第2話 私は切符を一気に飲み込んだ。

 前から来る自動車のヘッドライトが眩しくて、思わず目を細めたら「おっとっとっ」みないな感じで、私は頼りなく蹌踉めいた。

 昨日の暴風雨のせいで、空気に混じった異物が一切、流れ落ちたような感じがする。不思議なんだけど何だかすっきり、すがすがしい気分に浸っていた。だから余計に眩しくて、足もとがひどく頼りなかったのだと、自分自身に向かって意味のない呪文を繰り返している。

「しっかりせぇよ」

 背後であいつの声がした。

「真っ暗だから、しょうがないやん」

 口をむぅとしながら、不平を言った。だけどやつはどこまでもいっても、何をしても知らんぷり。

 大阪市北区梅田の周辺というのは、ここいらでは一番賑やかな場所ではあったんだけど、私が借りているワンルームマンションは残念ながら、駅から歩いて三十分ほど東へ入ったところにある。そこらまで行くと街灯もなくて、濁った臭気だけが充満した場所へと変貌する。なのに車の往来だけは激しくて、吐き出されたガスが煤のようになって、辺り一面を汚していた。

 それでもどこか、大阪の夜には艶がある。

 背後には阪神高速の高架が見えた。大きな荷物を抱えながら、歩道の端を歩く私の後ろにはやつがいて、すぐ横を何台もの車が、ものすごいスピードで走り抜けて行った。

 私とやつは梅田の駅を目指して歩いている。

 やつが突然、東京へ行くと言いだしたもんだから仕方なく、最後の夜を一緒に過ごし、見送るために駅への道筋を急いでいた。

 とは言っても急いでいるのはやつだけで、私は別段どうでも良かったし、時間の制約なんて感じてはいなかった。ところがやつは違っている。午後十時十分、新大阪発、東京行きの新幹線に乗るらしい。

 時刻は夜だ。ネオンがあっても、真っ暗な夜だ。部屋を出る前に見た、壁の時計は八時半を少し回ったくらい。だからまだ、新幹線の発車の時刻には余裕で間に合うし、慌てるほどのこともなかったのに、マンションを出てから、やつは腕時計を五回も確認した。ひょっとしたらもっと多かったのかも分からないんだけど、常時後ろを見て数えていたわけじゃなかったから、実際の回数は本当のところ、正確とは言いがたい。

 やつが急ぐ理由を不審に思い、そのせいでへそを曲げて、拗ねた態度で、五分ほど前から私は潔く、無視を決め込んでいる。何を言ってきても、返事さえもしてやらなかった。いくら私の足がのろいといっても、この調子だと九時半までには電車に乗れる。だからそんなに急いで歩く必要なんて、どこにもない。

「どうしても行くん?」

 もうそろそろ明るい場所に出てしまう。仕方なく私は声をあげ、こうなったらありきたりな質問を、浴びせてやるしかないと決心した。

「ああ」

 せっかくだったのに、そんな返事しか返ってこない。私は何度も振り返りながら、目を凝らしてやつの顔色を窺っている。

「別に今からやめると言いだしても、男のくせにもうやめるのかよ、なんて思ったりせえへんよ。寛大な気持ちで許してやるよ」

「もうアパートを引き払ったあとやしな」

 やつは私の視線を外して、足元を見つめながら歩いている。近くにある信号が黄色に変わって、やつの白いTシャツが見たこともない色に変わっていた。

「あっ、そうや。ええこと考えた。うちのマンションに泊めたるわ。ゴミの日にさえ働いてくれたら、宿泊料は無料でもかめへんし。公園の前まで、ゴミ袋を運ばんといかん事情があるわけやから、男子がいるとほんとに助かるし、あんたやったら持ってこいの仕事やと思うんや。うちの部屋でしばらく暮らしてから、先のことをゆっくりと考えたらええんとちゃう?」

