第6話 結局私は、姉ちゃんに騙されていました。

 おそらく誰にでも、生涯に一度だけ経験するに違いない百万ドルナイト、それが私にとってはあの夜でした。

 妄想の中でなら、姉ちゃんを何度も抱いたことがあります。

「なんか、首の辺りがこそばゆいわ」

 冷蔵庫の中へ差し入れた手を引っ込めて、姉ちゃんは肩を竦めました。私の吐息が、姉ちゃんの首筋に吹き掛かっていたからです。私は取り乱した気持ちをいまだに引き摺っています。後戻りできない自分をはっきりと意識していました。私だけのものしたい。まるで子どものような感情が手もとにありました。

 胸の辺りを姉ちゃんの背中へ押しつけて、顎の先で首筋を捉えています。

「ごめん」

 喉から出てくる言葉だけが、私にとっては唯一の矛盾でした。

「こそばいやんか」

 姉ちゃんは首を左右に振りました。そのせいで、私はわずかに体を後ろに引きました。すかさず姉ちゃんは上体を起こして私のほうへ顔を向けました。とたんに私は姉ちゃんが逃げ出しそうな予感がしたので、姉ちゃんとの間隔を詰めました。

「ハッサンはいったい、何がしたいのん?」

 姉ちゃんの口もとにあったはずの笑みが消えています。黒い瞳が私の顔を見据えていました。私は答える変わりに、なおも体を姉ちゃんの胸もとへ押しつけました。

「痛いやん」

 姉ちゃんの言葉は私には都合良く聞こえていました。強い口調ではなかったから、拒否されていないと思ったのです。

「ハッサン、やめて……」

 首筋に唇を近づけました。とたんに冷蔵庫が稼働して、ぶーんという音を鳴らしました。姉ちゃんの右手は冷蔵庫の扉を掴んでいます。扉が大きく開いて、玄関との仕切りの壁にぶつかりました。

「うちと、したいんか?」

 耳もとで姉ちゃんの声がしました。姉ちゃんに押しつけた体を背後へ引き、私は小さく頷きました。鼻先と鼻先とが触れ合うほどの距離で、姉ちゃんの息と私の荒い吐息が混じり合っています。灯りの埋まった瞳で、姉ちゃんは私の顔をじっと睨んでいました。姉ちゃんが迎え入れてくれるのを、私はただひたすら待ちました。沈黙が続く限り、内から滾る思いが消えることはないと思いました。

 やがて姉ちゃんが視線を下げて、長い睫毛を私に向けました。それを見た私は許されたのだと確信しました。体に触れることを承諾したのだと直感しました。ときめきよりも、もっと激しい感情が私を支配していました。

 腕に力を込めて、姉ちゃんの体を引き寄せようとしました。ところが私の意志よりも早く、姉ちゃんの手が頭上へ伸びて、私の頭髪を掴み、髪の根本へ長い指を滑り込ませました。

 一番高いところにある神経が、指の腹を確かに感じています。

「絶対に、動いたらあかんで」

 囁いたあとに、もう一方の手も私の頭に近づけました。両手を髪に絡ませて、柔らかく頭皮の上で動かしています。

「お金を貸す代わりに――ということやな」

 姉ちゃんの唇が目の前で形を変えました。私は身じろぎもせず、ピンクに塗られた唇を眺めていました。髪の中に差し込まれた指は、いまだに動きをやめようとはしてしません。爪の感覚を貰うたびに、低い呻き声を漏らすしかありませんでした。

 うっとりしながらも、姉ちゃんの隙を窺っています。わずかでも瞳が揺れようもんなら、止めようのない感情が噴き出してしまうのを自覚しています。

「ハッサンのこと、うちは嫌いやない。けどな、金で買われるんは、うちがあんまり惨めやわ」

 姉ちゃんが喋ると吐息が鼻先に吹き掛かりました。臭いが私の体をむやみに刺激しています。刺激に応えるかのように、喉がごくりと音を鳴らしました。したたかな姉ちゃんの動きは私のわずかな変化も見逃さず、高まりすぎると頭部に爪を突き立てました。

