第5話 知恵の姉ちゃんといた百万ドルナイト。

 私にとってのあの夜は、まさに百万ドルの価値があります。

 姉ちゃんと約束した晩、私は仕事で遅くなり、帰るのが少し遅れました。慌てて通路を走ると、ドアの前に立つ人影を見つけて、足を緩めました。近づくにつれて、輪郭が鮮やかになっていきます。

「わあ、ようよう帰ってきてくれたわ」

 声を聞いて、知恵の姉ちゃんだと分かりました。

「ごめん、ごめん。待ったやろ、姉ちゃん」

「ほんまや。えらい待たされたわ」

 姉ちゃんは体を傾けて、私の顔を横目で睨んでいます。

「嘘や、嘘や。うちもさっき来たとこや」

 すぐに顔を綻ばせた姉ちゃんは、私に向かって白い歯を覗かせました。

「迷うてしもうたわ。この辺をぐるぐる回ってた。ハッサンのマンションに来たのは、今日が初めてやったしな」

 姉ちゃんは黒い半袖のブラウスと、同じ色のスカートを穿いていました。ややもすると、闇の中に紛れてしまいそうな服装でしたが、姉ちゃんの白い肌は、真っ黒に塗られた空気の中でも鮮やかな色艶を失っていませんでした。

「何ぃしてんのん。早う、鍵ぃ開けてぇな」

 姉ちゃんはドアの前から体をずらして、ドアノブへ視線を向けました。私はポケットに手を突っ込んで、部屋の鍵を探しています。ところが指先の感覚が鈍いのか、それとも敏感になりすぎているのか、掴みだしたはずの鍵が手もとを離れ、そのまま床を転がりました。

「どうしたん?」

 姉ちゃんは私の顔を見つめながら、微笑んでいます。

「うちに拾わすんか?」

 姉ちゃんが屈みかけたので、私はすぐにしゃがんで鍵を拾い上げました。

「姉ちゃんと一緒におると、俺、上がってしまうわ」

 ほんの少しおどけた調子で言って、精いっぱいの見栄を張りました。

「よう言うてるわ。ハッサンにそんなこと言われたら、うちのほうが、恥ずかしゅうなってしまうやんか」

 姉ちゃんの声が耳もとにありました。ドアを開けて玄関の電灯を点けました。

「汚いところやけど、遠慮せんと上がってな」

 先に靴を脱いで、姉ちゃんのためにスリッパを出しました。

「男の独り暮らしで、小綺麗な部屋やったら、それのほうがよっぽど気持ち悪いわ」

 姉ちゃんは笑顔のままでサンダルを脱ぎ、私の出したスリッパに足を通しました。リビングには昼間の熱気が溜まったままです。

「ちょっと暑いけど、しばらく辛抱してな。すぐにエアコンを点けるさかい」

「かめへんわ。気にせんといて」

 姉ちゃんは部屋の中央に立ったままで、首を回して室内を確かめています。私はガラスのテーブルを引き摺って、姉ちゃんの前に置きました。

「そこらにあるクッションを、勝手に使うてくれたらええわ」

 姉ちゃんはクリーム色のクッションを手もとに引き寄せて、やけに楽しそうな顔をしながら、クッションの上に腰を下ろしました。

「これでええんか? ここはハッサンの部屋やから、何でも言われたようにせんとな」

 私は上着を脱いで、部屋の隅に放り投げました。下着がじっとりと濡れています。暑いのもあったし、姉ちゃんと二人でいると思うだけで、体が感じる温度はとたんに上がってしまいます。毛穴が大きく開いて、玉のような汗が噴き出てきます。流れた汗が顎を伝い、フローリングの床に零れ落ちていました。

 姉ちゃんの向かいに胡座をかいて、テーブルの上に、お金の入った封筒を置きました。

「あんたも苦しいやろうに、悪いなぁ、ハッサン」

 姉ちゃんは上体を私のほうに近づけて、眉を寄せながら細い声を出しました。

「ほんまに、恩に着るわ」

 姉ちゃんはお金の入った封筒を、バッグの中にしまいました。前にいる私は姉ちゃんの姿を、じっと眺めています。高校の時からずっと、憧れていた姉ちゃんが私の部屋にいる、信じられない気持ちと、抑えようのない期待感を自覚していました。

