第4話 魔女が唱える、男にならないための呪文。
警察沙汰は初めてじゃなかった。
それなりの罰も覚悟したが、奥さんは血みどろだった割に、軽傷だったという話である。しかもどうやら、彼が口をきいてくれたみたいで、事を穏便に済ませる気であるらしかった。どうせ世間体やら、その他諸々の見栄や外聞が絡んでいるに違いなかったが、とにかくそのお陰で、私はめでたく釈放となった。
ありがたい話である。
だからというわけではなかったが、それほど落ち込んでいるわけもなく、反省や後悔も希薄で、どうせ不倫だったと自分を納得させる道具にも困らなかったので、至極あっさりとあきらめがついた。こんなときには誰か友達にでも会って、泣いてわめいて、それから悪魔みたいに他人を謗ればいい。やるだけやったら、私の機嫌はすぐにでも直るはずだった。私はそういう単純な生き物である。
私には同じ名前の友達がいる。A子という名は私の名前であり、彼女の名前でもあった。同じパン屋でアルバイトしているときに、私とA子は名前が同じであったために妙に気が合った。サンドイッチの作るスピードがA子のほうが少し速くて、不器用でがさつな私が仕方なく、B子と呼ばれるようになったというわけである。
二人のときはA子B子などと、お互いを呼び合っている。だから私たちの名前なんてまるで、記号のようだと錯覚するときがあった。名前に関しては、ただそれだけの違いしかなかったが、A子は私に比べたらかなり繊細である。似非潔癖症と言い換えてもかまわない。
飲み水の成分を気にしたり、玄米を食べたり、念力やテレパシーなんかにも興味があるというんだから、はっきりいって病的すぎるし、しかもなんと、彼氏のことが何よりも大切で、その彼氏との破局が原因で、人類滅亡とかを毎晩考えながら、ドアに向かって念力を送ったりするというんだから、私のようなB型のB子には驚きの性格だった。
とにかく、明るい子は根っこが暗い。きれいな花はすぐに枯れるし、桜だってあっという間に散ってしまうものだ。だからというわけでもなかったが、落ち込んでるときの私は、妙にA子のことが気になった。私がこれくらい落ち込んでいるんだから、彼女はもっと悲しんでいる。そんな気がして仕方なかったのだ。だから警察から解放された私は、すぐにA子の携帯へ電話をして、様子をうかがった。
ところが通じない。電源が入っていないか、電波の届かない地域にいる、電話局の予想はそんなところだったんだけど、私にはA子が知人からの電話を全部、拒否しているとしか思えなかった。
いわゆる行方不明である。
A子には行方不明の前科が何度かあった。だから心配が一気に膨らんで、A子のアパートがある梅田を目指して、地下鉄に飛び乗った。
A子のアパートは地下鉄の駅からかなり遠い。だから相当、歩く必要があった。昨日の台風のせいで、樹木が倒れていたり、ゴミのたぐいがあちこちに散乱している。だけど大阪はもともと、雑然とした町である。今更、荒れているとかすさんでいるとかいっても、新鮮みには欠けるというのが、正直なところだった。
私の実家は大国町にあったが、ここらに比べたら、もっとえげつない感じのする地域である。私はそんな町で育ったから、いろんなことに免疫がある。慣れているから、とてつもなく刺激や痛みに鈍かった。
実家の近くには繁華街のミナミがあった。靴のトミヤマがなくなったのは衝撃だったけど、大国町というくらいだから、大黒さんもいて、恵比寿さんもいて、神様なんかがたくさんいそうな町なのに、育った私の印象はそれほど神々しいものではないという、不思議な雰囲気の町だった。私は私自身のことをあれこれ考えながら、A子のアパートに向かって急いでいる。
どうでもいいことではあったんだけど、私は多少、色が黒い。髪はベリーショートで、耳たぶの下には、分銅のようなピアスが二個ぶら下がっている。Tシャツの胸には外国人の顔がプリントしてあり、なぜか彼は、分厚そうな歯茎を惜しげもなく晒しながら、陽気な笑みを浮かべていた。
そのうち商店街にさしかかった。アーケードの下は薄暗くて何となく、気味悪げな感じがする。しかも私はそこで、いきなり声をあげた。「あいた」お尻に衝撃が加わって、反射的に身を翻した。「あほー」向こうで小汚いガキが三人ほど、私の顔を見て笑っている。どうやらあのガキどもに、お尻を触られたらしい。不快な気持ちになって、思わず目もとに力を込める。
それにしても、男は生まれたときからやっぱり男でしかなくて、女の尻に興味を持つ下品な性癖を所持している、そう思うと半ば呆れ果て、憤りの籠もった声で応じてやることにした。
「お前ら、しまいに殺すぞ」
とは言っても、現状はA子への心配がどんどん容積を増し、おっとりしている暇なんてないことは明らかだった。ここはなんとしても、先を急ぐ必要があった。女の尻に興味を持つ、下品極まりない子供連中に一瞥をくれ、体の向きを元に戻して、今度は小走りに商店街を進んだ。
実を言えば、A子だけでなく、私だって私の両親からすれば、行方不明と言えなくもないような状態である。ただし私は近いうちに、もうすぐ女でなくなる可能性があることを、母に告げに行く必要があった。お医者さんから先日、乳ガンだと診断されたからだ。一週間で病院のベッドが開くそうで、入院したらできるだけ早く、手術を受けなければならないらしい。癌であることを突然、医者から宣告され、告知された私が、A子の心配をしたり、近いうちに母に止めを刺す役目に回るというんだから、人生というのはつくづく皮肉なものだ。
