第19話 近鉄百貨店で黄色いハイヒールを買いました。

 その日、天気予報が私の希望と一致したので、知恵を誘うことにしました。私たちは近鉄百貨店へ向かいます。百貨店へ行くと私が宣言したとき、知恵は驚くほど浮かれた顔をしました。

 子どものころの私たちにとって、百貨店は一番身近に感じるおとぎの国でしたから、知恵の気持ちは私にしたって何となく理解できます。当時は百貨店に入っただけで、浮かれていました。高い天井へ続く壁の先は、私にはまるで古い樹木のように見えました。それを目にしながら、豆の木を登るジャックのような気分で、エスカレーターに乗り込んだのを覚えています。

 辺りをうろつく店員さんはまるで、性根の悪い魔女みたい。

 それが今、改めて眺めてみると、メッキの剥がれた電気製品のように、電気の流れは感じるが、見た目からの衝撃は何一つ貰えなくなりました。私の見る目が変わってしまったのは事実ですが、この場所はそれとは真逆で、いまだに同じ場所に留まったままです。

「なんでこんな色の靴を、うちが履く必要があるん?」

 知恵が二階にある婦人靴売場で、私に対して文句を言っています。

「せっかく買(こ)うてくれるんは、嬉しいんやけど、黄色いハイヒールなんて、うちには似合わへんで」

 口を尖らせながら、しきりに知恵が不平不満を並べ立てました。休日ということもあり、店内はかなり混雑しています。店員も先ほど少し顔を覗かせましたが、私たちを置いたままで他の客の相手をし始めていました。

 知恵は横長の椅子に腰を下ろして、前にある黄色いハイヒールをじっと眺めています。周囲には、ショーケースに収められた色とりどりの靴が並んでいました。真ん中で小難しそうな顔をしている知恵は、まるで小人に囲まれた巨人のように見えて可笑しかったです。

「第一な、うちはこんな服を着とるんや。どうせやったら、スニーカーを買(こ)うてくれたほうが、ずっと嬉しいわ」

 知恵は綿のワンピースを着ています。色は白でしたが、もともと薄手の生地は洗い晒しで、かなり白からはかけ離れた色に変色していました。

「俺は白のワンピースを着てこいと言うたんや。お前の感覚のほうがおかしいやろ」

 小学生が着るような服と、まるで変わりがありません。

「それやったら、これで決まりや。中学生のときからこの服は、ずっと白のワンピースやったで」

 知恵は負けず嫌いで、絶対に引き下がろうとはしません。言い合いになったら、私のほうが一歩引く必要がありました。

「もうええわ。とにかくな、黄色いハイヒールを買(こ)うてやるから、その汚いスニーカーを、ゴミ箱にでも捨てて来いや」

 知恵は私から視線を逸らせて、前にあるハイヒールに目をやりました。

「仕方ないから履いてやるけど、その代わりな、うちのスニーカーを紙袋に入れて、あんたが持って歩いてな」

 どうしようもなかったので、手を打ちました。店員さんに声を掛けて、会計を済ませます。それから大きな紙袋を貰い、知恵が履いてきたスニーカーを袋の中に詰め込みました。

「臭いがしそうやな」

 近鉄百貨店を出てから、地下の売店へ寄ります。そこで使い捨ての傘を買いました。

「なんでそんな物(もん)を買う必要があるん?」

「女を連れて歩くときにはな、天気予報くらいは調べてくるもんや。それが男の常識やと、誰かが言うとったわ」

 右手に持つ傘を前後に振って、必要以上に男の立場を強調します。知恵は私の様子を眺めながら、口元を押さえて笑っていました。人の数は多かったのですが、ありがたいことに地下特有の風が吹き、気温よりもずっと涼しいような感じがしました。

 アポロビルの近くで地上へ出て、新今宮の手前まで歩いてから北へ向かいます。

 新世界本通から南陽通へ向かいました。南陽通は通称、ジャンジャン横丁と呼ばれている場所です。お昼も近かったので《八重勝》で串カツを食べることにしました。

「またここで飯を食うんか?」

 水色の暖簾をくぐって、店内に入ります。知恵は不満そうな顔をしましたが、スツールに腰を下ろすと、すぐに機嫌が直りました。カウンターの向うには白い割烹着を着た串カツ屋の兄ちゃんがいます。奥の席では大阪のおっちゃんたちが寄り固まって、昼間から宴会に興じていました。

