第5話 優しさに報酬はない。
何度目かの呪文を唱えた後に、ようやくA子のアパートの前に立った。
それにしても、悲惨だ。
この建物のことである。A子はこの建物を常々マンションだと言い張ったが、私からいわせればここは、間違いなく文化住宅である。マンションと文化住宅の差は、私たちのような階層の人間には重大な問題を含んでいると言い切ってもかまわない。しかしあえて何度もいうが、ここは明らかに文化住宅である。歴然とした理由も列挙できる。一階にも二階にも部屋があり、一階と二階の部屋を行き来するためには、建物の外側に張り付いた階段を利用する必要があった。しかも一階と二階の玄関についている表札は、まったく別の名前である。こうなったら、動かぬ証拠といってよかった。
A子の給料からすれば、身分相応な住まいだといってしまえばそれだけのことでしかなかったが、果たして給料がその人間の価値に相当するのかどうか、そんなことを考え出すと私はすごく憂鬱になる。民主主義なんて所詮は優劣をつけるためだけの口実でしかなくて、複雑なルール上に成り立つ弱肉強食な社会である。
どうせこの国では「優しさ」には報酬はない。
報酬を受け取る行為は多分に他人を蹴落とす必要があると考えたりするのは、底辺で暮らす私のような者のひがみかもしれないと反省しながら、外階段を上っておもむろに二階の通路に出た。
うり二つの扉が四つ並んでいる。A子の部屋は一番奥だった。扉の左右には窓があり、手前の窓の向こう側は炊事場で、もう一方はトイレとバスルームである。この部屋に何度もお邪魔したことのある私は、部屋の様子をよく知っていた。
一歩前に進み出て、いつものようにノックした。ノックのコンコンが独特である。しかも私には守秘義務がある。私が私である合図を送ったのだ。A子は時折、他人と会うのを拒否する節が見えた。拒否するくせに、会ってしまうと妙に愛想よく振る舞って、まるで待ってましたみたいなオーラを出しながら、相手の機嫌をやたらと取る。やがて相手が去ってしまうと携帯の電源を切り、玄関のドアに鍵をかけ、決して誰にも合わずに数日過ごしているようだった。無理した精神は平静を取り戻すのに、多少の時間がかかるようである。だから私はA子のドアをノックするときには、私が誰であるのか、できるだけ事前に知らせるようにしている。
ただし私であることがたとえ分かったとしても、A子は拒否するときはそうするし、多少の余裕があれば、何度目かのノックでドアを開けてくれることもあったのだから、恐れ入る。だからといって、A子は気難しいというわけではない。自分以外の人間にいやな思いをさせるわけではなかったし、むしろ自分だけがいやな思いを被って、それをまったく誰にも知らせずに隠蔽できる。
たいていの人間は自分を基準にして、物事を見る。だから私は誰と接しても、深く考え込むようなことはなかったが、A子は大変である。人間というものは、どこまでも自分の窓からしか物事を見ない。だから見えない部分がたくさんあって、ただでさえ見落としやすい出来事を、目をこらして見ようともせずに、日々安穏と見送ってしまうのが、人生というやつである。私はつくづく、そんなことを思いながら不倫から失恋を経て、最近の退屈な日々を過ごしている。
いろんなことを考えながら、私は視線をドアノブに落とした。何度も合図を送ってみたが、どうやら応答はないようである。A子は本当に部屋にいないのか、それとも私のノックを無視して布団でもかぶって震えているか、どちらとも判断はつかなかったが、私はA子の考えを常々、尊重したいと思っている。だから今日は帰ろうと決心した。
「また来るわ」
誰にともなくそう告げて、歩きかけた。でも何となく気になって立ち止まった。振り返ってA子の部屋を見つめながら、しばらく待った。けれどもやはり、出てくる気配はなかった。ため息をついてから、階段のほうへ体を向けて、それからまた歩き出した。
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