 背後に体を向けて、唾を飛ばして喋っている。前を見ることをすっかり忘れてしまい、さっきからずっと、私は器用にも後ろ向きに歩行していた。そのせいで何度か躓いて、そのたびにやつの顔を、下から見上げて念入りに観察しながら、ひたすら返事を待ち続けているという具合だった。

 ところが予想とは大違い、いくら待ってもやつからの返事はなくて、黙ったままでただもっさりと、私の後をついてくる。肩を怒らせて歩くのはいつものことで、別に不機嫌だからというわけではない。ほんの少し気になったのは額の辺り、あんなに力んだ顔を続けていたら、そのうち鼻血でも出すんじゃないかと心配した。

 やつは私の前で、何度も鼻から出血をしたことがある。ただし体調とは一切、関係なくて、諍いが起こると私のパンチはたいてい、鼻骨の辺りに激突した。そのときのことを思い出しては生々しく、私も同じように眉を寄せながらやつの顔を眺めていた。

 それにしても、不思議だ。

 やつに都合の良い、私の提案をあっさりと無視しているのが、どうしても解せなかった。やつは姑息で自分勝手でその上、ケチだ。部屋代をゴミ出しでチャラにしてやると、破格の条件を提示したにもかかわらず、かなりの学習を繰り返したらしく、どうやら迂闊に乗ってくる気配は見えなかった。

 こうなったらもう少し補足して、分かりやすく噛み砕いて説明してやるしかない。やつはバカだから、普通に話しただけでは理解できない可能性があった。分かっていないくせに知ってる顔で偉そうにしているのも、いつものことだった。自分に有利な条件なのに私に騙される、ハメられるに違いないと頭から決め込んで、他人ひとの親切を身勝手にも信じようとしない。あまりの頑なさに呆れ果て、ほんの少し歩調を緩めてから口を半開きにし、つぶやくような調子で諭してみた。

「もちろん誰でも部屋に泊めるっていうわけじゃないんだよ。でもまあ、あんたの場合、面接その他は免除してあげるわ。な、条件は良好やろ?」

 ところがいくら説明しても、事態は好転しなかった。焦れた私は首を反らして天を仰いで、溜息を一つ。曇った空に星はなく、雲の向こうに浮かんだ赤い月だけが、半端な顔を晒しながらこちらを覗いている。そこでとうとう私は、言葉に詰まって弱音を吐いた。

「この荷物、ほんまに重たいわ」

 私が抱えているのは、やつのボストンバッグだった。大した物が入っているわけでもなかろうに、やけに重くて肩の辺りに負担が掛かる。

「じゃあ、貸せや。俺のバッグやねんから、自分で持つわ」

 ようやく口を開いたやつはけんか腰、すごい剣幕で近づいてくる。私は慌てて体の向きを変え、やつの正面にお尻を向けた。

「嘘や嘘や。ちっとも重うない。冗談に決まってるやろ」

 私の声は震えていた。荷物を持つ腕だって同じである。

「あんたのバッグはひょっとして、うちの体重よりも重いかも」

 首だけを回し、後ろを覗いて様子を窺っている。

「見栄を張るな」

 確かにオーバーかもしれないけど、とにかく重くて重くて、しまいには肩が抜けるんじゃないかと心配した。それでも両腕に力を込めて、懸命にやつからバッグを遠ざける。

「お前なあ」

 何と言われても素知らぬ顔だ。やつには背中を向けて、荷物を引き摺りながらも、腰を振り振り歩いてやった。

 もうすぐ梅田の駅が見えてくる。

 左に建つビルは大阪駅前第三ビルで、手前に位置しているのは駅前第四ビルだ。このまま真っ直ぐ進めば、巨大な交差点に突き当たる。交差点には歩道橋が架かっており、国道を挟んで二つの百貨店が向かい合っていた。

