第8話 得意先の社長の娘は、子どもから回復できない女であるらしい。

 西上電器の社長に呼び出されて、知恵の店へ行きました。社長は知恵を遠ざけて、奥の席に私と二人だけで座っています。

「わしにはな、四十前にできた娘がおるんや」

 唐突に話題を変えました。

「年を取ってから作った娘っちゅうもんはな、とにかく可愛いもんや」

 社長の視線がカウンターの向こうにいる知恵のほうへ伸びました。それに気づいた知恵が、にっこりと微笑んでいます。

「父親にとって、娘という生き物(もん)は性別不明や。言うてみれば人間やない、宝石みたいなもんや」

「それは、そうかもしれません」

 当時、独身だった私に、そんなことが分かるはずがありません。ダイヤモンドやエメラルドが母親のお腹から出てきたら、それこそ大ごとだと思いました。

「そんな娘がな、惜しいことに事故に遭うた」

 西上社長は水割りのグラスを片手に持ち、濁った液体に視線を向けています。グラスが頼りなく揺れると、中の氷がかちかちと音を鳴らしました。乾いた音が私の耳にも届くから、ついつい社長の話から言葉以上のものを感じ取ってしまいます。

「それで、いったいどうなったんすか?」

 身を乗り出して、社長の顔に注目しました。

「命に別状はないんや」

 社長はやはり、向こうにいる知恵を見つめながら話しています。

「ところがな、二十二歳にもなる娘が、まるで子供のようになってしもうたんや」

 事故に遭ったために子供になるという理屈が、私にはよく分かりませんでした。

「頭の中に内出血が残ったままや。しかもどうやら、危険な箇所にあるらしい。そやから手術もでけへんし、回復の見込みもないという話や」

 子供から回復できない女――話の内容が私にはまだまだ掴み切れていませんでした。ただし何らかの障害を、社長の娘が負った実情だけは理解できました。

 カウンターのそばにいる三人の女が騒いでいます。バッグがどうとか、男の顔がどうとか、果ては今朝のベーコンエッグは不味かった、などとしきりにぼやき始めていました。そんな話を遠くに聞きながら、私の視線は目の前にいる西上社長に注がれたままです。

 向こうにいる女のくだらない話が、どうやら社長の耳にも届いているらしく、内出血などと私を脅かす言葉を発してからは、しばらく話を中断しました。やがて社長が私のほうへ向き直りました。口を開いたときには、声にも力が込もっていました。

「そこでや。お前の力をちょっと借りたいと思うてるんや」

「力を借りるって、いったい俺は、何をすればいいんですか?」

 厄介なことを頼まれそうな予感がしました。だからと言って、いやな顔を見せるわけにもいかず、緊張を解くために口角を必要以上に上げる努力をしました。

「まあ、簡単なことや。娘の世話を手伝ってくれたらええんや」

「娘さんの世話を、俺がするんっすか?」

 私の言葉を聞くと、社長は顔を上げて口を尖らせました。

「なんや、いやなんか? ほんだらさっきの見積書の件も、ご破算やでぇ」

 社長からは見積書の倍の金額を支払うと言われています。

「いやなんて、言ってないじゃないですかぁ」

 本当に、難しい人だと思います。

「大丈夫です。お嬢さんの世話は、全部、俺に任せてください。ただ――」

「ただなんや?」

「俺の場合は仕事もあるわけだし――」

「そりゃそうや。そこまで無理は言わん。障害を持っとる娘や。たいていは家におる。ただし体も元気やし、そうそう家の中に閉じこめておくわけにもいかんしのぅ。そこでお前の出番や。土曜日は暇やろ」

「はあ、まあ……」

「煮え切らん返事やのう、どっちやねん?」

「暇です。やることなんて、まったくありません」

 これは嘘じゃなかった。当時は金回りが悪くて、特に暇な傾向は顕著でした。

「それでええ。土曜日はうちの娘を連れてデートに行け」

 更にいやな予感が身に迫りました。

「ひょっとして、結婚しろと言ってるんですか?」

 思い切って聞いてみました。

「そうやない。そんな大げさなもんやない。あんまり深刻に考えたらあかんでぇ。ただ土曜日だけ、娘の恋人役を演じてほしいだけなんや」

 社長はまた、知恵のほうに視線を向けました。目を細めて遠くを眺めています。私にしたって、この状況で拒否できるはずなどありませんでした。毎週土曜日だけ社長の娘の世話をすれば、二百万ほどの大金が手に入るわけです。

 どれほど熱心なカトリック信者であったとしても、こういう選択を迫られたら、仏壇の前で手を合わせるに違いないと、私は思いました。

「いつまでやれば、いいんでしょうか?」

 一生ずーっと頼むと言われたら、体よく厄介者を押しつけられたようなものです。報酬からいって、一年や二年なら我慢もします。得意先の社長の頼みでもあるわけだし――。

 だけどそれ以上なら、考える必要がありました。

「まあ、一年とは言わん。三ヶ月くらいのところが、せいぜいやと思う」

 社長の顔がぼんやりと霞んで見えました。元々このスナックの照明はいい加減で、店の女を明るく照らすほどの誠実さはありませんでしたが、それにしても私には暗すぎるように思えました。

「よっしゃ、ほんだら来週から頼むでぇ」

 社長が手を振って知恵を呼びました。用件が済んだあとは面倒な話は一切なしで、知恵と社長が楽しそうに騒ぎ始めました。そのうち社長がやたら時計を気にし出します。視線を私から外して、小難しい表情を浮かべました。社長の様子に気づいた私は、そろそろお開きだと感じたので「タクシーでも呼びましょうか?」と気を利かせて尋ねてみました。

「そうやなあ、悪いがそうしてもらおか」

 社長はおしぼりを額に宛がって、しきりに深い吐息を漏らしています。何だかひどく疲れているような感じがしました。それに比べて、隣に座る知恵は相変わらず元気そのものです。背後霊がスタミナドリンを、しこたま煽ったような顔をしています。しかも私と目を合わせたとたん、唇を器用に動かして、口角を極端に広げて見せました。

 西上社長はそのうち席を立ちました。時計が十二時半を回ったころ、私と社長は店を出ました。これが社長の頼み事のすべてです。

 しかし社長の頼み事は、当初の予定とは決定的に内容が変わりました。社長は三ヶ月と言いましたが、私と子供から回復できない女との関わりは、実はたった一日だけでした。だけどおそらく、印象の尺度は時間ではありません。私の中で、彼女は今でも、とてつもなく大きな存在感を持ち合わせているのですから。

 彼女とたった一日だけ接点を持った日、私たちは新世界から天王寺公園へ向かいました。

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