第4話 知恵の姉ちゃんが私を訪ねて来ました。

 知恵の姉ちゃんが昼間、何の前触れもなく、私の工場にやって来たのです。あの日の私は、まさに有頂天で、雲の上でも歩いているかのような気持ちでした。

工場の入り口から、こちらを覗いている女性がいました。

 髪の毛は短く、胸の大きく開いたプリント柄のワンピースを着ていました。

 近づいて顔を確認したとたん、驚いていったん足を止めました。にっこりと微笑みながら立っていたのはなんと、知恵の姉ちゃんだったのです。

 予想外の出来事でした。

 私は高校の時から、知恵の姉ちゃんに憧れていました。知恵の店に通い出したのも、店に行けば姉ちゃんに会えると思ったからです。ところが姉ちゃんが私の相手をしてくれることなど、ほとんどなかったので、最近は見ているだけが関の山で、憧れ以上の感情も薄れつつありました。

「どうしたん?」

 慌てて駆け寄って、声を掛けました。

「暑いのに、頑張ってるんやね。ハッサンも大変やわ」

 もともと姉ちゃんの肌は白かったが、日ざしのお陰でもっと白く見えました。

「なんやの? 顔が赤うなってる。皮がいっぱい剥けてるやん」

 熔接を使うと一日で顔の皮が捲れてきます。顔どころか目の中も焼いて、慣れないうちは目蓋の内側が痛くて痛くて、夜も眠れないほど苦しんだこともありました。私にとって、顔や目を焼くのは職業病だと言えます。

 体裁が悪くて、作業服の袖で顔を拭ってごまかそうとしました。ところがそれがなお、悪かったみたいです。

「わあ、真っ黒になったわ。えらいこっちゃ」

 どうやら袖には油汚れがついていたらしく、よけいに格好がつかなくなって、思わず目を伏せました。

「ほらほら、動かんとき。拭いたるさかい」

 姉ちゃんは、白いハンカチを懐から取り出して、私に近寄ってきました。

「ええよ、姉ちゃん。ハンカチのほうが汚れるわ」

 左手で顔を押さえようとしましたが、姉ちゃんの手が伸びるほうが早くて、微かな香りを伴った白いハンカチが頬の辺りを優しく撫でました。

「ありがとう」

「気にせんとき。男やろ」

 日ざしも強かったのですが、私の体のほうがもっと熱かったと白状します。しかも目の前には姉ちゃんの細い首がありました。肩は私の胸に触れていたし、視線を下げれば大きく開いた襟元から、胸の谷間までが覗いていました。

 ようやく姉ちゃんはハンカチを引っ込めて、体を引きました。

「昼間に会うと、なんか照れくさいな」

 姉ちゃんは笑うと、頬の辺りに微かな笑窪が出ます。あのとき私は初めて、姉ちゃんの笑窪を発見しました。

「実はな、ハッサンに相談したいことがあって来たんや。時間はあるやろか?」

「今はちょっと時間がないけど、夜にでも店へ行くわ」

「ここでも済む話やし、ほんの少しだけ、時間を貰われへんやろか?」

「少しなら、ええよ」

 姉ちゃんは押しが強くて、私はとても断れませんでした。

「こんなこと、他のもんには頼まれへんし、困ってるんよ」

 弱弱しい声で私にそう言いました。声の調子とは裏腹に、こめかみの辺りには、かなりの力が籠もっているような感じがしました。

「なんか、あったん?」

「知恵のことやねん」

 姉ちゃんの声には、更に力がなくなっています。

「あの子な、えらいことぉしてくれたんや」

 知恵がまた、何かをやらかしたのだろうか。

「それがな、知恵に入れ込んどる客がおってな、その男からお金を借りてるみたいやねん」

 知恵に入れ込んでる客がいたなんて、初耳でした。知恵は無愛想で、客受けは極端に悪かったはずです。

 私が知恵の店に通い出したころ、高校の時の友人も幾人か、姉ちゃんが目当てで店に顔を出していました。ところが姉ちゃんには相手にされず、知恵は無愛想そのものだったので、今では誰も店にやって来なくなりました。

「ええ時はええんやけど、知恵はあの調子やろ。借金してる相手を、えろう怒らせてしもうて、そりゃもう大変なんや。すぐに金を返せと言うて来るし、家まで押し掛けてきて、ゴロまくんよ」

 確かに知恵は借金している相手だからと言って、遠慮したり、べんちゃらを言ったりできないやつでした。

「放っといてもええんやけど、身内やから、そういうわけにもいかんしな。怖うて、家にもおられへんし。仕方なしに、うちがなんとかするつもりで、知り合いに無理を言うたんや」

 姉ちゃんはバッグを探り、一枚の紙切れを取り出しました。姉ちゃんが差し出した紙片はなんと、一千万円の手形でした。

「あともう百万ほど足らんねん。ここまで来たら、うちにはハッサンしか、頼れる人はおらんしな。無理ばかり言うて、心苦しいんやけど、百万、ううん、たとえ五十万ほどでも、何とかならんやろか」

 姉ちゃんはさっきまでとは違い、声にも力が戻っています。

 決心がつかずに黙ったままでいると、姉ちゃんは私の腕を掴んで胸元へ引き寄せました。手の甲に柔らかい感触が広がって、私は思わずどきりとしました。

「知恵にお金を貸せとは言わん。うちが保証するわ。うちが必ず返すから、何とかしてぇな」

 姉ちゃんにこれほど頼まれれば、私としても頷くしかありませんでした。決心するために、知恵に対して心の中で悪態をつきました。

「晩にハッサンのマンションへ行くわ。何時ごろがええやろか?」

 意味深な言葉だと思いました。

 私の部屋へ姉ちゃんが夜、訪ねてくる。しかも知恵のためとは言え、私に金を貸してくれと頼んでいるのです。お金と引き替えに――と考えても、何の不思議もなかったし、姉ちゃんも私の部屋へ来る限りは、何もかも承知している、と思ってもいいのでしょうか。

「今日は午後から現場へ行くんで、ちょっと遅うなるかもしれん」

「かめへん。うちのほうが無理を言うてるんやさかい。何時でもええわ。十時くらいでええやろか? それとも、もっと遅いほうがええか?」

「いや、十時でええ――」

 喉がカラカラでした。

「それからな、うちがお金を借りに来たことは、知恵には絶対に内緒にしてほしいんや。あの子のことやから、ハッサンにお金を借りたと言うたら、とたんに偏屈だして、絶対に受け取らへんと思うし」

 確かに知恵は厄介なことばかり仕出かすくせに、理屈が達者でプライドも高くて、扱いにくいやつです。

「これはうちがハッサンから借りるんや。返すのもうちやし、保証もうちがする。知恵には関係ないわ。どんなことがあっても、うちが返済するさかい、心配せんといてな」

 背中に姉ちゃんの手を感じていました。

「うちの携帯の番号を教えとくわ。なんかあったら、連絡してな」

 姉ちゃんは左手を私の胸元へ伸ばし、作業服の胸ポケットに紙切れを入れました。

「ほんだら、頼むわな」

 私はその場で、姉ちゃんの後ろ姿を見送りました。頬の辺りを流れる汗が、顎を伝って地面に落ちるのを感じていました。

 そしてついに、姉ちゃんが私のマンションを訪ねてきたのです。それは私にとって、とてつもなく大きな事件でした。

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