 大阪の空には飾りがない。あるはずの星が、どこかに隠れていた。だから灯りを求めて集まる昆虫みたいに、大勢の人たちがネオンのそばに群がっている。

 ネオンの中心にはビルがあった。ビルのそばでたむろする人間の姿を眺めていると、何だか妙に黄昏れる。そのくせ店舗が並んだ通りに出たとたん、建物から漏れる照明に惑わされ、まるでクリスマスの夜みたいに浮かれた気分に様変わり――急に歌いだしたくなってしまうんだから、私って本当に始末が悪い。

「ジングルベール、ジングルベール」

「季節感覚がどう考えても、おかしいやろ。お前は子どもか」

 背後から怒鳴り声が聞こえてくる。そう言えばやつは、やたらと細かいことを気にする性分である。それが急に可笑しくなって眉を寄せ、顔も体も気持ちでさえも力んだままで、懸命に笑いを噛み殺した。

 駅周辺では酔っぱらいの姿を見かけることが多かった。汚れた衣服に身を包み、くすんだ目をしているホームレスも、ビルの影には大勢いる。仕事帰りに何度か酔っぱらいに絡まれたことがあったから、人の多い場所は何よりも苦手だったし、だから私はいつも用心を怠らない。不審な人とは目を合わせないようにと、気遣っていた。だけど今夜はやつがいるから、そんな心配とは無縁である。

 あいつは少林寺拳法の段持ちで、ケンカをしたのが警察にバレるとまずいらしいんけど、怒鳴り合って威嚇することも、卑怯なくらい達者なやつだった。だからやつが凄むと、たいていの者はびびって逃げる。

 そのくせやつは頼りなくて、人見知りではにかみ屋で漢字を知らなくて常識にもあらゆる面で、疎かった。いきなり私に向かって別れを持ち出すような、ずるい一面もきっちり持ち合わせていたんだから、本当に器用なやつだと今さらながらに感心した。

 私とやつが付き合いを始めたころ、些細な原因で大げんかになったことがある。

 しばらく喚き合っても、やつが我を通すもんだから、私は腹を立てたついでに、威嚇のつもりでついつい足を出した。ところが不幸にも、私の蹴り上げた場所は局部であったらしく、やつは情けなくも股間を押さえて、そこらじゅうをぴょんぴょん飛び跳ねた。さすがにあの時だけは焦ってしまい、私にしたって笑いたくもないのにアスファルトの上を転がって、しばらく腹を抱えて悶絶した。

 だけどやっぱりあいつは卑怯なやつで、いきなり後ろから私を抱き締めて好きなだけ唇に吸いついて、ゴリラみたいな力で私の自由を奪ってから、気が済むまでさんざん、やらしいことをした。

 当時の出来事を懐かしみつつも、否定したくて堪らなくなって、しまいにはオーバーな動作で首を振った。私だけではなくて誰にでもきっと、思い出してはいけない場面があるはずだった。なのに女である限り、どこにも逃げ場はなくて、記憶を一から順番になぞって噛み締めて、細部にわたって再現したいと願ってしまう。どう足掻いても被害者意識が頭から消えず、何はなくともヒロイン願望を持ち、どこまで行っても黄昏症候群が付きまとう。病院で診察でも受けようもんなら、もっとたくさんの病名を貰えるのは間違いなかった。

 私はやつと出会ってから今日までのことを、それこそ延々と脳裏に描く。蘇るたびにむやみやたらと打ち消して、そこらじゅうに漂う排気ガスを胸一杯に吸い込んだ。気分を一新してからあくまでも、規則正しい歩調を崩さずに、やつの前を黙々と歩いている。

 昔のことなんか夢みたい。

 絵に描いた餅がせいぜいで、腹が膨れるどころか見ているだけでも生唾が出る。食べたくても食べられない。どんなに会いたくなったとしても、去っていくやつとは今夜限りで縁を切るしかない。だけど悲壮感はどこにもなくて、そのうち便秘も治るかも、そんな言葉を胸のうちで呟いて、私は私自身をいつものように慰めた。