「兄ちゃん、串カツや」

 すぐにでかいコロモをつけた串カツが運ばれてきます。即座に串を手にとって、コロモをソースの入れ物に浸してから、かぶりつきました。知恵も同じようにしましたが、ここでも知恵の口には毒があります。

「やっぱし、どぶにつけてから食うんやな――」

 前の兄ちゃんが怖い目をしながら、知恵の顔を睨んでいます。

 私の食欲は頗る旺盛で、あっという間に五皿ほど平らげました。ところが知恵のほうは、あまり芳しくありません。バッタみたいにキャベツばかりをかじっていました。

 昼食を終えてから知恵を動物園に誘いましたが、さすがにこれは拒否されて、仕方なく《美術館下ゲート》から天王寺公園に入りました。三角の屋根を被った天王寺美術館を見上げながら、長い階段を二人で上ります。美術館の前に到着すると、首を回して辺りの景色を見渡しました。奥には恵沢園へ続く小道があります。右側の道を歩いていけば《天王寺ゲート》に行き着くし、左手の小道は茶臼山へと続いています。地面は石畳になっています。美術館の大屋根が頭上を覆い、壁の一番上には長方形の小窓がありました。

 振り返って階下を見下ろすと、新世界の町並みが遠くに見えます。目を細めて右手の動物園に注目し、そのあと阪神高速の高架に注目しました。景色に夢中の私とは違い、知恵のやつはどうやら退屈を持てあましている様子でした。顔を隠すこともせずに、大きな口を開けてあくびをします。

「お前な、それでも女か。少しは恥じらいというもんを、感じたらどうやねん」

 いくら私がこぼしても、知恵は全く気にもせず、しまいには階段の一番上にへたり込みました。膝を大きく揺らしながら、私の顔を見つめています。

「あほ、そんなところへ座ったら、下からパンツが丸見えになるやろうが」

 慌てて知恵の前に移動して、腰を下ろします。

「あんたはうちのパンツを、他人に見られるのが嫌なんか」

 知恵が勝手なことをほざいています。腹に据えかねた私は返事もせずに、首を反らして知恵の顔を逆さまに覗きました。知恵は目を細めながら、片手で口もとを押さえています。逆さに覗く知恵の顔は、普段よりも多少はかわいいような感じがしました。

「あんたの顔はもともと変やけど、逆さまにして見たら、もっと変な顔やな」

 知恵の笑い声が、頭の後ろから聞こえてきます。声も大きかったが、態度はもっとでかかったです。

「暑いやろうから、扇いだるわな」

 知恵はワンピースの裾を持ち、上下に振って私の背中に風を送ってきます。

「お前は何を考えてるんや。くさい臭いがこっちへ寄ってくるやろ、やめ」

 呆れた私は首を戻して、前を向きました。

「ほんまは、嬉しいくせに」

 知恵は負けず嫌いで、どんな些細なことであっても言い返してきます。そこで私は、何か遣り込める方法はないものかと思案しました。そのとき、おでこの辺りに水滴が落ちてきます。

「ほら来た。やっぱり、最近の天気予報はよう当たるわ」

 勢いをつけて立ち上がりました。

「何が来たん?」

 知恵も腰を上げて、空を見上げています。

「雨か?」

 知恵が尋ねたので、答えてやりました。

「これはな、雨やない。カリフォルニアシャワーっていうんや」

「なんやねん、それは――」

 首を捻る知恵の姿を見ていると、可笑しくなりました。

「日本語に訳すとな、神様の涙っていう意味や」

「ほんまかいな」

 いよいよ舞台の準備が整ったので、本日のメーンを知恵に演じて貰うことにします。

「ほらっ、お前はこれを持て」

 知恵の手に、使い捨ての傘を握らせました。

「おおきに、雨が降ってきたから、傘があってちょうど良かったわ」

 知恵はすぐに傘を開こうとしました。

「違う、違う。そんなことのために、これを用意したんやない」

「傘は雨をよけるための物(もん)やろ。他にどんな使い道があるというんや」

 知恵に近寄って、社長がやったように、一本足打法の手ほどきをします。まずは知恵から傘を取り上げました。

「濡れるやんか」

 文句を軽く聞き流し、傘の先をしっかりと握りなおします。柄のほうを突き上げるようにしながら、顔の向こう側に直立させます。構えたあとは右足を大きく上げて、足が地面に着地したとたん、手の中にある傘を目いっぱいの力で振り下ろしました。