両親には内緒で手術を受けるという選択肢もあったが、入院すればやはり一人では心細いし、他に頼る人もいなかったので、実家の母を当てにするしか方法はなかった。私に比べると、A子はもっと悲惨である。
A子は独りぽっちだ。彼氏と別れたらしいので、そのことについて異論を差し挟む余地はまったくない。だから心置きなく、手術を控えた私の心の支えになってもらえる――そんな自分勝手な要求を、独自の判断で決定できるのがB型のB子、言わずと知れた私の特性である。極端な話、私は自分のためなら、他人の不幸も容認できる、そんな悪魔な部分を心のどこかに所持しているようだった。考えれば考えるほど、どうにも自己嫌悪で、歩きながら知らず知らずのうちに自然とうつむいた。
ただしどちらにしても、母とA子は今の私にとって、必要不可欠な存在である。だとしたら、A子はまだいい。A子を必要としている私がどんなに卑怯で姑息だとしても、A子にとってもやはり、私の存在はなくてはならないものなのだ。
お互い様だと自分自身に言い訳をした。そうなると、母だけが問題である。私の場合、実家が何よりも苦手だ。家を出てからこの二年間、一度として実家に顔を出していないのには、歴然とした理由がある。他人が聞けば「わがままだ」とか「思い過ごしだろう」とか、そんな簡潔な言葉で片づけられるのは間違いなかった。けれども私にとっては至極、潔い決断だったと言えるし、今さらその考えを改められるほど、柔軟な性格でもなかったので、食わず嫌いが直らない大人のように、自分自身を否定しながらも、やっぱり自分でいるしか仕方がなかった。
人間にはたいてい苦手なものがある。苦手なものが爬虫類だったり危ない人だったり、近くのコンビニの店員だったりしても、打ち明けられた人は都合よく、それなりの理由を探し当てて納得するものだ。「私もヘビは嫌いよ」とか、「さっきも、電車の中でひどい目に遭った」とか、「昨日も後ろに立って、店員から万引を注意された」とか、共感できる理由は何かしら引っ張り出してくることが可能なわけだ。ところが実家だけはそれほど簡単にはいかないらしく、「私の苦手は実家です」と言い張っても、実家に帰れば「和んだ」「癒やされた」「わがままが言えて気楽だ」そんな意見を、他人から無理強いされる。
とにかくどこにでも、派閥は存在する。社会にも学校にも家庭内にもだ。至るところで見かけるし、決してバルサンだけでは退治できない、害虫のようなものだと断言できる。そこで私にとって取り分け不幸だったのは、私に男の兄弟がいなかったことだ。と言うよりも私は一人っ子だったのだから、正確に言えば姉妹すらもいなかった。男の兄弟がいなかったことは、どう考えても私にとって致命的な歴史である。両親は私が女であることを、生まれたその日、その時間から嘆き悲しんだ。私は私で自分自身の境遇に対して、常に悲壮感に満ちあふれた決意で望んできたと断言できる。
ところが家庭内では明らかに両親の派閥のほうが強力で、一人っ子が一人で作った派閥など、何の効力も発揮できずに、ただ親に従うだけしか方法はない。まるで正義感に燃える政治家のように、私は追い詰められて、やがて身の置き場さえもなくしてしまったというのが、簡単かつ正確な事の顛末である。
私の実家は鉄工所だった。両親は家の仕事を手伝える子どもを欲していた。だけど女の私には荷が重かった。能力の問題ではなくて、筋力と体の作りが障害だったのである。
実家の工場では、配電盤のケースなどを制作している。社員が三人ほどの零細企業でしかなかったが、父に言わせれば、「社長は社長に変わりがない」と主張するし、母は母で、「うちは社長夫人や」と、平気な顔で口にするような図太さを持ち合わせていた。「私も社長令嬢だ」と、開き直れば良かったんだけど、とてもそれほどの決断力には恵まれておらず、鉄工所の娘として、学校では「鉄臭い女」と言われ続けて暗い学生生活を過ごすに至った。
はっきり言うが、十代の女子に向かって「臭い」は、禁句である。「汗臭い」も「ウンコ臭い」も「鉄臭い」も、ほとんど変わらない響きを持って、鼓膜の内側に進入した。ただし「臭い」と言われるだけならば、きっと私は堪え忍んだに違いない。私がどうしても我慢できなかったのは、足の親指の爪がぺろりと剥がれたことだ。
私は中学生のころから、家業を手伝わされていた。ひょっとすると、肉体労働をさせれば、ある日突然、私の体が男になると両親は考えたのかもしれない。ところが家業を手伝わされたお陰で、男になるどころか、鉄板を足の上に落として、親指の爪が見事に剥がれてしまうという悪夢を味わった。しかも足の爪まで剥がれたくせに、私は結局のところ男の子にはなりきれず、やっぱりずっと女子のままだったというんだから、哀れとしか言いようのない過去である。
なのにそんな私に乳房を失う将来が待っていようとは、余りにも皮肉な運命だったし、果たして乳房をなくした私は、今度こそ本当の男になってしまうのか、それともやっぱり女のままでいるのか、どこまでいっても予測不能である。疑問だけが頭の中をやたらと駆け巡って目の前がかすんでしまい、危うくA子のアパートを通り過ぎそうになって、慌てて引き返す羽目に陥った。
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