第10話 ちりんころんあははの繰り返し。
どうにか車を発車させました。
ルームミラーに手を添えて背後を確認します。社長の車が後ろにいます。いくら気にするなと言っても、どうしても後ろの社長の存在が、背後霊のようになって私にまとわりついています。
小春は車が走り出すと、上半身をゆっくりと前後に揺らし始めました。しかも理由は不明ですが、口を開けたままでその行為に及んでいます。白い歯を剥き出しにしながら、ひたすら前後運動を繰り返しているのですから、はっきり言って気味が悪かったです。
車はたいてい上下左右に振動するものです。開いた口が塞がらない、というのはよく聞くたとえですが、車の振動のために小春の口がいきなり塞がれば、舌でも噛みそうな予感がしてどきどきしました。
しばらく走ると落ち着きだしたので、ようやく私もほっとしました。しかし隣にいる小春の行動には、明らかに問題がありました。小春は上半身を前のめりにし、ダッシュボードにべったりと肘から先の腕をくっつけています。しかもそこへ顎を押しつけているため、迂闊に急ブレーキでも踏もうものなら、大変な事故になりそうで心配でした。
車を運転していると、頻繁に不測の事態に見舞われます。誰かが飛び出してくるとか、犬や猫が道路を横断する場面に遭遇するとか、果てはトラックなどが、不用意に落とした荷物を避けなければならない場合もあります。
そんななか、頼りになるのはハンドルとブレーキだけです。ところが今の私はブレーキを強く踏み込むことを封じられています。もしもこの状況で急ブレーキでも踏めば、小春がフロントガラスに額を打ち付けるのは目に見えていました。
「危ないですよぉ」
優しい声で注意をしました。ところが小春は見向きもしませんでした。
「わあ、わあ」
先ほどから小春があげる声は、たったこれだけです。首を反らしてフロントガラス越しに、空を眺めているようです。向こうにあるものがよほど気に入っているのか、何度となく注意をしましたが、全く姿勢を変える気配はありませんでした。力づくでどうこうできるものでもなかったので、私にしたって気をつけて運転する以外に選択肢は残っていません。
やがて阪神高速の乗り口が近づいてきました。信号が青に変わってアクセルを踏み込みました。私の注意は前方が四で、小春のほうが六といったところです。ところがそれが拙かったのです。すぐに発車するだろうと思っていた前方の車が、意に反して動きだそうとしません。気づいたときには、前の車のテールランプが目前に迫っていました。慌ててブレーキを踏みました。運良く追突は免れたものの、前方ではなくて、隣でごつんという大きな音がしました。
「いたあ……」
小春は頭を押さえながら、体を丸く縮めています。
「だから危ないと言ったのに」
私はそれから信号待ちでブレーキを踏むたびに、左手を伸ばして小春のおでこを押さえることにしました。
私たちが乗った車は阪神高速を経由して、大阪市内を目指しています。行き先については、社長と事前に打ち合わせが終わっています。どこへ行っても良かったのですが、小春の様子から判断して、余り慣れていない場所へ行くのは避けたほうがいいと、社長に言われました。
広大な公園で《放し飼い》にするという手もありましたが、障害物のない場所で、ペットを自由にするのはあまり得策とは言えません。昔、私の家には《ケン》という犬がいて、近くの公園で散歩させたときの経験からして、障害物は多ければ多いほどいいと考えました。最後は私の意見を社長が承諾してくれて、行き先は天王寺公園に決定しました。
駅の近くにある駐車場に車を駐め、助手席に回ってドアを開けました。ところが小春はなぜか、車から降りるのを嫌がっています。
「どうしたの?」
飽きもせずに、フロントガラス越しに天井を覗いていました。駐車場は地下二階にあったので、小春の視線の先にはシミだらけのコンクリートがあるだけです。空を塞いだ汚れた物体に対して、どうやら小春は多少の抗議があるらしく、しきりに首を左右に振って、奇妙な声をあげていました。
