第6話 愛想の良い駅長さん。
B子はきっと怒っているに違いなかった。
首を反らしながら、空に向かって語りかけた。携帯の電源も夕べから切ったままだったし、連絡も取れなかったから心配して、また私の部屋を訪ねてくれたかもしれないと思う。でも今しばらくは、誰とも会いたくなかった。無理に笑いたくも話したくもなかったから、部屋を出て電車に飛び乗って故郷を目指すことにした。
それにしてもやっぱり、田舎の電車はお尻に負担がかかる。しかも隣の人がおかしな顔をしながら、私のほうをのぞき込んだりするもんだから、気分がひどく悪かった。けれどもようやく、そんな時間からも解放された。
「やっと故郷の駅に到着したのだー」
思わず声が出た。
「ふふふ」
笑いも出た。胸を揺らせて大きく息を吸い込んでみる。残念ながら空気がおいしいなんて思えそうにはなかったが、ここにいるだけで今は十分に満足できた。しかも改札へ進むと今度は大発見がある――ここは私にとって、まさしく思い出の宝庫と言える場所だった。
駅員は老夫婦で見知った顔である。昔から知ってるんだけど、駅長がどちらなのか私にはついぞわからなかった。予想をしてみるに、威張っているところからして、どうやら老紳士のほうが駅長らしい。彼らの会釈はスイカを割ったような笑顔である。おそらく私の顔なんか覚えていないはずなのに、こちらを見てしきりに笑ってくれる。それがなんだかとてもうれしくて、ついつい改札口を通るとき、駅長さんに向かって頭を下げてあいさつをした。
「こんにちは、お久しぶりです」
「おやおや、ほんとに久しいですね」
駅長さんは妙に愛想がいい。
「私のことを、覚えていてくれたんですか」
「もちろんもちろん、忘れるなんてなかろうに」
ほんとに覚えているのかどうか怪しいもんだったが、もしもそうなら私にしたって悪い気はしなかった。
「お元気そうでなによりです」
「あんたもええ娘さんになったのぅ」
「ありがとうございます」
そんなことを話しているうちに、切符売り場にいる奥さんに向かって駅長さんが大声を出した。
「母さんや、小百合さんが帰ってきたぞい。はようこっちへ来んかいな」
どうやらほかの誰かと間違えているらしい。
すぐに奥さんがこちらへ近づいてきて、駅長さんの隣で顔をしかめてたしなめた。
「なにをいうとるんじゃ、もうろくしてしもて。よう見いや。その人は小百合さんじゃのぅて、美智子さんじゃろうが」
別に名前は問題ではないような気もするし、あまり深く考えないことにした。
「お二人ともお体に気をつけて、これからも長生きしてくださいね」
「おう、あんたも長生きせぇよ」
先へ進む私に向かって、二人は並んで手を振ってくれた。
駅を出ると右手に小さな雑貨屋があった。軒先に並んでいる物には相当、埃がかぶっている。だけど幼いころに買った宝石のようなあめ玉のおかげで、この店はいつまでたっても私のあこがれである。お相撲さんのような体をしたおばさんは、今でも元気にしているのだろうか。ふくよかな頬と人のよさそうなえくぼが、記憶の中ではいまだに鮮明な色を失っていない。
お店の前で中をのぞいてみる。しばらくそうしていたが、結局、おばさんの姿を見ることはできず、残念無念でその場を離れることにした。
実家のある場所は、この駅から歩いて二時間ほどかかる辺鄙な地域である。朝夕にバスはあったが、おそらく今の時間帯であれば、かなり待たされる。仕方なくベンチに腰かけて、気分を落ち着かせながら時間の経過を待った。
そのときふと、気づいたことがある。どうやら電車に荷物を置き忘れてきたみたいだ。今ごろ気づいたって遅いんだけど、ひょっとすると誰かが届けてくれるかもしれないと、私にしては珍しくポジティブな思考を額の内側に展開しつつ、唇を尖らせながら前髪に向かって息を吐く。
貴重品は肩からさげたバッグの中に入っているし、荷物が見つからなくても別段、困ることはなかったが、それよりも何よりも退屈だけはどうしようもなくて、ベンチからはみ出す足で地面の土に落書きをした。だけど余計なことを書いてしまい、私はあわててそれをかき消した。
それにしても、いくらなんでも暑すぎる。まるでフライパンの上にでも、座っているような錯覚がある。オーバーといえば大げさすぎるような言いようには違いないが、どうにも我慢ができなくなって、仕方なく立ち上がった。精いっぱいの伸びをしながら、実家のある方向をにらみつつ、それでも足りず、額に片手を当ててもっと遠くまで視線を伸ばす。そうしたら、ずっと向こうに懐かしのわが家が見えた、というのはうそで――退屈しのぎに、ぶらぶら歩いてみようかという気持ちになった。ただし私は歩くのが極端にのろいから、きっと二時間ではすまなくなって、三時間近くかかるだろうと予想できる。だけどそれくらいなら徒歩というのも悪くはなかったし、美容のためにも最適だと自分自身を納得させる。まさかクマやオオカミが出るわけでもなかとうに、たかが山道を恐れることはない。
おもむろに決意して、歩きだすことにした。砂ぼこりのひどい道路は茶色の革ジャンの上に、ミルクをこぼしたような色をしている。砂利が多くないのはすごくありがたくて、足の裏が焦げそうなのをさっ引けば、なんとか我慢して家までたどり着けるだろうと予想した。もしもだめならバスが通りがかるはずだし、それに乗っけてもらえばよい。とにかくじっとしているのはいやだったし、少しでも自分の足で前へ進みたいと考えた。
左側は山すそで、山肌には鉄の網が張られてある。網のすき間から突き出している小枝がまるで、あいつのすね毛みたいに見えておかしかった。右下には小川が流れている。そこからかすかに、涼を運ぶ風が流れてくる。私は道にできたワダチをなぞるようにしながら、歩いている。時折ふざけた気持ちを声に出し、それだけではどうにも足りずに、片足だけで飛び跳ねた。少しずつ故郷へ向かっているんだと実感できて、なんだかとても幸せな気分になった。私はこの二年間、ほとんど故郷の土を踏んだことがない。それを思うとやるせなくて、めいっぱいの力を込めて舌を出し、自分自身に対して胸のうちで悪態をついた。
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