 ようやく地下街へ続く階段が見えてくる。

 梅田の駅へ行くためには、道路を横断する必要があった。向こうに見える歩道橋を上ってもよかったが、それよりも地下を通ったほうが早くて便利だったので、階段の手前で立ち止まった。そこでやつが来るのを大人しく待つ。せめてこうなったら最後の夜くらい、肩を並べて階段を下りてやろうと決心した。

「なんや、なんで待ってるんや」

 やつはいつもと違う行動に対して、ひどく用心するタイプだ。慎重かつ姑息なやつの反応は、いつ見ても面白い。自分を基準にして何でも判断しようとする。だから私が何か悪事を企んでいる、そう疑っているに違いない。

「今夜くらいは並んで歩こうと思ったんよ。な、ええ考えやろ」

 数メートルほど地下に潜ると、不思議なことに地上よりも明るくて、人の数も多くて空気も悪くて劣悪な環境が現れる。そのせいで私はいきなり咳き込んで、やつのそばへ体を寄せた。

「大丈夫か」

 ひょっとするとやつは、私が泣いてるんじゃないか、別れるのをいやがって取り乱すんじゃないかと心配している。いつもなら咳き込んだくらいで、私を気遣ったりはしないはず、それが余計に寂しくて、今さらながらに最後の夜だと思い知った。

「うちのことを心配してるんか。そんな繊細な神経を持ってるとは、夢にも思わんかったわ。成長したな。このまま東京でもがんばりや」

 口を尖らせて憎々しげに、揶揄する言葉を浴びせてやった。なのにやつは半笑いのままで、一々、頷きながら聞いている。

「皮肉とか、からかわれてるとか、少しは脳細胞を働かせて、言葉の裏なんかを感じ取ったり疑ったりせえへんのか」

 さっきのを全部、鵜呑みにするんだから、立派としか言いようがなかった。どこまでも機転の利かない性格に呆れ果て、それでいて心のどこかで、そんなやつを好ましく思っている自分自身に嫌気が差す。抗えない感情が何であるのかが私にも分からず、戸惑うたびにきつく唇に歯を立てた。

 梅田の駅へ到着したのは、午後九時をほんの少し回ったころだった。改札口の隣には券売機が備え付けられてある。そこで私とやつは足を止め、押し黙ったままで路線表を見上げていた。

 いつも不思議に思うことなんだけど、駅周辺には風がある。本当は不思議でも何でもなくて、おそらく空気の流れには、れっきとした理由があるに違いない。なのに私は駅へ来るたびに同じ疑問に苛まれている。

 電車に乗れば時間が短縮できる。ほんの少し先の未来を手っ取り早く、手軽に誰もが手にできる。本当なら行けるはずのない場所に、わずか数時間で到着して、味わえるはずのない人生と出くわすのは、今や予感ではなくて、まさしく現実に違いなかった。だからわくわくして先を急ぐ。そのせいで風が起こっている。けれども見送る者には希望はなくて、体に当たる風の生ぬるさに不快感を覚え、何だか私は息が詰まりそうで、苦しくなった。

 周囲を見渡せば呼吸の速さを感じることができる。誰もが先を急いでいる。建物の内側にこびり付いた、黒ずんだシミを気にすることもなくて、壁の向う側を想像するだけの好奇心にも欠けているのが、たいていの人が持つ性質だった。

 足りないものが多すぎて、ときおり私は鳥肌を立てて身震いした。

 私とやつとの関係にしても、壁のシミと同じような汚れが、こびり付いているように感じたからだ。二年間掛けて、積もり積もった私たちの生活は、今さらどんなに拭おうとしても拭いきれないシミのようになっているはずだ。なのにどこにもあるはずの証拠がなくて、このまま別れてしまえば、私とやつの間に溜まったシミの存在など、誰にも気づかれずに忘れ去られる運命であることは明白だったし、あくまでも美人薄命な私は私自身にかくも同情を禁じ得ない状態を保つほか仕方なかった。

