第7話 金魚鉢の中のピラニア。
しばし足を止めて、高ぶった気持ちを静めようとした。水の流れる音に耳を傾ける。こういう場所に立ち、余分な思考を頭から追い出しながらあたりを見渡すと、不意に蘇ってくる記憶があり、ときに驚かされる。
幼いころは河原でよく、遊んだ覚えがあった。
急に思い立って、そばの草むらをかき分けた。河原へ下りる方法はないものかと、探してみた。うまい具合に岩場にかけられた木の梯子があった。私はサンダルを脱いで、河原へ下りてみようと決心したのだった。少し怖かったけれど、足もとに気をつけながら下へと向かう。何とか河原まで行き着いて、その場に立ってあたりに注目した。水気を含んだ涼しい風が、私の体を柔らかく取り囲んでいる。ほんの一瞬、弛緩して、油断した隙間を縫うようにしながら突然、現れたのは、小川で泳いだ子供の頃の思い出である。
すると次の瞬間には、まるで映画でも見るかのように私の意識を過去へと誘った。
たったそれだけのことで、気温が五度は下がったような気分になり、なんだかすごく得したような気持ちになった。周囲は樹木の壁だ。地面のありかを緑色の生命が隠している。手前を流れる水の色は、白を混ぜた薄い青である。デニムのすそをまくり上げて、水の中に足を入れた。そのあとまぶたを閉じて意識を丁寧に沈めてから、もう一度、私は注意をあちこちに解き放った。こういう場所に立つとどことなく、人間以外の呼吸を感じることができるものだ。それは誰がなんと言おうと、確かにあった。たとえば霊魂の世界が存在するかしないか、超自然的な力があるかないか、そういうまやかしめいた質問とは、異質な問いかけであると私は思っている。
植物は絶えず、何かを語りかけてくるものだ。そこらの景色に向かって意味もなく、頭を下げた。それからやっと水の外に足を出す。もう少しこの場にいたいと願う気持ちは、衝動のようなものである。立ち去るのがもったいなくて尻込みしたが、帰り道で暗くなったらやっぱり怖いので、そろそろ先へ向かうべきだと考えた。高ぶった気持ちを落ち着かせてから、河原に上がってサンダルに足を通そうとした。
とろこがそのとたん、勢いよく記憶の中から飛び出してきた、たくさんのイメージがあった。私はそれらを見つめながらくすりと笑い、めいっぱいの背伸びをして、あたりの様子を注意深くうかがった。
懐かしい思い出を、懸命に探してみようと試みたのである。
「そんなに都合よくはいかないか」
独り言は周囲の木々が飲み込んだ。
私が探していたものは、小川の向こうとこちらを結ぶ小さな橋である。定かではなかったが、おそらくあの橋は木でできていたのではないかと思う。あちこちにたまった土と、どこからか根づいた草に覆われて、幼かった私にはまるで、枯れた樹木がそこに横たわっているかのように見えていた。手すりらしきものもあるにはあったが、あの頃の私にとって、その下をかいくぐり、小川に飛び込むことなど、至極、簡単なことであったと記憶している。もっと先だったのかもしれないと思い、かかとを上げて右手を額にかざし、ずっと遠くに視線を投げる。目的のものは残念ながら見つからなかったが、このまま河原づたいに歩いてみようかという気持ちになった。あの橋にさえ行き着けば確か、近くには石でできた小さな階段があったように思う。そこから上の道へのぼれたはずである。サンダルを片手にぶら下げて、デニムのすそをまくったままで、足もとに気をつけながら、私はゆっくりと上流へ向かった。
しばらく歩くと、そこら中に散乱しているゴミを発見した。当然のことながら、私はいやな気分になった。足下に転がったゴミがまるで生き物のように姿を変え、体の内側を残らず汚してしまうような錯覚に、しばし駆られる。それでも私は先へ進むことを、決してやめようとはしなかった。半ば意地のようになっている自分がおかしくて、しかもなおさら滑稽でもあったが、それこそが私であると、妙に開き直ったような気分になり、しっかりと地面を踏みしめて歩いている。ところが困ったことに、やがて河原は狭くなり、私の行く手を視界もろとも塞いでしまう。あたりをどう探ってみても、土手へ上がれそうな場所はどこにも見あたらなかった。背後をにらみ、どうしたものかとしばしの間、思案した。しかし結局、来た道を戻るしか方法はなさそうだった。仕方なく戻るために歩きだすと、私の意識も同様に、過去へ向かって遡っていくような錯覚があった。
なぜ小さくて古ぼけた橋なんかにこだわったのかというと、幼いころの思い出を懐かしく感じたからである。橋の上に腰かけて、小川で泳ぐ三人の少年たちに会いたいと願ったのだ。私の生まれた地域は、百世帯くらいの家族が生活するだけの小さな村だった。もちろん現在の状況がどうなっているのかはよくは知らない。だけど私が幼いころ、うちの村には同世代の子どもは私を含めて、四人しかいなかったのである。その上、女子は私だけで、あとの三人はすべて男子だった。彼らの顔を思い出したとたん、こらえきれずに下品な笑いをついつい、こぼしてしまう。
あのころ少年たちは毎朝、私の家の玄関に立ち、はにかんだ笑顔で遊びに誘ってくれた。今もし、あんなあどけない仕草を見せられたら、私はきっとどこへでもついて行くに違いない。
あぶないあぶない。
一番、体の大きなやつが健次である。あいつは時々、私に意地悪をした。お店ごっこがいっとき、私たちの間で流行ったことがあり、健次の指名でいつも、私が店員の役目を負わされた。河原の隅でお店を開き、大小の石ころを並べて、そこで少年たちが訪れるのを待つ。いらっしゃいませなんて言葉で、彼らを迎えるように命令されたのである。
