第3話 愛情表現はどこまでいっても猟奇的。
なんだかとてもむかむかした。
気持ちがどうにもおさまらないもんだから、地下鉄の改札を出て向かいの階段を一気にかけあがる。
私を出迎えてくれたのは片側四車線もある大阪御堂筋と、そこらじゅうを走り回る四本足のでかい昆虫だけ。鉄のよろいをかぶってゴムの長靴をはいたそいつらは、器用にもお尻から銀色のパイプを突き出しながら、油くさい口臭をあたりいっぱいにまき散らしていた。
通りの両側にはイチョウの木が植えられてある。その横を歩く人たちは大にぎわいで、数えるのも面倒だから、あの人たちのことはその他大勢といった感じでくくるしかなかった。
人込みをぬうようにして早足で歩く。行き交う人と肩がぶつかり合うたびに、相手は怖い顔をしながら私のことを威嚇した。私だって悪魔みたいな顔でにらみ返してやったんだけど、よくよく考えてみれば、あんまり時間もなかったのでそのまま先を急ぐことにした。
だけど正直なことをいえば、知らない人に当たり散らすのはよくないことだから、心の中で「ごめんなさい」を何度かつぶやきながら、目を伏せた。
とにかくきょうの私はそれくらいご機嫌斜めなわけで、少しくらい頭を冷やしたくらいではとてもおさまりがつかない感じ。
目的地は通りに面した高級レストランだ。玄関にある赤いテントはどこかフランス風で、そこには白抜きの文字でアルケストラートと記してある。前にここであの人と何度か食事をしたことがあるんだけど、フォアグラを食べたのはそのときが初めてで、まさかそれがガチョウの肝臓だなんて思わなかったもんだから、おいしいおいしいを連発したのは今や悪夢としか言いようのない出来事だった。あのときの彼の説明を思い出すたびに、どうしようもなく胸がむかむかする。
『フォアグラというのはね、ガチョウの腹を割いて、まだ生温かい肝臓をころりと出したときが一番新鮮な香りがするんだ。日がたつにつれて生臭くなって、味にしても新鮮なときにはあっさりとして軽いのに、次第に重く油っぽくなってしまうんだよ』
腹を割く?
会ったことも見たこともないガチョウがあんまりかわいそうになったから、その晩は夢の中で何度も埋葬してあげた。
そんなことを思い出しながら、ドアを乱暴に開けて店内に足を踏み入れる。
そのとたん、いらっしゃいませのかわりに、天井からぶら下がるシャンデリアが私のことをにらみつけた。それがなんとなく気に障ったもんだから、そこらにある棚をけ飛ばしながら奥に向かって足を進めた。近くにいる店員が鬼みたいな顔をしながらこちらを見てたんだけど、私はそれにもかまわず、フロアへ続く階段をさっさとおりようとした。そのとき黒いスーツを着た中年の男性が、私に向かって声をかけた。しかも前に立ちふさがって、ゆく手を阻もうとした。頭にきたけどほんの少し気になることがあったから、私は立ち止まって彼の顔をしげしげと観察した。
鼻の下には大層りっぱなひげがたくわえられてある。
それは似合ってると思うし別に問題はないんだけど、どう考えてもバランスに多少の不手際があり、遠近法もあやふやな感じがして、それを解消するためには、寂しげな額にでもそのひげが移動すれば誰もが幸せを感じるに違いない、そんなことを考えながら、なんだか残念な気持ちでいっぱいになった。
「お食事でしょうか」
人を小バカにしたような目つきが気に入らない。斜に構えて眼球に力を込めた。
「お連れのかたはどうなさいました」
「連れなんていないけど」
「そうですか――」
そんな応対の最中も、頭のてっぺんからつま先まで、今度は向こうがじっくりと私のことを値踏みした。
「セクハラする気?」
デニムは腰にぴったりで、タンクトップの脇からピンクの下着がひらひらしてる。
「いえ、別にそういうわけではございませんが」