 やつはいまだに私の隣で、路線表を確認している。横顔を眺めていると遣り切れない気持ちになって、胸がEカップくらいに膨らんだ。胸のサイズを露骨に表現したのは、あくまでも比喩だ。冗談に違いなかったが、それをそのままやつに告げるのは、気が引ける。明らかにまずい反応を招くからだ。「胸がEカップくらいに膨らんだ」なんて言い出したらばまた、「見栄を張るな」とすぐに罵声が飛んでくる。そのせいで心の底にある柔らかな部分が全体に広がって、全身がむやみやたらと軋んでしまう。

 だから黙ったままで、言いたいことも言わずにただひたすら我慢を強いられる。ふだんなら、ほんの数日でやつの決心は覆るはずだった。それくらい一貫性のない性格のやつがあれから一週間も、東京へ行くと言い張ったままなのは納得できないし、あれこれと邪推の権化になるしかない。決心の持続力にも感心したが、どうやら今回ばかりは本気のようで、考えを改めるような素振りはどこにも見あたらないというのが、私の結論である。

「いつ帰ってくるの?」

 お決まりの文句を口にして、喉まで出かかった言葉を危うく飲み込んだ。なのにやつは曖昧な言い方で、私の質問をはぐらかす。気まずそうに視線を外して、下を向いたままでやり過ごそうとした。

 どう考えても悪いのはやつのほうだ。だけど正直に言えば、私はずっと前から悟っている。ブッダやキリストみたいにやつのことなら全部、悟りきっている。悟りきってしまっているはずなのに体温が下がるのはおかしくて、皮膚の内側まで震えてしまうのは、あまりにも理不尽な性質じゃないかと、我が身のことまで責め始めていた。

 どこまでいっても私はかわいげのない女でしかなかったが、やつの気持ちだけは否という程、思い知らされた。大阪へ、ではなくて、きっと私の元へは戻ってこない。だめ押しされたもんだから後の言葉が続かなくなって、仕方なくとっておきの秘密を、やつに打ち明ける決心がついた。

「私ね、ほんとはあんた以外の人とも付き合ってるんだよ。だからこのまま置いていかれたら、長いことよう待たんと思うわ」

 ようやく打ち明けたのにやつはただ笑うだけで、まったく取り合おうとはしなかった。しかも驚くような言葉を口にした。

「知ってたよ」

 平気な顔をして他人事のような調子で、あっさりとやつは吐き捨てた。やつの態度にあんまり腹が立ったので、私は気分のままに言い返してやった。

「知ってたんは――知ってたよ」

 私の言葉が終わらぬうちに、やつは券売機の前に立ち、新大阪までの切符を買ってるみたい。私はやることもお願いすることもなかったので、後ろでやつの背中をじっと眺めながら、顔を否という程しかめてやった。

 やがてやつが振り返る。私のほうに近づいてきた。

「俺の荷物を貸せや」

 やつの顔には緩んだ部分がどこにもなくて、それが寂しくて辛くて物足りなくて、なのにそれを見せられている私は意外なほど冷静だった。め切っている。私は私自身にえ切っていた。

「うちの分も買ってくれた?」

 そういうのが精いっぱいで、しかも私は笑っている。

「見送りはここでええわ」

 本当に冷たいやつだ。

「なんでやのん、新大阪の駅までいっしょに行くつもりやったんやけど」

 返事もせずにやつは、私の顔を睨み付けた。その顔があんまり怖かったもんだから、私はどうしようもなくなって、俯いて唇を噛み締めて泣いたふりをしてやった。本当に泣いてやろうかとも思ったんだけど、泣くことを決断するよりも早く、やつは私の手から荷物をたぐり寄せた。

