第16話 嵐はまさに、ファンタジーの入り口だったのです。

 大変なことになりました。小春がなんと行方不明です。天王公園の中を慌てて探しましたが、見つかりませんでした。途方に暮れてばかりもいられず、今はただ小春を無事、見つけるために精一杯やるだけです。

 私が美術館の前で階下を眺めてぼーっとしている隙に、退屈した小春がふらふらと、茶臼山のほうにでも歩きだしたとしたら、どうでしょうか。私はまったく逆の方向を探していたことになります。体の向きを変えて、今やって来た道を大急ぎで戻りました。今度は坂を上る必要があったので、とたんに息が切れました。美術館の前に戻って、近くに小春の姿がないかどうかを確認します。残念ながら、結果は同じでした。あとは茶臼山のほうを探してみるしかありませんでしたが、天王寺公園は人を探すには広すぎました。

 息を整えながら、気持ちを静める努力をします。ひどい強迫観念に襲われています。それでも元気を奮い起こして、すぐに駆け出す準備をしました。そのとき背後から、私を呼ぶ声が聞こえてきました。

「おい、ここや、ここや」

 振り向いて後ろを確認しましたが、見知らぬ人がいるだけで、私を呼ぶような者は見あたりませんでした。首を回して、きょろきょろと辺りに視線を投げつけます。

「あほっ、何ぃしてるんや。こっちや、こっち」

 もう一度、私に向かって怒鳴る声が聞こえてきました。声がしたのは、美術館の裏手へ回る道、恵沢園の入口がある方向からです。慌ててそちらへ駆け寄ろうとしましたが、見覚えのある顔を見つけて、思わず足を止めました。美術館の脇には樹木が植えてあります。植え込みの横にはなんと、西上社長が立っていました。

「どうせ、こんなことやろうと思うたわい」

 グレーのスーツをびしっと決め、足もとからは黒い輝きを放つ革靴が覗いています。ここがもし、公園などでなかったら、最高にお洒落なおじいさんと言われても、おかしくない格好でした。ところが左手をくの字に曲げて、コンビニでよく売っている使い捨ての傘を腕にぶら下げています。なんだかそれが、妙に残念な気がしてなりませんでした。

「ど、どうしたんすか?」

「何がどうしたや。あれを見てみぃ」

 社長が指さした方向には、壁に体を押しつけて蹲る小春の姿がありました。ひどく怯えている様子でした。

「まさか、誘拐ですか?」

「あほかお前は、何を言うとるんや。違うわい。小春はな、高いところが怖いんや。よう覚えときさらせ」

 社長の腕が伸びて、さっき小春と二人で上ってきた階段を指さしました。

「けど、俺たちはあの階段を上ってきたばかりですよ」

 ソフトクリームを食べながら、小春は機嫌良く階段を上っていました。高いところが怖かったなんて、素振りも見せなかったはずです。私が納得できないままでいると、そのうち社長の大きな溜息が、聞こえてきます。

「例えばや、自動車事故に遭うたもんは、車がすごいスピードで近づけば、当然、怖がるわな?」

「そりゃあ、そうでしょうね」

「ところがや、車がすごいスピードで近づくと怖がる人は、運転でけへんかと言えば、そうでもない。それと一緒や」

 今の話からすれば、小春は階段を上ることはできるが、階段の上まで行って下を覗くと怖がる、ということになるのだろうか。理屈はよく飲み込めませんでしたが、相手が社長では無理にでも納得する以外に仕方がありませんでした。

「しばらく社長の姿が見えなかったんで、はぐれたかと思って、心配してたんですよ」

「あほか、はぐれるわけがないやろうが。かわいい娘を、お前のような頼りないヤツに任せられるかい。一部始終、全部、見とったわい」

 なぜか妙に、一部始終と言ったところに力がこもっていました。私は理由もなく、挙動不審に陥ります。それにしてもなぜ、私なんかに小春の付き添いを依頼したのでしょうか。小春を連れ歩いて楽しませるだけのことなら、私でなくても構わないし、社長が自分でやれば十分なはずです。なぜ二百万も払って、私に小春の相手をさせるのか、疑問が大きく膨らみました。首を反らして思案を巡らせます。するといきなり、雨粒が頬に当たって目を閉じました。

「うわっ、降ってきよったぞ。やっぱり最近の天気予報は、よう当たりよるのぅ」

 社長は小春に近づいて、使い捨ての傘を開こうとしました。

「よう聞ぃとけよ」

 小春のそばに立ち、眉をつり上げながら、私の顔を睨んでいます。

「デートをするときはな、天気予報くらいは見てから来るもんじゃい。わしはちゃんとさっき、コンビニで使い捨ての傘を仕入れてきた。それが男のエチケットというもんや。お前のオヤジが生きとったら、泣いて怒りよるぞ」

 反論することもできずに、黙って俯きました。とたんに空が光ります。頭上で稲妻が走っていました。

「こら、あかんわ。早よ行こ」

 小春に向かって立ち上がるようにと、社長がしきりに声を掛けています。

「や、や、や」

 こうなってしまうと、小春は本当に厄介です。駐車場で車から降りるのを嫌がった小春の態度を思い出し、私は心底げんなりしました。

 一瞬で空が暗くなります。周囲には鼠色のベールが掛かりました。次の瞬間には古いテレビの雑音のような音が、鼓膜を激しく揺らし始めています。まるで美術館が真上からシャワーを浴びたような騒ぎです。雨に気を取られていると稲妻が、とてつもない轟音で私たちを脅かそうと企んでいました。

「えらい雨やなあ」

 社長が自慢した傘は残念ながらシャワー用ではなかったため、何の役にも立ちませんでした。

「何とかせい」

 無理を言われても、どうしようもありません。悲鳴をあげながら、前の道を駆け抜けていく人たちがいます。私にしたって同様だったし、社長は予測をしていたにもかかわらず、この始末です。美術館を取り囲む樹木が激しく揺れ、ざわざわと騒ぐ様子は、まるで大男が、邪魔な小人を脅かそうとしているかのように感じました。騒ぎの中心に位置する美術館は相変わらずしんとして、大人しく雨に体を洗われています。

 私と社長は為す術もなく、自然の力に翻弄されていました。そんな中でただ一人、小春だけが私たちとは違う反応を見せました。辺りの変化に対して、嬉々とした表情を覗かせたのです。さっきまで顔を上げるのも嫌がっていたくせに、雨が落ちてくる在処を確かめるように、白い顔を空に向け、弾むような調子で立ち上がりました。迫りくる嵐は、神様のほんの気まぐれでしかなかったはずです。だけど私たちにはまるで、夢の時間が訪れる前触れのように感じたのです。

 嵐はまさに、ファンタジーの入り口だったのです。

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