前に来たときにはあの人が買ってくれた洋服を身に着けていたから、誰もこんな目で私を見ることなんてなかった。それに比べたら今の私の格好はまるでノラネコで、こんな場所に似合わないことくらい自分でもよく知ってるし、第一、ここは私なんかが来るような場所ではなかった、そんなことは前々から承知してました。だけど彼のお気に入りの店だったからしかたなく、いやでも連れて来られてこぢんまりとした型にはめられていた。
それを今さら後悔したって遅いけど、こうなったら絶対に引き下がれない、そんな気持ちでいっぱいになった。ところがいつまでたっても状況は上向かず、私の思いとは裏腹に、目の前の男はつれない態度を貫いた。上品なしぐさとていねいなことば遣いでこの場をうまく乗り切るつもり。そのくせ目つきだけはやけに鋭くて、人を見下すおごりが色濃く出てる。私は男のこんな視線には耐えられない。向こうずねでもけ飛ばしてやろうかと思って身構えた。だけどここで追い払われたんでは都合が悪かったから、おとなしく温厚に考えをめぐらせて、ほんの少しアプローチのしかたを変えようと思い直した。
まつげを微妙に振るわせる。声にも多少のしおらしさを混ぜてみた。
「あのお、おトイレを貸してください。もう我慢ができないんです」
態度も声も急に変わったもんだから、相手の表情だって普通じゃなくなった。向こうが困惑したすきに大声を出す。
「お願いします。トイレを貸して」
お店の中で食事をしているやつらが、優雅な視線をこちらに向けた。ひそひそやる者も中にはいたんだけど、この程度ならさすがは高級レストランだといえるかも。
「漏れそう」
そういったあと、前の男を振り切って奥へ向かった。
「あのー、君」
背後からそんな声も聞こえてはきたんだけど、こういう場合、私は当然、華麗にスルー。
フロアの中は結構広かった。この調子だとそのうち迷子になってしまうかも、なんていうのはちょっとオーバーな話で、とにもかくにも、丸いテーブルが行儀よく配置されている店内の様子からは、どこかオーナーのきちょうめんな性格がうかがえて、このあたりだけは好感が持てそうな気がしてる。とにかく、トイレなんて今のところ用がなかったから、テーブルをぬうようにしてフロアの奧へどんどん進んだ。周りの視線が気になりだすと、にっこりほほ笑みながらせっせと愛きょうを振りまいた。
壁には説明がないと理解に苦しむような絵が飾ってある。色はきれいなんだけどいったいなにが描いてあるのか、そのあたりが微妙な感じがして頭痛が出そう。どこからか流れてくる音楽にしたって、肌を刺激するほどのものではなかったし、間延びした音のすき間に切ない気持ちでも詰まっていれば、私だって少しは気持ちがおさまったはず、なのにゆるんだメロディーだけが延々と繰り返される。こんな状況ではどう考えても歯止めが利くはずもなく、行き着くところまで行くしかないというのが正直な感想だった。
そのうち私はようやくたどり着く。奧から二番目のテーブルの横に立ち、頭をぐるりと回しながら、そこに座っている二人の顔をにらみつけた。
「こんなところまで追いかけてきて、あんたもいっしょに食事でもする気なの」
目の前の女が私に向かってそういった。彼女はおそらく彼の奥さんだと思う。きょうが初対面だったから、そのあたりのことについてはすごく微妙なんだけど、彼女の前に座っているのが彼だったから、きっとこの予想が外れていることはないはずだった。
「追い詰められたら、やっぱりかみつくのね。育ちが知れるわ」
そんなことばも聞こえてはきたが、私は奥さんを無視して彼のほうに視線を向けた。
「会いたかったよ」
自分でもびっくりするくらい、おへそのあたりからいちずな声が出た。
「どういう神経をしてるの」
真っ赤なドレスを着た奥さんは、どうやら私のことが嫌いみたい。そりゃそうだよね。とりあえず私は奥さんに対して謝った。ずっと前から申し訳ないと思っていたし、奥さんが興信所を使って私のことを調べようとしたときでも、私は私なりに、調査の人には協力を惜しまなかったつもり。