「こんな感じや」

 知恵は私の顔をじっと、眺めています。

「何がしたいのか、さっぱり分からんわ」

 言い終わったあとに、顔をひどくしかめて不満な様子を表しました。

「知恵、ハイヒールを脱げ」

 私が促すと、知恵は背後へ身を引きました。

「いやや、せっかく買(こ)うてもろうたのに、今さら返せやなんて、むごすぎるわ。もうこのハイヒールはうちのもんや」

 買うときにはかなりの文句を言ったくせに、いざ貸してくれと頼んだとたん、知恵は黄色いハイヒールに固執しました。

「すぐに返したるわ。ちょっと遊びに使うだけや」

 膝を曲げて、強引に知恵からハイヒールを奪い取ります。

「足の裏が濡れるやんか」

 知恵はふらつきながらも腰を曲げ、私が持ち歩いていた紙袋を掴み上げようとしました。中には知恵の、草臥れたスニーカーが入っています。

「裸足でええから、向こうの端まで行け」

 知恵の腕を掴んで、石畳の端へ連れて行きました。

「俺が投げたハイヒールを、さっき教えた方法で打ち返せたら、この遊びはお前の勝ちや。もっとええ物(もん)をプレゼントしたる。せやからな、今回だけは俺の言うことを聞いてくれ」

 必死の説得が利いたのか、知恵は指定の場所に立ち、真剣な顔つきで私を見つめています。

 私は一方の端へ急ぎました。振り返って、向こうにいる知恵の姿を視界に入れます。雨はそれほどのこともなかったんですが、私にとっては量よりも質です。空から降ってくるものが必要なんだと、自分自身に言い聞かせました。舞台には演出が必要で、私には私なりの環境と時間がいります。時間はやはり一つではなくて、複数存在しているのだと思わせてくれるだけで十分でした。

 知恵がいる場所とは反対側の端に立ちます。十メートルほど向こうにいる知恵の姿を眺めながら、しばらく時間の経過を楽しみました。片足を上げた知恵は、私が黄色いハイヒールを投げるのを、今や遅しと待ち構えています。雲が日差しを遮る中で、知恵の姿はまるで小春のようでした。

 どうせこの国では優しさに報酬はありません。そんな諦めを、当時の私はいつも感じていました。でも私は今回のことで、やっと気づいたのです。私はいつも《思い出》という、報酬を貰っていたのだと――。《思い出》は一銭にもなりませんが、私にとっては極上の報酬でした。

「早う、投げてや」

 知恵は私に向かって、怒鳴り声をあげています。怒っているくせに、片足で立っていることに耐えきれず、背後に頼りなくよろめきました。私はハイヒールのヒール部分を手の中に入れ、くるっくるっと何度か回します。知恵の姿を横目にしながら、顔を上げて胸を張ります。上体を目いっぱい後ろに反らして、ハイヒールを持つ手を背後へ伸ばしました。大きく振りかぶってから、腰を落として体重を前に移動します。最後に右手を素早く振り切ると、とたんに黄色いハイヒールが知恵に向かって離陸しました。

 これが《思い出》のラストシーンです。私と知恵が会ったのは、この日が最後でした。

 ずっと後になってから聞いた話です。

 知恵は中学のとき、水泳の記録を持っていたというんだから、驚きです。ただし記録と言っても、大阪市で二十何位という、かなり微妙な記録だったそうですが。亡くなる前に、猫を部屋から出したとか、中学の記録の話とか、私は学生のころの友人に聞かされました。なぜお前が、そんなことまで知ってるんだ、と私は言いたかったのですが、声を詰まらせながら語る友人の話を、黙ったままで聞いていました。

 だって私はあれ以来、一度も知恵と会っていなかったんですから、何も言う資格はありません。


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