 こうなったら、どうしようもなかった。

「切符を貸してよ。改札機に入れたるわ。それくらいのことは最後の夜やから、させてほしいんやけど」

 戸惑うやつから切符を手に入れる。急いで自動改札機の前までダッシュして、そこで私は企んだ。

 首をぐるりと回して辺りを見渡しながら、たった独りでほくそ笑む。うまい具合に改札機の近くに他人{ひと}の姿は見当たらなかった。隣の改札機にしてもその隣にしても、やっぱり同じである。怖いくらいに準備が整っていた。絶妙のタイミング、奇跡の瞬間と言い換えても差し支えなかった。

 ただしどちらにしても、駅を歩く人たちにとって他人の存在など、どうでも良いに決まっている。それでも私は多少、被害妄想的な性格だったもんから、他人の見る目に対して必要以上に気配りを怠らない。そのくせ誰も見ていない場所に置かれたとたん、自分でも驚くほどに、大胆かつ無謀な行動に打って出る。

 とにかく改めて周囲を確認し、そのあと懸命に笑いをかみ殺した。やつから取り上げた切符を手に取って、自動改札機のそばに近づいた。そのあと私は慎重に滞りなく、右手を伸ばして切符を改札機に通す、フリをした。

 やつは私の背後で、あくまでも暢気に構えている。去ってしまう男のために、改札機に切符を通す哀れな女を、無感動な表情のままで目撃していた。

 まさしく、アホだ。

 私のほうは素知らぬ顔で、改札機の脇に立っている。まだ手の中にある切符をぎゅっと握りしめて、ゆっくりとしかもさりげなく、大きく息を吐き出した。一呼吸置いてから、これでもかっていうくらい、握った拳に力を込める。できうる限り指先を器用に使って、切符が小さくなるようにと丸めてみた。

 やつはまだ、私の企みには気づいていないようである。大人しく改札機に切符を入れたと、思い込んでいる様子だった。ところが残念ながら、人生というものは、とかく予想通りにはいかないものだ。

 私はおもむろに、握った切符を口もとへ持ってくる。感づかれないようにと用心しながら、素早い動作で口の中に切符を押し込んだ。むせるわけでもなく、しばし味わいながら、騙された間抜けな男の顔をしげしげと観賞しつつ、必死な思いで笑いを我慢した。

 自動改札機の前では、やつが首を傾げている。ゲートが開くのを、やつなりに辛抱強く待ってるみたい。

 やつの様子を眺めながら、私はひどく感心した。これだけの忍耐力が備わっていれば、東京へ行こうが大阪にとどまろうが、どっちにしても人生の勝利者になれるはず――私は舌先を微妙に動かして、口の中にある切符を転がすことで、陰ながらやつへの敬意を表した。

 それにしても、本当にこいつは底抜けのアホだ。

 やつの間抜けな姿を見ているのが、私は好き。何よりも好物だったから、このままやつが切符の在処を見つけられなかったとしても、私には何の支障もなかったし、切符がないから東京へ行くのをやめると言い出しても、私には何のわだかまりもなかった。

 いつだって、やつのしたいようにさせてやる覚悟があった。

 私は事の成り行きを見守って、口もとを押さえながら、目の周辺だけで笑ってやった。するとようやく、間抜けなやつが何があったかに察しをつける。私の様子がおかしいことに気づいたようで、そばに近づいてきて大声を出した。

「おい、吐き出せ、A子」

 どうやら切符のことである。

 やつは私の頬を両手で掴んだままで、しきりに怖い顔をしながら凄んでいる。私のほうは、吹き出しそうになるのを必死で堪えながら、口の中にある切符に唾液をまぶし、瞼を固く閉じて、小さく丸めた切符の塊を一気に飲み込んだ。

 味わう余裕はなかったけれど、喉を通る瞬間に多少の痛みがあった。

「ほんまに、お前にはまいるわ」

 間抜けなやつが私に向かって、とうとう呆れている。

「んふふ」

 それでも私の我慢もここまでが限界で、結局、大きな声で笑いだすしかなかった。

「あほか、お前は」

 怒鳴って怒ってるくせに、やつは喉を鳴らして満更でもないような顔をした。引き止める女というものは、たいていかわいく映るもので、それでもまだ電車に乗ろうとする、うぬぼれた男は、どこまで鈍感にできているのか測りようがなかった。