 無理をして、姉ちゃんの望みの物を与えたのだから、今度は私が欲しい物を望んだとしても、決して悪くはないんだと、胸の内でしきりに呟きました。

 しばらくの沈黙がありました。それでも姉ちゃんは、立ち上がろうとはしませんでした。あながち独りよがりではないのだと感じていました。だけどどうやって姉ちゃんを誘えばいいのか、どんな台詞でセックスがしたいと伝えればいいのか、迷うばかりでまるで意気地がありません。

 知恵になら、どんなことでも言えました。知恵でなくても、姉ちゃん以外の女だったら、少しはましな言い方を考えつくはずだと思っています。だけどやっぱり姉ちゃんだけは違っていました。特別な女性だったのだと、つくづく思い知らされました。

 ようやくエアコンが利きだして、噴き出す汗も収まりました。姉ちゃんは首を回しながら、部屋の中を珍しげに眺めています。視線は不自然なくらい私のほうには向かず、片手で顔を扇いで、ときおり微かな吐息を漏らしていました。姉ちゃんの吐く息を感じるたびに、堪らない気持ちになりました。拳を握って腿の上に置き、「泊まっていくか」と、たった一言だけ声に出してみようと決心しました。

 ところが間の悪いことに、顔を上げたとたん、私よりも先に姉ちゃんが予想外の言葉を口にしました。

「ハッサン、ごはん、食べたんか?」

 言われてみれば、晩飯はまだ済んでいませんでした

「仕事が忙しかったから、まだ食べてないんや。忘れとったわ」

 とたんに姉ちゃんが眉を寄せました。

「男の独り住まいは、やっぱりあかんわ。臭いのは我慢したるけど、体を壊しても、うちはハッサンの面倒を見たらへんで」

 姉ちゃんはいきなり立ち上がって、可笑しそうに笑い出し、口もとを押さえながら、ダイニングへ足を向けました。

「いったい、何をするん?」

 慌てて姉ちゃんの背中を追い掛けました。

 ダイニングは玄関脇に位置しています。玄関とは隣り合わせで、区切りをつけるために壁が五十センチほど突き出ています。仕切りの壁に沿わせて冷蔵庫が置いてあります。流し台の手前には、二人掛け用のテーブルも用意されていました。

 ダイニングの電灯は点いていません。流し台の上の照明も消えていました。窓はあったが、磨りガラスだったので、月明かりを取り込むほどの融通はありません。だからひどく暗く感じました。姉ちゃんがダイニングへ立ったとき、闇の中へ消えていくような錯覚を貰い、私はかなり取り乱して姉ちゃんのそばに近づきました。

 ところが姉ちゃんは私の様子など構いもせず、冷蔵庫の前で足を止め、ゆっくりと振り返ったあと、私に向かって微笑みました。

「なんか作ったるわ」

 姉ちゃんの瞳は黒い部分がやたらと印象的で、左の目尻の脇に小さなホクロがありました。

「ええて、姉ちゃん」

 姉ちゃんの腕に手を掛けて止めようとしました。

「あかん、あかん、男の人が台所へ女を追い掛けてきたら、罰金取るで」

 姉ちゃんは私の手を遮って、冷蔵庫の扉を開けました。冷蔵庫の中から飛び出た灯りが、姉ちゃんの顔を橙色に染めています。

「あぁあ、何も入ってないやん。これでよう生きていけるもんや。呆れるわ」

 姉ちゃんは腰を屈めて、冷蔵庫の中を覗いています。私は姉ちゃんのすぐ後ろに立ち、か細いうなじにただじっと見とれていました。

 私にとっては夢のようなひと時でした。まさしく百万ドルナイトと言える特別な夜です。でも結局私は、姉ちゃんに騙されていたのです。

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