 姉ちゃんの唇が近づいてきました。頬の辺りを素通りし、耳もとにねっとりと湿った感触が広がっています。やがて神経が微かな痛みを拾います。皮膚の表面に、歯の感触が確かにありました。

「また今度、来るさかいにな。その時は冷蔵庫を一杯にしとかな、あかんで」

 姉ちゃんが私から離れようとしています。それが堪らなくなって、懸命に追い掛けました。

「あかんて。これ以上はいやや。うちを惨めにせんといて、な」

 姉ちゃんの左手が私の胸を押さえています。腕一本で拒否されていることに、私はひどい屈辱感を覚えていました。

「なんでや。俺は姉ちゃんのことが好きや」

「好きやのに、金でうちを買うんか?」

 姉ちゃんの視線が鋭くなりました。

「そんなつもりやない」

「ほんだら、いったいどういうつもりなんや?」

 口調も今までになく、きついものに変わっていました。私は顔を下へ向けて、がっくりと体から力を抜きました。

「あほやな、何でそんなに悲しそうな顔ぉすんのん。またきっと来るから、今日は我慢してな」

 私の体をかわして、姉ちゃんはリビングへ戻りました。私のほうはいまだに冷蔵庫の前を動けずにいます。前から吹き出す冷気が心地よくて、何も感じられなくなるまで、体を冷やしてほしいと願うのみです。

 そのうち背後で姉ちゃんの気配を感じたので、ようやく振り返りました。すると正面に立つ姉ちゃんの姿が目に入りました。お金を収めた黒いバッグを抱えています。

「なぁんもなかったんやで。気にしたらあかん。うちはハッサンから、お金を借りただけや。晩飯がまだやと言うから、何か作ってやろうと思うたけど、冷蔵庫が空っぽで、残念やったな」

 姉ちゃんは片手をこちらへ伸ばしました。口もとの笑みが、また戻っています。

「ええか、うちを追い掛けて来たら、絶対にあかんで」

 姉ちゃんは低い声を出し、耳もとに置いた手を下へずらしました。首筋の辺りで姉ちゃんの温もりを感じています。やがてうなじにあった指が離れ、姉ちゃんの体は向きを変えました。薄暗い玄関先で、姉ちゃんの顔だけがひときわ白く浮き出ていました。

 姉ちゃんはサンダルを履き終えて、立ち上がりました。

「姉ちゃん。待ってや」

 私の声を姉ちゃんは背中で聞きました。ドアを開けて体を表に出し、そこでようやく足を止めて、私のほうを振り返りました。

「なあ、ハッサン。よう聞いてや」

 どこからか集まってくる灯りが、姉ちゃんの瞳の中に紛れ込んでいます。水面を揺らすネオンのように揺らいでいました。

「知恵はあんな子やから、友達もあんまりいてへん。せやから、知恵のことをこれから先も、よろしゅう頼むわな」

 最後にもう一度、姉ちゃんは潤んだ瞳を私に向けました。そのあとすぐに、ドアの向こうに姿を消しました。

 ところが私にとっての百万ドルナイトが、真っ赤な偽物であったことが、やがて明らかになります。それからしばらくして、知恵に会ったとき、私が姉ちゃんに騙されていたことがわかったのです。

「うちはな、小さいころから姉ちゃんのことを、いつか殺したろと思うてたんや」

 知恵の声は強くて、それでいてどうしようもなく、悲しげでした。

「姉ちゃんはな、人のもんをすぐに欲しがるんや。挙句の果てに、自分のもんも他人のもんも、区別がつかんようになる。病気やわ」

 知恵がどれだけ悪態をついたとしても、どことなく柔らかな印象を貰います。闇の中に、白い綿を置いたような感じがありました。

「他人のもんに手ぇ出すんは、今回が初めてやない。小さいころはな、いつも姉ちゃんがうちのもんを盗った。そのうち友達のもんに手を付けた」

 ふと蘇った光景がありました。知恵が高校のとき、校庭で男子を後ろから殴打した、あの場面です。ひょっとして知恵があんなことをしたのは、姉ちゃんが原因だったのかもしれないと思いました。

 とにかく、姉ちゃんは店の客を何人か騙し、お金をせしめて、どこかへ逃げました。私の淡い初恋も、遠い記憶の中にこのときそっと、封印されました。

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