第18話 子どもから回復できない女が一本足打法。

 なんと嵐の中で、私たち三人は野球をやることになりました。もちろん、社長の独断です。私は拒否することができない立場でしたし、小春はあの調子です。社長がやると言えば、なんでもやるしかなかったのです。

 美術館の前で、一方の端に立って反対側を覗きました。十メートルほど向こう側にいる社長は、腰を落として身構えています。左バッターボックスには小春がいました。使い捨ての傘を逆さに持って、私の顔を睨んでいます。

「ちょっと待ってくれ」

 社長は右手を挙げて私を制しました。立ち上がって小春のそばに近寄ります。何をしているのか、私の立ち位置からではよく分かりませんでしたが、どうやら小春に打ち方のコーチをしているみたいです。

 社長が小春から傘を受け取って、手本を見せています。傘の先を握って柄のほうを空に向け、顔の向こう側に使い捨ての傘を垂直に立ててます。構えたあとに右足を大きく上げ、足が着地したとたんに、構えていた傘を力強く振り下ろしました。

 小春は社長のすることをじっと眺めています。社長に何か言われるたびに頷いていました。

「ええぞ、びしっと投げてこい」

 ようやく社長が片手を振って、私に合図をしました。いまだに空からは大粒の雨が落ちてきます。目を開けているのも苦しいような状況で、私たちは馬鹿げた遊びに興じるわけです。

 私は小春の黄色いハイヒールを握っています。ヒールの部分を手の中に入れ、くるっ、くるっと何度か回しました。小春は早くも片足を上げています。すぐによろめいて、後ろへそのまま「おっとっと」背中を丸めてお尻を突き出しながら、ふらつく体を懸命に制止させようと頑張っていました。ところがバランス感覚が皆無のようで、ひとときも同じ場所に立ってはいられません。

 雨の向こう側にいる小春の格好を眺めながら、私は頬を緩めて喉の奥に笑いを込めました。

「早う、投げんかい」

 社長に催促されたので、仕方なく振りかぶります。ハイヒールを持つ手を背後に回し、勢いをつけて前方へ振り切りました。とたんに黄色いハイヒールは、激しく降り注ぐ雨の中を、小春を目指してゆらりと離陸します。ほんの少し上向きに軌道を取り、すぐにゆっくりと下降しました。

 小春が立っている場所から、三メートルほど手前に着地した黄色いハイヒールは、落下したとたんに転がって、懸命に小春のほうへ近づこうとします。そのうち勢いも尽きて、仕舞いには石畳の上でぴたりと動きをやめました。

 残念ながら一本足打法は不発に終わり、黄色いハイヒールが私のほうへ飛んでくることはありませんでしたが、西上社長はまだまだ諦めようとはしませんでした。

「行け、小春」

 社長が叫ぶと同時に、傘を持つ小春が黄色いハイヒールを目指して走ります。ハイヒールが落ちたところまで駆け寄ると、大きく傘を振り上げました。

「えいっ、えいっ、えいっ」

 掛け声も勇ましく、振り上げた傘を足元にあるハイヒールに向かって振り下ろします。地面にめり込むほどの勢いで、殴打されている黄色いハイヒールが、たまらず左右に飛び跳ねました。

 小春はどこまでもハイヒールを追い詰めて、いまだに「えいっ、えいっ、えいっ」と、気合いのこもった声をあげています。あまりの勢いに社長は茫然自失と言ってよく、私は私でもう片方のハイヒールを握りしめながら、小春の姿をじっと見つめていました。

 結局のところ、小春の一本足打法は一度きりの見せ場しかなく、さすがの西上社長にしたって、雨には程なく降参しました。厚い雲に覆われた空に向かってしばらく怒鳴っていましたが、自然の力を跳ね返すほどの神通力は、さすがになさそうでした。

「今日はもうあかんわ。こうなったら、すぐに帰るぞ」

 ようやく社長の許しが出て、私たち三人は駐車場へ向かいました。私は来たときと同じように小春を車に乗せて、芦屋の邸宅まで送ってから、帰路につきました。

 これが子供から回復できない女、小春との思い出のすべてです。毎週、土曜日にと言われていたお出かけの約束も、社長から電話があって、ほどなく全部キャンセルになりました。

 もちろん、たった一日だけ世話をしただけなので、二百万円なんて大金を貰ったりはしていません。でも社長は私のことを、ずっと可愛がってくれました。もちろん、仕事上での話ですが。