「ふぅ、ふぅ」
こうなると、ひたすらお願いするしか仕方ありませんでした。
「あのぉ、降りてください」
ところがここでも期待通りにはいかず、《子供から回復できない》この二十二歳の女は、私の言うことを全く無視して、涼しい顔をしていました。
「うふふ」
ときおり笑い声まで混ぜて、私をバカにするような態度を取りました。そこで私は乗り込んだときのことを思い出し、ポケットに手を突っ込んで、さっきの鈴を取り出しました。
「ちりん」と音を鳴らして、小春を呼びます。
ところが私の思惑は外れ、なんと小春のやつは、前のフロントガラスを内側から叩いています。私の鈴の音に対して、「こんこん」と音を鳴らして返事をしました。しかもかなり高い音程の、笑い声まで混ぜながらです。
しばらくの間「ちりん」と「こんこん」「あはは」が繰り返されました。ようやく小春が車から降りたのは、それから五分以上も経過してからのことでした。こういうときに限って、社長は現れませんでした。駐車場の場所を打ち合わせしてあったので、先にここまで来ましたが、本当に役立たずな父親としか言いようがありません。
「ええ加減にせいよ」
額に力を込めて、迫力のある言葉を浴びせてやりました。ところが小春からの応答は、全くありません。仕方がないと諦めて、気分を一新しました。駐車場の出口に向かって歩き始めます。地面には白線が引かれていました。それがここでは歩道のような役割を担っています。
「危ないから、ちゃんと前を見ろ」
小春はちょっと目を離すと、とんでもない方向へ飛び出そうとしました。もう私の我慢も限界で、たとえ得意先のお嬢さんであったとしても、優しくしてばかりはいられません。
「こっちだ、こっち」
私が怒鳴ると小春は体をびくつかせました。
「こっちだ、こっち」
私が言ったように、小声で反芻しました。舌打ちを繰り返しながらも、小春のそばに近づいて、腕を掴んで出口のほうへ引っ張ろうとしました。
「や、や、や」
首を大きく振って、しきりに駄駄を捏ねます。
言っときますが、目の前にいるのは大人が演じている子どもではありません。《子どもから回復できない》大人の女が、まじめに行っている行動です。だから始末が悪いのです。あきれるのを通り越して、相手をしているのもうんざりでした。
人間には心の準備というものが必要です。先入観もときには大切で、子供なら子供の背丈と体つきをしてほしかったです。小春の身長はおそらく、一メートル六十センチを軽く越えているだろうと思います。しかも小春はメークこそしていないようでしたが、色は白く、唇にも艶があり、十人の男に意見を聞けば、好みの違いこそあれ、全員が美人だと答えるはずです。
そんな女がです。
車から降りるのに五分も掛かり、車の往来が激しい駐車場内では、どこへ飛び出すか分からず、おまけにエスコートしようと思えば「や、や、や」と、駄々をこねるのです。本当に、勘弁してほしかった。
やっとエレベーター乗り場に辿り着きました。そのころになってようやく、社長が追いついてきます。
「どうや、楽しんでるか?」
社長の問いかけに対して、私は即座に答えました。
「はあ、まあ、なんとか」
長い物には巻かれるのが、私の人生のような気がします。とにかく私たち三人は、エレベーターのドアが開くのをじっと待ちました。ところがここでも小春はおかしな行動を取りました。
ドアの上には数字のランプがあります。現在の位置を知らせるために、順番に点灯していく仕組みですが、灯りが流れる方向へ、なぜか小春の体も移動するんです。まるで蟹のように、横歩きをしながらです。
熱が出そうで、頭が痛くなりました。社長がいるので、さっきのように怒るわけにもいかず、私はただひたすら耐え忍ぶだけしか能がないカカシのようでした。だけどこれから先の展開を考えると、憂鬱な気分になって思わず目を伏せました。
次は新世界へ向かいます。アーメン。
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