 やつはもう一度、切符を買って、今度こそ改札口を抜ける。ホームに続く階段に向かって歩きだした。振り向きもせず、歩幅もやけに大きく取って、一気に遠ざかっていく。

 やつがいなくなった今となっては、私を取り囲んでいるものは、ホームから押し寄せてくる風だけだ。置き去りにされた私は、ここまできたら改札口のそばに立ったままで、やつの姿が見えなくなるまで見送ってやろうかとも思ったが、あんまり癪だったのであっさりやめて、目線だけを置いたままで背後へ進む。やつの背中が大きなうちに、地上へ続く階段へ向かう、ふりをした。

 途中で足の向きを変えて、券売機が埋め込んである壁に、全身を強く押しつける。そこで身じろぎもせずに、遠ざかるやつの後ろ姿を覗き見た。

 壁に触れる胸の辺りが妙にひんやりとして、心の底まで冷え切って、皮膚の震えが内臓へ伝わったとたん、堰を切るようにしてやつとの思い出が次々と蘇ってきた。未練は誰にでもあって、私だけのものではないが、きっと私の細胞にはそれが数多く含まれている。

 やつ以外に付き合ってる男がいたなんて全部、嘘だ。なのにそれを知ってたなんてほざいたやつには、口をあんぐりさせながらあきれてやるしかない。知ってるはずなんて、なかった。私のことなんて本当は何も知らないくせに、知ってるふりだけで私との関係を早々に終わらせようとした。私の嘘を逆手に取ったままで、やつはさっさと背中を向けた。

 置いてけぼりの私は、どうやらどうしようもなくなって、唇をかんで、途方に暮れて仕方なくあきらめた。彼とのことを、それから私の夢を、果ては人類の未来までもあっさりと見限った。

 通りに出たとたん、酔っぱらいが近づいてきて、やらしい言葉を口にした。私はやつから拳法を習ったこともあったので、足癖は極端に悪い。だけど今夜はやつがいなかったので、やっぱり怖いし足を速めて帰り道を急いだ。

 やがて歩道の脇に倒れている樹木に出くわした。それが気になった私は、足を止めた。何か理由をつけて、道路にへたり込みたい気分だったので、格好の物を見つけて心のどこかで安堵している。さっそく倒れた樹木に近づいて、膝を折ってじっくりと観察した。根もとに裂かれたような傷があった。そのせいで体全体を支えきれなくなった樹木は、アスファルトの上に無惨な姿を晒している。折れた部分以外にはほとんど異常はなくて、葉っぱの色もいまだに失われてはいなかった。夕べの台風の影響かもしれないと、一度は決めつけた。

 けれどもすぐに考えを改める。

 台風の影響で倒れるような樹木なんて、まるで失恋くらいで心が折れる私みたいじゃないか。自然に根付く植物はそれほど弱いはずがなく、もっと悲惨な原因があるに違いないと勘ぐった。

 歩道の隅で車のヘッドライトを全身に浴びながら、私はしばらくの間、飽きもせずにあれこれと予想を巡らせた。

 私の精神や肉体は、おそらく何から何まで人工の産物に違いなく、そのせいで簡単に傷つけられて、すぐに折れて倒れて自暴自棄になる。私の心と比べたら、自然から生み出されて、そこで育った生き物は驚くほど強い。とにかくタフで私の考えなど、大きく上回る生命力を宿しているはずだった。

