第9話 子供から回復できない女と黄色いハイヒール。
彼女の名前は西上小春(にしがみ こはる)と言います。
西上社長の邸宅は、関西でも有数の高級住宅地である芦屋にありました。北には六甲山を望み、南に大阪湾を従えています。山のほうから海に向かって緩やかに傾斜し、深緑の海が優雅なだけの風景に、雄大な色を混ぜる役割を担っていました。
社長のお嬢さんを誘うために、これから毎週土曜日、この場を訪ねる必要があるのだと思うと、私にしたって感慨無量です。
インターフォンで呼びかけました。すると、しばらく待つように言われました。
やがて門扉の開く音がします。体の向きを変えると、玄関脇に立つ西上社長と、若い女性の姿が目に入りました。
すかさず駆け寄って挨拶をします。
「おはようございます」
「おう、ご苦労さん。今日はよろしゅう頼むでぇ」
社長は女性の背中に手を回し、しきりに何か言葉を掛けている様子でした。
「これが娘の小春(こはる)や。どや、べっぴんさんやろ」
小春は白いワンピースを着せられていました。袖のところが短めで、布地から飛び出す腕はまるで、色鉛筆のように細くて伸びやかな印象でした。長い髪の光沢も申し分なく、持ち物や服装に至るまで、十分な気配りが感じられました。ところが足もとからは、多少の違和感を貰ってしまいます。
小春は黄色に染められたハイヒールを履いていました。原色に塗られたハイヒールが余りにも強烈なインパクトを放っているため、体に比べて足だけが、異様にでかく感じてしまうのです。あえて言えばもう一つ、小春の目にはひどく曖昧な色が混じっています。顔を始終ひょこひょこ動かしながら、視線をあちこちに向けていました。
「ほんだら、そろそろ行こか」
今日のお出かけは、やや変則的なデートになると、事前に説明をしてもらっています。私と小春が二人で出かけるのは間違いないのですが、どうやら社長が後からついて来るというんです。
「わしを意識すな。おらんもんやと思うたらええ。ええか、わしは空気とおんなじやぞ」
目をむいて、そんなことを言いました。しかしどう考えても、かなり濁った空気としか言いようがありません。ただし私にしたって、たった一人で脳に障害を抱えたお嬢さんの世話をして、何かあったらそれこそ大変です。社長が後からついて来ることに関しては、なんの不服もありませんでした。だけどなぜ、私なんかに大金を払ってまでこんなことを頼むのか、私にはそれだけが、とにかく謎でした。
社長に催促されたので、運転席に回りました。ドアを開けてドアロックを解除したとき、背後で妙な音がしたので、振り返って目を凝らしました。
「危ないなあ。何を慌ててるんや。ゆっくりで、ええんやで」
なんと小春は、車の後ろにぶつかったらしく、尻もちをついているのが見えました。小春を抱き起こすために、社長がかいがいしく寄り添っています。
「ほんまに、こんなところに車を駐めやがって」
社長は眉を寄せて、険しい顔をしていました。どうやら怒りの矛先は、私のほうに向いているみたいです。
「す、すみません」
すぐに私も駆け寄りました。
「お前は早う運転席へ戻れ。わしがこの娘(こ)を車に乗せるさかい」
口調もきつく、目つきも鋭かったです。すぐに取って返して、運転席に乗り込みました。やがて助手席のドアが開いて、小春が姿を現しました。後ろには西上社長の顔も覗いています。
「ゆっくりでええで、そこに足を掛けて、お尻をシートに乗せるんや」
愚図りながらも、社長に背中を押された小春は、ようやく腰を折って体を屈めました。どうやら車に乗り込む準備を始めています。ところがステップに片足を掛けたとたん、私と目が合ったので、背後へ身を引きました。小春が逃げ出すのを、社長が懸命に防いでいます。声をあげながら、私に向かって何か、放り投げました。
「ほら、それを使って、そっちから小春を呼べ」
投げられた物が、太股の辺りで飛び跳ねました。とたんに「ちりん」と涼しい音が鳴ります。足もとに落ちた小物に目をやると、小さな鈴であることが分かりました。拾い上げて、音を鳴らしながら、小春を呼びました。
「お嬢さん、こっちですよ」
こんなことをしている自分が何だかひどく、間抜けに思えて仕方がありませんでした。
小春のほうは鈴の音に敏感な反応を示し、飛び込むような格好で、車に乗り込みました。すぐにこちらへ体を寄せて、私の手から鈴を奪おうとします。
「鈴を渡したらあかんぞ。ここぞというときに使うんや。ポケットにでも入れて、持ち歩いたらええわ」
社長がドアの外から、私に向かって指図しています。私は鈴を持つ手を背中に回し、小春が諦めるのをじっと待ちました。ところが思うようにはいかず、小春の顔が胸の辺りでごそごそと動き出します。
「お前、どこ触っとるんや」
どう考えても、触ってるのは私のほうじゃないと思います。
「よっしゃ、わしに任しとけ」
言うが早いか、フロントガラス付近でこんこんという音がしました。社長が外からフロントガラスを叩いているのが見えました。音の連続が功を奏し、ようやく小春の注意が社長のほうへ向きました。小春も社長の真似をして、内側からフロントガラスを叩いています。
「それからな、幾つか言うておくことがある」
社長はドアに片手を掛けながら、車内に頭を突っ込みました。
「なんでしょうか?」
神妙な態度で社長の言葉を待ちました。
「二時間ごとに、トイレへ連れて行け。場所が換わったら必ず、後ろにわしの姿があるかどうか、確認するんや。わしとはぐれてしもうたら、お前一人では大変なことになるで。それを忘れたらあかん」
なんだか厄介な事態になりそうな予感がしました。私の気も知らず、小春は無邪気に笑っています。
小春の笑い声は「うふふ」から「あはは」まで、だいだい五段階くらいの音程を操りながら感情を表しています。音程が上がれば上がるほど楽しそうに聞こえました。ただし小春はとにかく、手癖が悪かったです。
「それはまずいっすよ。お嬢さん」
ダッシュボードを開こうとしている小春を片手で押さえながら、ドアの外にいる社長に向かって懸命な笑顔を作りました。今の状態が長く続けば、私にしたって、一オクターブ上の声で笑えそうな気がしています。
「さあ、小春ちゃん、行っといで。おっちゃんの言うことをよう聞いて、楽しんでくるんやで」
小春に話しかけるときの社長の声はまるで、豆腐を箸でぐにゃりと潰したような感じです。私に対するときの口調とは、まるで次元が違っていました。
「じゃあ、行ってきます」
私の言葉が終わらないうちに、社長はドアを閉めました。小春に向かって手を振っています。それを見ていると、「娘は宝石だ」と話した社長の言葉を思い出しました。小春はどうやら、フロントガラスを叩くことにも飽きたようで、大きな口を開けてあくびをしました。しかもドアの外で手を振る社長に対しては、あくまでも無視の姿勢を貫いています。その潔い態度には、やや痛快な思いを味わいました。
さあいよいよ、私にとって、最高でその上最悪の一日が始まります。
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