第3話 うちはな、金ではなびかへん。
スナックで知恵といると、時折、似合わないことを言いました。
高校のときから被害者の会を連れて歩いていたくせに、よくもそんなことが言えるもんだと、感心した覚えがあります。
「なんやったら、なびくんや?」
私は聞きました。すると知恵はしばらく考え込んでから、顔を上げました。
「愛や」
思わず、吹き出しました。口の中の物がカウンターの上に飛び散ったんですから、たまりません。
「お前のほうが、あほやろ」
心おきなく笑い飛ばしてやりました。
「もうええわ。どうせ下ネタで、うちを遣り込めたつもりでおるんやろうけど、そうはいかんで」
どこが下ネタなのか、さっぱりわかりませんが、とにかく負けん気の強い知恵は、やられたままでは引き下がらろうとはしません。
「算数の問題、出したるわ。それを解いたら、潔く負けを認めたる」
好きなようにやらせてやろうと思いました。
「お酒の在庫が十本ないと営業できないお店があって、そこの店には現在、十五本のお酒があります。ところが今夜はたくさんのお客さんが来て、十本のお酒がなくなりました。さて、明くる日には何本のお酒を仕入れる必要があるでしょうか?」
機嫌良く知恵が演説しています。
「お前、俺を馬鹿にしてるんか?」
「なーんも、馬鹿になんかしてへんよ。はよ答えてみ」
まるで小学校の先生のような口調でした。
「最低、五本や。でないと営業でけへんやろ。それ以上でもかめへんけど、お金の都合で二本だけしか仕入れがでけへん、なんていうのはあかんぞ。インチキや」
馬鹿馬鹿しいとは思いながらも、私は真面目に答えました。
「ぶぅぶーっ」
知恵は唇を突き出しながら、駄目出しをしました。
「お前、またなんかズル考えてるやろ」
「ズルやない。きっちりした算数を教えたるわ」
知恵は得意げな顔をしながら、鼻の頭をつんと上に向けました。
「十本のお酒がなくなったわけやから、うちが言うてる店には十本の空き瓶があって、五本のお酒が残ってるわけや。そうやな?」
「そりゃそうや」
「ということはや。残った五本の封を開けて、それを空き瓶の十本と在庫の五本に、満遍なく振り分けるんや」
「そんなことをして、いったいどうするつもりや?」
「後はボトルが一杯になるまで、水を足すんや。それが終わったら封をし直したらええ。これでまた、十五本のお酒に戻ったわけや。十五本やったら余裕やし、営業もできるから、仕入れはいらんというのが、大正解や。これをしばらく繰り返してもええんやけど、やり過ぎは何でもあかん。注意せなあかんで」
「あほなこと言わんとき」
話が終わると、ママがきつい口調で知恵をたしなめました。
「薄くなってしまうから、そんなことをしても、すぐにバレてしまうやろ」
「あほやな。あんたかて、水割りを飲んどるやろうが。五本もあったら十分や。どうせ薄めるんやし、おんなじことや。誰も気づいたりはせん」
茫然としながら、目の前にある水割りのグラスを見つめ直しました。
「やっぱり、うちの勝ちや」
勝ち誇った顔で、知恵のやつが笑っています。知恵はカウンターに肘を突いて、子供のような顔をしました。
「姉ちゃんを、呼んできたろか?」
「なあ知恵。なんであんなことをしたんや?」
今さらではあったんですが、知恵が退学になった原因が知りたくなりました。
「あんなことって?」
「校庭で暴れたやろ、あれや。なんか理由があったんやろ?」
知恵はしばらく黙ったあと、ソルトの入れ物や爪楊枝の入れ物や、ペッパーの入った瓶を持ってきて、三つの容器を私の前に並べました。
「これは、うちや」
知恵がソルトの入れ物を指さしました。
「それから、これがあんたや」
爪楊枝の入れ物が、俺だと言います。
「最後に、これが姉ちゃんや」
何のことだか、さっぱり分かりません。
「うちはな、舐めると辛いんや。ほんで、あんたは先が尖っとる」
「お前は何が言いたいんや?」
「まあええから、最後まで聞きぃや」
知恵はペッパーの入った容器を持ち上げました。
「手ぇ出してみ」
言われたように片手を前に置くと、知恵のやつは掌にペッパーを振りかけました。
「舐めてみ」
笑いもせずに、私の顔をじっと見つめました。仕方がないので、言われたようにしました。
「どうや、ぴりっとするやろ?」
私のほうに顔を寄せてきて、当たり前のことを真顔で訴えました。
「姉ちゃんはな、ぴりっとしてるんや。よう覚えとき」
どうやら私の質問に対して、知恵はまともに答える気はなさそうでした。
知恵はあのとき、私に何かを伝えようとしていたのかもしれません。でも当時の私は気づいてやることができませんでした。
「それからな、社長の娘とはいつデートするん?」
今度は体を少し後ろに引き、軽い調子で知恵が尋ねました。得意先の社長のお嬢さんには障害があって、そのお嬢さんのお守りを頼まれていることを、前に知恵に相談したことがあったのです。
どうやら都合が悪くなったので、話を逸らしたのだと、私は感じました。
「お前には、関係のない話やろ」
「社長の娘はいったいどんな味がするんやろ。シュガーちゃんみたいやったら、ええのにな」
それからすぐに知恵はカウンターを出て、奥のボックス席へ向かいました。
知恵が言った社長の娘というのが、私にとって、非常に思い出深い存在となります。実際に会ったのは一度だけですが、記憶の中で、他を圧するほどのインパクトで今も残り続けています。
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