第14話 天王寺動物園で、意地の悪い私はアーメンとつぶやいた。

 通天閣南本通を南下すると、天王寺公園の《美術館下ゲート》の前に出ます。

 ジャンジャン横丁で串カツを食べたあと、通りを南へ向かいました。左手には、天王寺動物園の入口が見えます。小春を連れて行くには打って付けの場所だと思い、動物園の入口でチケットを買いました。二人で早速、入園しようと思いましが、ゲートの前で社長の姿を確認します。

 どうやら遠くから、こちらを覗いているようでした。一応、動物園に入ることを報告したほうがいいだろうと思ったので、小春と一緒に、社長のほうへ駆け寄りました。

「今から天王寺動物園へ行こうと思ってるんですが、どうでしょうか?」

「どうでしょうかって、そんなこと、お前が決めなあかんやろ。しっかりせいよ」

 わずか二言三言の会話の末に、話しかけると必ず、怒られることを思い知りました。動物園のゲートへ向かいながら、私は小さな声で、小春に向かって愚痴をこぼします。

「行くぞ。お前の父ちゃんは、ほんまに難しい人やな」

 小春の腕を引っ張って、入口のゲートを抜けました。入園してメーンの通りを歩きます。私たちが今いる場所を境にして、左のほうが北園で、右側を南園と呼ぶらしいです。進行方向に向かって手前から、爬虫類の檻があります。次にはフラミンゴ、ラクダ、カンガルーと続いていました。

 動物がざわつく様子に、小春はひどく驚いています。私の腕にしがみつき、心なしか体を震わせていました。本当の子供なら、喜んで檻のそばまで走っていくのでしょうが、小春は偽物の子供でしかなかったから、ラクダやカンガルーに対しては興味よりもむしろ、恐怖を先に感じるらしいです。怖じ気づく小春は、なおも私に体を寄せてきます。足がまとわりついて、危なく黄色いハイヒールを踏みそうになりました。

「檻の中に入ってるから、大丈夫や。怖がらんでもええ」

 いくら宥めようとしても、小春は不格好にお尻を突き出して、私の陰に隠れながら、恐る恐る先へ進んでいます。まるで遊園地のお化け屋敷に迷い込んだ、臆病な小学生のような格好でした。しかも小春はどうしても、檻の中の動物たちを黙ってやり過ごすことができないらしく、しばらく注目して、それから睨みます。多少の威嚇を込めて、最後にはすごすごと下を向きました。入園してから、檻の前では必ず同じ動作を繰り返します。

 それとは別に、ようやく小春との接し方にも慣れてきました。小春は何か強要すると、必ず駄駄を捏ねます。知恵なんかも全く同じです。知恵は頼むとそっぽを向くし、逆に頼まないことなら、お節介なくらい世話を焼いてきます。知恵の天邪鬼な性格は、女性の染色体が持つ厄介な特色のほぼすべてをカバーしているように思います。

 小春は知恵に比べると、まだマシなほうだと断言できます。まず悪意がない。食わず嫌いをわざとしているわけではなくて、食べ方を知らない子供なだけです。要は小春が何をしたいのか、したいことを私が見つけてやればよいわけです。もしくはそれとは逆に、拒否できないくらい、小春にとって苦手な場所を選んでやればよいことになります。

 私は思わずにんまりして、企んでやろうと考えました。人間というものは脅かされるのをひどく嫌がりますが、逆に脅かすほうに回れば、ずいぶんと気持ちが晴れるものです。しかも園内での小春は、明らかに異邦人と言えます。ここでは私だけが、唯一無二の保護者なわけです。周りで騒ぐ動物なんて、小春にとっては宇宙人か怪物か、お化けと変わらないほどの存在感を持ち合わせています。つまり決して拒否できない、苦手な場所に小春は連れて来られたことになるわけです。

 ラクダの檻を抜けて、北園の奥へ向かいました。一番奥には、猛獣が閉じこめられています。ヒョウや虎は向こうから、敵意に満ちた面構えで私たちを睨んでいました。牙を剥いた猛獣を見たとたん、小春は足を止めて、近づくのを躊躇いました。ところが私のほうは、ここで止めたんでは、気持ちがとても収まりません。朝から小春に振り回されたもやもやを、今なら一気に晴らすことができるわけです。小春が嫌がれば嫌がるほど、檻のそばへ近寄りたくなりました。引き摺るようにして、檻の前へ連れて行きます。とたんに「ウォー」と、檻の中にいる虎が、小春に向かって挨拶をしました。

 地上ではおそらく、一二を争うほど獰猛果敢な虎が、私たちの前で凄んでいます。のっそりと歩きながら、突然ぬっと振り向いて、凶暴な目つきで威嚇をしました。背中に張り付く小春が、じたばたしています。ひょっとすると、泣いているのかもしれません。振り向くと、小春の腕が首の辺りに巻き付きました。胸に顔を埋(うず)めて、ごりごりと押しつけてきます。嗚咽する声と共に、細い肩がかすかに震えていました。長い髪が風になびき、細い糸のようになって、首筋をかすめています。とたんに動物たちの臭いを押しのけて、シャンプーの香りが鼻孔の奥にまで広がりました。頬に当たる髪の毛がくすぐったくて、小春の長い髪を掻き上げます。

 この光景を、社長はひょっとすると、どこかで見ているのでしょうか。だとしたら、私はいったい、どうなるんでしょう――。アーメンとしか、言いようがありません。

 私の不安をかき消すように、すぐそばで笑い声が起こりました。驚いた私は、声のする方角へ首を回しました。斜め後ろに、小学生くらいの男の子が二人います。二人の子どもは私と小春の姿を、食い入るような目つきで眺めていました。

「あれは、キッスや。間違いないわ」

 片方の子が、もう一方の子供に向かって、知ったかぶりをしています。

「ちゃうで。あれはきっと、エッチや」

 もう一方の子供が、ムキになって反論します。面白かったので、からかってやることにしました。

「あほか。これはな、ラブや。よう覚えとけ」

 二人の子供は私の言葉を聞くと、顔をくしゃくしゃにしながら喜びました。

「ほんまに、小汚いガキやで」

 小春はいまだに私の腕の中で、泣きじゃくっています。そのうち顔を右へ傾けて左へ倒し、後ろへ反らしてからもう一回だけ、私の胸に顔を押しつけます。そのあとすぐに、物の見事に涙を止めました。

 そろそろ脅かすことにも飽きたので、出口へ向かうことにしました 動物園を出てからも、小春の鼻はぐずぐず言い通しでした。ところが湿っぽい小春の表情(かお)を、一気に晴らしてくれるヒーローのような人物が出現したのです。

 左手には天王寺公園の《美術館下ゲート》があります。ゲートの横にいる《おじさん》が、まさしく救世主と呼べる存在でした。小春はじっと、おじさんの姿を見つめています。おじさんの横には自転車が止めてありました。周囲に群がる子供たちの手には、色取り取りのソフトクリームが握られています。どうやらあのおじさんは、ソフトクリームを売っている行商の人であるらしいです。

「食べたいんか?」

 私の質問に対して、小春は現金な笑顔で返事をしました。

「お前が大人しいのは、食いもんに関してだけやな」

 愚痴をこぼしながらも、ソフトクリームを買ってやることにしました。小春の手の中にあるソフトクリームは、ピンク色です。先の尖ったニット帽のようなクリームを、頭からかじろうとする小春の顔は、情け容赦のない悪魔のように見えました。

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