割烹着を着た《串カツ屋の兄ちゃん》がいました。手前のスツールでは大阪のおっちゃんたちが、昼間から生ビールを煽っています。店の中に入ったとたん、小春の行動には常識的な積極性が出て、自ら進んでカウンターの前に腰掛けました。珍しいことではあったんですが、おそらく店内に漂う、ソースと味噌の臭いが気に入ったからだと思います。本能を満たしてくれる場所を嗅ぎ分けて、本能の赴くままに行動すれば、誰だって小春のように大人しくなるに違いないと思いました。

 注文の仕方は至極、簡単で、「兄ちゃん、串カツや」と一声掛けるだけで用は足ります。とたんに揚げたてが出てくるのが、新世界の串カツ屋です。前にはキャベツが盛られた金属の容器と、ソースがたっぷり入った入れ物が置いてありました。新世界の串カツは、食べ方もとてもシンプルです。串を持ち、ソースのたまった容器に浸してから、口もとへ運びます。

 私が一口、食べるのを見届けてから、小春は前にある串カツに手を伸ばしました。いったん顔の近くに串を置き、そこで分厚いコロモを調べ上げている様子でした。串をくるりと回転させて、三百六十度じっくりと観察し、いよいよソースの入った容器に串カツを浸そうとしています。隣にいる私は、多少の緊張を感じながらも、黙って小春の様子を眺めていました。

 ようやく小春が串カツを口もとへ運びます。でかいコロモにかぶりつきました。ところが一口、囓ったあとに、小春はやっぱり失敗をやらかしたのです。口をつけたばかりの串カツを、もう一度ソースの入った容器の中へ戻そうとしました。

「姉ちゃん、二度づけは禁止や。なんぼべっぴんさんでも、それだけはあかんで。そんなことをしたら、間接キッスになってしまうがな」

 前にいる《串カツ屋の兄ちゃん》が、小春に向かって注意をしました。

「堅いこと言うたりな。あんな姉ちゃんやったら、わしはええでぇ。何回でもつけてほしいくらいや」

 右隣のおっさんが口を挟むと、周りの客も大きな声で笑いだしました。

 新世界の串カツ屋には唯一無二のルールがあります。正面の壁には、赤い縁取りの張り紙が貼ってありました。《ソースの 二度づけ お断り 店主》と、大きな文字で記されています。あくまでも衛生上のマナーであり、エチケットだと考えれば分かりやすいです。とは言っても、金属の容器にたまっている濃いソースは元々がアクだらけで、それほど衛生的な液体とは言い難かったです。知恵とは何度か串カツを食べに来たことがあって、そのとき知恵はアクの浮いたソースを横目にしながら「道頓堀川の水とおんなじや」とか、「大阪湾みたいな色しとる」などと表現しました。だからと言って、マナーやエチケットは守るべきだし、串カツ屋へ来れば串カツ屋のルールに従う必要があります。

 こうなると仕方なく、小春が二度づけしようとするたびに、私は片手を伸ばして、ソースの容器を塞いでやるしか仕方がありません。ソースの入口を遮られた小春は、どうしようもなく情けない顔をして、恨めしげに私の顔を睨み付けました。一度かじった串カツは、私の手に二度づけしてから小春の口に入ります。

 ソースの容器をいちいち塞がなければならないことを除けば、私たちの食事は平和で静かなものだったと言えます。小春はとにかくむしゃむしゃ食べました。あっという間に串カツを十本ほど平らげたんだから、驚かされます。

 周囲の人が小春の様子に注目していました。ただしそれは、小春の食いっぷりに感心していたのではなくて、食べれば食べるほどに口もとの汚れがひどくなることを、他人事ながらもハラハラドキドキしながら、心配しているような感じでした。黒っぽいソースは小春の唇から大きくはみ出して、少なくとも三倍くらい、唇を分厚く見せていました。仕方ないので、おしぼりを手に取って拭いてやろうとしました。ところがなぜか、小春は嫌がりました。顔を振りながら、なおも串カツにかぶりつこうとしています。

 小春がようやく落ち着きを取り戻したのは、串カツを十五、六本、胃袋の中に収めてからのことでした。今度はカウンターの上に顎を載せ、前にあるキャベツを睨んでいます。手を出さないところを見ると、キャベツに対して思い入れはあるものの、多少、用心しているような感じでした。かわいそうだったので、欲しくもなかったんですが、キャベツに手を伸ばして、一切れかじってやりました。それで安心したのか小春のやつも、右手を伸ばして同じようにしました。カウンターの上に顎を載せながら器用な手つきで、ソースのついたキャベツをもぐもぐと味わっています。

 口の中のキャベツを噛むたびに、顎を支点にして頭が前後に大きく動いていました。やがてキャベツにも、手を出すことがなくなります。すると突然、小春の顔が上下に激しく揺れ、とたんに大きな音がしました。小春のやつは恥ずかしげもなく、でかいゲップをやらかしたのです。周囲の者に対して、何の遠慮もせずにです。

 そんな小春に対して、すぐさま隣のおっさんが反応しました。

「姉ちゃん、ゲップはあかんでぇ。二度づけはかめへん。間接キッスやからなあ。けどな、ゲップは下品や」

 小春はそれに対して、見事なゲップで応酬しました。

「かなんなあ、この子は」

 小春の態度には、新世界のおっさん連中も形無しでした。

 そろそろ店を出ようかと思い、小春の顔を拭いてやろうとしましたが、小春はやっぱり口もとを拭かれるのがいやらしく、私のすることに激しく抵抗しました。今のままではいくらなんでもひどいと思いましたが、そのうち真っ赤な舌が伸びてきて、口もとのソースを全部うまい具合に掬い取りました。

 小春の顔がきれいになったのを見届けてから、勘定を済ませて立ち上がります。小春の手を引っ張って、店の外へ出ようとしました。

「姉ちゃん、またおいでや」

 おっさん連中が小春を見送ってくれています。だけど最後の最後、小春はまたもやでかいゲップを、小さな口からひねり出しました。私と小春が暖簾をくぐって表通りへ出たとたん、店の中からおっさん連中の大きな笑い声が聞こえてきました。

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