おかしかったのは、少年たちがなけなしのお小遣いを用意してきて、私が勧めるいびつな石ころを買うことだった。遊びが終わり、そのお金は私のものになるのかと思っていたら、健次のやつが突然やって来て、袋に入れた小銭を全部、かすめ取った。そのあと幾ばくかの報酬だけは給料だといって渡してくれたんだけど、まるで私のことを従業員みたいにこき使ったんだから、今から考えても腹が立つ。
そのうち健次は自分のことを、みんなから社長と呼ばせて悦に入った。そればかりか商品が石ころだけでは将来が不安になると、訳の分からないことを言い出して、まるで中小企業の親方みたいな愚痴をこぼしだしたんだから、まさしく茶番である。
『新商品を早く開発しないと、おれたちの店には客なんて、まったく来なくなるぞ』
健次が険しい顔をしながら、演説した。
『お客さんなんて、最初から私たち四人しかいないじゃないの』
すぐさま幼い私が反論した。
『そういう問題やない』
ではいったいどんな問題だ。
だけど健次のことばに他の二人――辰男と淳平もうなずいたんだから、私一人では反対のしようもなかった。
『それじゃあ、いったい何を売るっていうのよ』
ただの石ころを売るだけの遊びなのに、それに呼び名をつけたところで、いったいどんな新商品が生まれるというのか。
『ずっと考えてたんやけどな――』
健次は急に口ごもり、言いにくそうにうつむいた。
『なんなのよ。早く言いなさいよ』
私にきつく催促されて、ようやく本題に入る。
『お前よ、キッスって知ってるか』
『そんなことくらい知ってるわよ。それがいったいどうしたっていうのよ』
『それを、十円で売ってみたらどうかな』
今ならまちがいなく、セクハラで訴えてやる。だけどあのころの私にはそこまでの知恵も行動力もなかったし、健次の言葉の意味でさえも、よくはわかっていなかったのだ。
『誰と誰がキスをして、誰が誰にお金を払うのよ』
私の剣幕はすさまじかった。なぜだかは知らないが、少年たちから自分だけが差別されている――そのことについては、ずっと前から気づいていた。だけどそれは今から考えれば差別ではなくて、彼らなりの区別だったのかもしれないと思う。
とにかく、たじろいだ健次はそのうち理由もなく怒りだした。
『だから、女は扱いに困るんや。本当にやりにくいわ』
どうやらそれが男たちにとって、もっとも都合のよい逃げ文句であったらしい。幼い彼らでさえも、大人がよく口にするのと同じ言葉で私を責めた。健次は肩を怒らせながら、大仰な態度で背中を向ける。結局、そのときには残念ながら、わが村唯一の風俗店は誕生しなかった。けれど何度も同じ議題が少年たちの間では起こり、そのうち彼らの言わんとすることを私も理解するようになった。
『いやよ、そんなの絶対にいや』
十円で唇を売れという少年たちも無体ではあったが、私の切り返しも尋常とはいえなかった。
『そんなことをいったって、この村には他に売るもんなんてなんにもないぞ』
その程度のいいわけでは当然、私は納得しない。
『最低一つは売るもんをみんなが持ち寄ること、でないと承知できないもん』
今度の遊びでは女の子である自分だけが損をする、私はそのことに気づいていたし、本能的に身を守ろうと必死になった。みんながなにかしら大事なものを持ち寄って売る、そうでなければ絶対に従わないし、石ころとキスを同列に並べて売ろうとする、少年たちに対して激しい不信感がわき、鬼のような顔でののしってやった。
『むちゃなことをいうな。売るもんはな、女しか持ってないんや。うちのとうちゃんがそういうてたわ』
健次のことばには、唖然とした。
どちらにしても、それからもたびたび少年たちは私を説得しようと試みたが、私は頑として首を縦に振らなかった。そのうち彼らは顔を寄せ合い、三人そろってなにやら相談をし始めた。
『こうなったらギブ・アンド・テークや。なんでもA子の好きなもんをいえ。おれたちはそれを持ち寄ることにした。それでええやろ』
状況は明らかに一対三で、私にとっては圧倒的に不利である。しかも男というものは、この手のことには相当、知恵が回るらしく、小さな頭からひねり出すことばには、今の私でさえも感心させられるものがずいぶんあった。
『じゃあ、みんなはパンツを持ってきてよ』
なぜあんなことを言いだしたのか、私自身、今でもよくわからないが、おそらく少年たちを困らせたい一心だったに違いない。あのころの私にとって、下着を他の者に触られることは、おそらくもっとも恥ずかしく、決して妥協できない行為の一つであった。
だから彼らも、いやがるとだろうと思ったのだ。
『パンツか――』
少年たちはしばらく沈黙したが、第一声はやはり健次だった。あとの二人は私のほうに視線を向けるのみである。
『よし、それじゃあこうしよう』
このあと健次は驚くべき提案をした。
『はいているものを、その場で脱いでA子に渡すんや』
あわてて反論したけど遅かった。恐れ入ったことに、あとの二人もそれに同意したんだから、民主主義の世の中では多数決にはとてもじゃないけど逆らえない。
『私は絶対にいや。汚れたパンツなんかいらないもん』
粘ってはみたけれど、健次はにやりと笑って私にとどめを刺した。
『わかってる。A子にはそんなことはさせへん。そのかわり、お前はキッスを売れ』
彼らはやっぱり、私のことだけは区別していたらしい。
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