 どうやら小春の病状が悪化したために、社長がすべての計画を諦めたというのが、真相のようでした。計画なんていうと人聞きが悪いですが、社長は社長なりに、小春の行く末を心配していました。父親がどれほど身勝手だとしても、それはすべて、娘のために違いありません。

 小春が入院したと社長に聞かされて、一度だけお見舞いに行ったことがありました。病室には案内されず、待合室で社長と話をしただけで帰ったんですが、想像以上に小春の容態が悪いことに気がつきました。言葉ではなくて、社長の憔悴しきった顔色を見ていれば、私のような鈍感な人間にも一目瞭然でした。

 そのときの模様です。

「よう来てくれたな」

 太いだみ声が鼓膜を揺らしています。体を横へ向けると、西上社長の顔がすぐそこにありました。

「まいどです」

 さすがの《まいど》も、この場には似つかわしくないと、声を出してから気がつきました。そんな私の戸惑いなど気にもせず、社長はさっさと歩き出します。ときおり振り返っては、私に向かって話しかけてきました。

「あれを見てみぃ」

 社長が指さした方向には、喫煙室らしき部屋が用意されています。

「あんなところへ閉じこめられてまで、たばこを吸おうとは思わんわ」

 社長の声には妙な張りがあります。それが病院のちょっと陰気な通路には不似合いで、後ろを歩く私までが肩身の狭い思いを強いられていました。

「上へ行くぞ」

 通路の突き当たりには二階へ続く階段があり、階段の両側にはエレベーターが並んでいます。私は言われるままにエレベーターを待ち、ドアが開いたとたんに乗り込みました。

「この病院の院長とは懇意にしてるんや。そやから、わしが死ぬときも、ここで面倒ぉ見てくれと頼んである」

 狭い個室の中で、やけに社長の声が幅を利かせています。

「小春がおるんはな、最上階や。言うとくが、設備はホテル並やぞ」

 九という数字が点灯すると、ドアが開きます。西上社長が先へ進んで、私は社長の背中を見ながら後に続きました。

 病院が陰気な場所だと想像するのは、おそらく健康な者の先入観に違いありません。エレベーターを出たとたん、横にある窓から予期せぬ日差しを貰って、顔をしかめました。エレベーター乗り場から前の廊下に出ると、中央には中庭があります。地面には土の色も見えたし、ガラス越しではあったんですが、植物の緑を間近に眺めることもできました。庭を取り囲むようにして四方に通路が伸び、中庭の天井からは青い空までが覗いています。

 病院とはとても思えないような設備の連続に、私は完全にしてやられていました。

 中庭に面した通路にはところどころ、ドアが設けられてありました。両側の扉を閉め切れば、すぐにでも応接室のような部屋ができあがります。当然のことながら、ソファーも用意されていましたし、テーブルも置かれてありました。壁には絵画まで飾ってあったんだから、ここまでくると私の驚きは頂点にまで達しています。

 途中で目についた絵があったので、足を止めました。その絵にはひどく辛そうな表情(かお)をした中年の女性が描かれています。私はしばらく歩みを止めて、絵画の前から離れることができませんでした。

「どないしたんや。早う来(こ)んかいな」

 向こうから、社長が私を呼んでいます。

 それからしばらくして、西上社長が足を止めたのは病室ではなくて、待合室のような部屋の前でした。それほど広い部屋ではありませんでしたが、片方の壁には大きな窓が設けられてあります。私と社長は窓のそばで、辺りの景色を眺めていました。

 会話はそれほど多くはありません。ですが社長は、落ち着いた声の調子で話しています。むしろ黄昏れているのは、私のほうでした。まるで映画館で目頭を押さえる観衆のように、今の私は社長よりもずっと、深刻な顔をしているに違いないと思いました。

「どうや、仕事のほうは」

 当たり障りのない会話がしばらく続きました。そのうち社長から、予想外の言葉を聞かされます。

「知恵ちゃんがな、お前のことを心配してるんや」

「知恵がどうかしたんですか?」

 私は即座に聞き返しました。

「本当なら、わしはもう、お前を小春に会わす気なんてなかったんや。ところがや、もう一度だけ、お前と小春を会わしてやってくれと、知恵ちゃんがわしに頼みに来た」

 西上社長はずっと、私が小春を見舞うのを拒否していました。それは確かです。知恵にそのことでこぼしたこともありました。ただし知恵は、他人のことに、そこまでお節介を焼くやつじゃありません。ではなぜ、知恵が社長にそんなことを頼んだのか、私の頭は混乱していました。

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