第7話 得意先の社長に呼び出されて、頼まれ事をした日の話です。
知恵の店に入ったとたん、「まいど」という声が聞こえてきました。
大阪には特別な言葉があります。「まいど」という言葉には「おはようございます」から「こんばんは」までが含まれているんですから、まったく便利な挨拶です。
店の中は薄暗いくせに、カウンターの向こうだけがやけに明るく感じました。十人も客が入れば息が詰まりそうな店でしかなかったのですが、ツケが利いて心おきなく飲めるのは、私にとってはこの店だけだったので、重宝しています。
正面側の壁一面が棚になっていて、首に名札を掛けられた洋酒の瓶が、行儀よく並んでいました。カウンターの手前にはスツールが四つ。左手にはカラオケの機械が置いてあり、前に立つ譜面スタンドの脇には、ネズミのように尻尾を垂らした黒いマイクが掛けられてありました。
奥にはボックス席が二つ用意されています。灯りの端(はじ)から私を呼ぶ声がしました。
「こっちや、こっちや」
向こうにいるのが西上電器の社長です。
薄くなった額の辺りをしきりに白いハンカチで拭っています。年齢の割には血色のよい肌の色と勢いのある喋り方は、この年代の人には共通の長所だといえますが、同時に目下の者がもっとも嫌みに感じる所作でもありました。
慌てて近づいて大きく肩を揺らし、とにかく急いで来ました、それを全身で表現しながら、向かいの席に腰を下ろしました。
「なんかあったんすか?」
「なんもないわい」
社長の声が、最後のほうは笑い声に変わっていました。激しく鼓膜を揺らすその声は、私に対する歓迎の印ではなくて、隣に座っている女、知恵に向かって発している、雄叫びといったところでしょうか。
店内には他に客の姿は見あたりません。私を入れても店の女のほうが、客よりも一人多かったです。カウンターの向こうにはママと知恵の姉ちゃんがいます。私は知恵の姉ちゃんの顔を一瞥してから、テーブルの上に視線を落としました。
「ハッサン、今夜は一番ええお酒、飲もか」
知恵が遠慮なく、私をいたぶっています。
「せやな、せっかく社長も来てくれたことやし」
「おおきに」
人の弱みにつけ込む女は、いつか男にこっぴどく騙されるはずです。怨念を込めて、知恵の顔を睨みつけてやりました。
「最近、仕事のほうはどんな調子やねん」
大きな目玉をぎろりと剥いて、社長が私の顔を真正面から見据えています。
「ぼちぼちですわ」
ここでも大阪には、当たり障りのない言い方が存在します。儲かっていようが、損していようが、全部を引っくるめて「ぼちぼち」で話は済みます。
「そらそうと、例のキュービクルの設置の件で、えらい揉めてるらしいな」
緊張したままの私を前に置き、西上社長はいきなり仕事の話を切り出しました。
「金額が折り合わなくて、難儀してます」
「難儀もくそあるかいな。あの見積もりは、いったいどういうつもりや。なんぼなんでも高すぎるやないか。今日も担当が泣いとったでぇ」
こういう席で、堅い話を持ち出すのは珍しいことでした。
「もう、あれで一杯か?」
奈良県十津川村で、携帯電話の中継点に置く、配電盤一式を近々取り替えるらしいのです。私が話を貰っているのは工事の一部でしかなかったのですが、それでも二百万ほどの見積書を提出しています。
「まあ、一割くらいなら、何とか」
現地作業に下請けを使う必要があったので、多少、高めに見積もっているのは事実です。だけどあまり値切られたんでは、金額が大きいだけに損をする額も半端じゃなくなります。
「若いくせに、思い切りの悪いやっちゃなあ」
「ほんまや、諦めの悪い男や」
知恵がまた、話に割り込んできます。
「まあええわ。知恵ちゃん、ちょっと席を外してんか」
意外なことに、社長は知恵を遠ざけようとしました。
「なんでやのん。男同士で飲んだらあかんで。おかしな病気になるで」
「病気の心配するほどの年やないわ。それよりもな、おっちゃんら、大事な話があるんや。そやから頼むわ」
ようやく知恵が席を立ちました。
テーブルの上には、洋酒のボトルが載せてありました。横にはアイスボックスが並んでいます。グラスは私と社長の前に一つずつ置かれてありました。二つのグラスを眺めながら、社長が口を開くのをじっと待ちました。
するとようやく溜息が一つ聞こえ、そのあと社長が私のほうに顔を寄せました。
「例の見積もりの件やけどな、今の倍の金額、書いて持ってこい。かめへんから」
言っている意味が分からなくて、私はただぼんやりと社長の顔を眺めていました。
「なんちゅう顔してんねん」
「あれは確か、総額で二百万ほどになるはずで、その倍といったら――」
とにかく、うろたえました。
「そうや、倍でもまだ不服か?」
「いや、そう言うわけじゃなくて……」
電気工事を行う場合の代金はかなりいい加減なもので、元請けの工事屋がちょっとクレームをつけただけで、下請けの損害は相当な額にのぼります。だからたいていの電気屋は実際にかかる工数の、倍くらいの見積書を提出するのが常でした。だけどそれは西上電器がゼネコンや、大手の工事会社などを相手にする場合の話です。零細企業の私たちがそんな真似をしたら、明くる日からとたんに仕事は止まってしまいます。
「ただしや、なんにでも条件はあるで」
ほら来た。そうだろうと思いました。
「実はな、困ったことがあってな」
社長は眉を寄せながら、視線を落としました。
「お前に頼みたいことがあるんや」
顔を上げて、私を睨んだ社長の目はひどく真剣で、アルコールの影は一切、見あたりませんでした。それから社長が話した頼み事は、驚くべき内容でした。しかも見返りに、かなりの金額のお金がもらえるというんですから、破格としか言いようがありません。
ただし、なんにでも条件があります。それが曲者でした。
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