 なのになぜ、この樹木は倒れているのだろうか。

 疑問を引き摺ったままで、家路についた。マンションに到着してからも、何となく倒れた樹木のことが気になった。

 部屋に戻った私は、早速、入浴の準備に取りかかった。

 ベッドの横には緑色のタンスが置いてある。引き出しを手前に引いて、奥から下着の替えを出そうとした。だけどやっかいなことに、ここでも困った場面に遭遇する。

 どうしても気に入った下着が見つからない。そのうちおかしなことに気づいた私は、たった一人でにやりとする。

 下の引き出しを閉めると不思議なんだけど、上の引き出しがほんの少し手前に飛び出した。そのときプスッ、なんて音がするもんだから、慌てて腰の辺りを押さえながら、真剣な眼差しで自分のお尻に注目した。

 危ない危ない。

「ふふっ」

 独り言で納得したとたん、いきなり気分が和んでしまう。引き出しを押したり引いたりするのが気に入ったので、しばらくそれで遊んでいた。しかも現状にぴったりの呪文まで思いついてしまうんだから、私って本当に我が儘だ。得意げに鼻の頭を反らしながら、喉の奥でごろごろ言った。

「下の引き出しが閉まるとプスッという音がして、今度はもう一つが、いきなり開く」

 呪文と同時に閃いた考えがある。

 樹木が倒れたのはきっと、嵐の夜に車がスリップしたためだ。コントロールを失い歩道に乗り上げた鉄の塊が、あの樹木に激突して悲惨な事態が起こった違いない。そう言えば歩道にはタイヤの跡がこびり付いていた。そんな気がして、私の予想は一気に勢いを増すばかり。

 それと同時に予想は確信へと様変わり。

 追突されたために歩道に立つ樹木が、儚くも生命いのちを閉じる瞬間を、私は私なりにリアルなタッチで脳裏に再現した。ここでも新たな予想が直感を生む。命を閉じたのはひょっとしたら偶然ではなくて、あくまでも必然だったのかもしれない。新しいもう一つがプスッと開くための、必要な出来事だったのかもしれないと考えた。そう解釈すれば救われる。少なくとも私の瞼に焼き付いた無惨な光景だけは、何らかの意味を持つわけだ。

 こじつけであることは間違いなかったし、まさしく手前味噌な考え方ではあったんだけど、被害妄想な私の頭にしては上出来で、何だかすごく気分が晴れて、そのくせおかしなことに、目の前がやたらと曇ってしまう。引き出しに収まった下着の在処でさえも一切、見えなくなった。なのに懲りもせず、滲んだ瞳の奥で私はまた、独り言を呟いている。

「他に男なんか、いるわけないじゃないか。知ってたなんて、あいつって本当に大嘘つきだ」

 それからあとは何を喋っているのか、自分でも分からぬままに、記憶の中にいるあいつを汚い言葉で罵っている。

 一息つくと、なおさら未練がましい感情が湧いてきて、瞳の奥がつーんとして、熱いものが止めどなく湧いてきそうなレベルに達してしまう。さすがにこれはまずいと考え直し、ティッシュを探そうかとも思ったが、無精な私は引き出しの中に手を突っ込んで、そこからピンクのパンツを掴み出した。

 はっきり言って、このパンツは結構気に入っている下着だったんだけど、他のを選んでいるほどの余裕もなかったので、仕方なく崩れ落ちた顔のあちこちを、ピンクのパンツできれいに拭う。目もとだけではなくて、鼻からもしたたるものがあり、それを自分のパンツで拭うのは、ややためらいもあったんだけど、潔く決心をつけてから、丸めたパンツでそこらも拭いた。

 顔をピンクのパンツで覆いながらも、私はどこかしぶとくて、空いているほうの手で、引き出しを一気に閉じた。閉じるたびにプスッという音がして、もう一方の引き出しが勢いよく手前に飛び出した。引き出しの中身をよくよく確かめてから飽きもせず、私はいつまでも怪しげな行為を、決して自分からやめようとはしなかった。

 そう言えばバスタブに、お湯を張っているのをすっかり忘れていた。かなりまずい状態になっているのは明らかで、最後にもう一度だけ、私は潔く後悔の念を味わった。

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