「A子はやっぱりここには似合わないな」
ようやく彼が口を開いたと思ったら、そんなことばを私に向かって吐き捨てた。それを聞いたとたん、頭の中でぷつんなんていう音が、うそみたいなんだけどほんとにした。
「よくいうよ。自分で私のことを呼んだくせに」
「僕が招いたわけじゃない。来たのは全部、君の意志だ」
我慢ができなくなった。
「私はどうせこんな場所には似合わないけど、青白い肩をむき出しにした、奥さんの洋服だってひどいもんだと思うよ」
こんないやみなんてほとんど相手には届かない。それもわかってはいるんだけど、それでも黙っていられない自分自身に対してどうしようもなく愛想を尽かしてやる。そんなやり取りの最中も、後ろでお店の人が、お客さま、なんて感じで私に首輪をかけようとしている。だから私は一歩前に進み出て、二人のテーブルに近づいた。このままだとすぐにでも追い払われる危険があったから、私にしたってやっぱり急ぐ必要があった。
テーブルに視線を落としてしばらく間を置いた。深呼吸をしながらテーブルクロスの模様を眺めている。真っ白な布地にはどこか異国の風景の刺しゅうがしてあった。しかもその上には銀色の皿に盛られた、かわいそうなガチョウの肝臓も並んでいる。
私は金属の皿に手を伸ばし、心のうちでアーメンを唱えながら、ガチョウの肝臓をあたりに投げ捨てた。そのあと目の前の女に向かって、空になった銀の食器を振り上げる。とたんに周囲の空気が変わった。
ぎゃあなんていう下品な声をあげながら、奥さんが必死に逃げようともがいていた。だけどここまで来て逃げられたんでは私にしたって都合が悪かったから、近づいて足を引っかけてやると、うまい具合に彼女は床に突っ伏した。私はすぐに奥さんの体の上に乗る。ここで少し迷ったが、結局、お皿のフチの硬い部分を使い、奥さんの額をひたすら殴打した。何度か異様な音が鳴り、やがて白い肌から赤いものがにじみ出た。それを見ているとなんだかきれい、なんて思ってしまう自分にはほとほとあきれてしまう。
凶暴でなければ他人から傷つけられる。ずっとそう思ってきたし、きょうのことだって奥さんが興信所を雇って私のことを調べ上げ、やれ職場にたれ込むだの、実家へ文句をいうだのと脅すもんだから、いつまでも猫をかぶってばかりはいられなかったというわけだ。
ここで食事をすることだって彼が携帯で私に知らせてくれたんだから、用意された舞台の上で、私は自分自身の役を演ずる以外に道はなかった。
そのうち見知らぬ男が私を羽交い締めにし、感情の置き場でさえも奪ってしまう。そのときどさくさに紛れて私をひどく殴ったやつもいたんだけど、目の前にある血みどろの奥さんの顔に私は見とれていて、誰にやられたかもわからないままに、ほお骨がきしむのを自覚した。痛みに気づいたとたん、あんまり腹が立ったので誰彼かまわずけ飛ばしてやろうとしたが、そのほとんどが空振りだったのは私の気持ちとまったく同じで涙が出る。
とにかくきゃあだの、わあだの、フロアの中はいつの間にか騒然となり、悲鳴があちこちから聞こえてくる。そのとき私はもう引っ張り起こされて、出口のほうまで引きずられていたが、不自由な体をものともせず、首を回してあたりを探っていた。なのにやっぱり彼の姿はどこにもなくて、なんて冷たいやつなんだろうと心の中で恨んでやった。
「はなせよ、変なとこ触ったら訴えてやるから」
精いっぱいに強がりながら暴れてはみたけれど、この状況だとどう考えてみても、私のほうが分が悪い。それを考えるとひどく憂うつになった。しかもいきなり、後頭部に痛みを覚えて気が遠くなった。
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