第9話 村唯一の風俗店が、ついに開店します。

 さあいよいよ決勝戦が始まった。

 健次と淳平は腰を落としてにらみ合う。気合とともにむっつりスケベの淳平が健次の懐へ飛び込んだ。健次は両腕を使えない。胸を反らして踏ん張るような体勢で、迎え撃とうとしている。だが淳平はなかなかの巧者で、相手の足をとって倒そうとした。そうはさせじと健次が淳平の肩を押しのけて、めいっぱいの圧力をかけながら上からつぶそうとする。

 ところがそのとき、健次が予想外の叫び声をあげた。

『痛い痛い痛い』

 それを聞いて、驚いた私と辰男は二人のそばに駆け寄った。

『健ちゃん、いったいどうしたんや』

 辰男が声をかけても、とにかく痛い痛いの連発で、なにがどうなったのか状況がまるでつかめない。健次は尻もちをついていたんだけど、淳平のやつはいまだに彼から離れようとはせず、太もものあたりに顔を埋めたままで、体をぶるぶると震わせていた。しかもよく見ると、むき出しの歯が健次のももに食い込み、淳平の首筋には細い血管が見事に浮き出ていた。

 どうやらかみついているようである。

『淳平、なにぃしてるのよ。もうやめなさい』

 私がそう叫ぶと、ようやく淳平は健次のもとから離れたが、その場に突っ立ったままで、興奮しきったまなこをぎらぎらさせていた。

『反則や、相撲でかみつきなんて、聞いたことがないわ』

 健次は半べそではあったが、しっかり自己主張することを忘れてはいなかった。

『ほんまや、ひきょうやぞ、淳平』

 辰男も健次の味方についた。

『取り直しがいい。でないと淳平も納得できないと思うから』

 結局、私の意見がいれられて、彼らはもう一度、相対することになった。

『今度はかみつくなよ』

 健次が念を押した。淳平は返事もせずに、ものすごい形相で健次の顔をにらんでいる。

 ほんとに危ないやつだ。

 行事の辰男が合図をすると、二人は勢い込んでぶつかり合った。かみつくことを禁じられた淳平は、それでも歯をむきながら健次の足を取ろうとした。

 相当な熱戦だったと記憶している。

 それまで私は相撲なんかに興味はなかったんだけど、このときからテレビ中継を見るようになった。結局、最後には善戦むなしく淳平は倒されて、健次の勝ち誇った笑い声が河原に響いた。淳平はよほど悔しかったらしく、うずくまったままで声を押し殺して泣いていた。

『ようやったな、淳平。お前を二番にしたる。ええな辰男、文句はないやろ』

 この内容からして、当然のことだと思う。

 辰男は多少、不服そうな顔を見せたが、あらためて淳平と相撲をとる気はないらしく、最後には健次の決定に従った。

 さて、いよいよである。彼らが私の前に進み出た。

『キッスをくれ』

 健次はそういってから、右手を私のほうに差し出した。手のひらには鈍く光る十円玉が載っている。私はそれを受け取って、ポケットの奥へしまい込んだ。

『目をつぶってくれないかな。でないと健次の顔が怖い』

 たとえ子供といえど、あの血走ったまなこを間近に見せられたんではたまらない。幼い私にとってはまさしく、ヘビやトカゲのたぐいである。しばらくためらったが、それでも最後には覚悟を決めて、しかたなく健次に近づこうとした。ただしここでも、問題は山積みである。

 健次は唇を突き出して、やけに舌でそれをなめ回している。その様子を眺めていると、雨の日に庭中に張りつくなめくじを思い出し、さすがに気持ちが悪くなっていったん身を引いた。だけど逃げ場はどこにもなかったし、彼ら三人の性根の悪さからいって、私がこの場を放棄すれば、手ひどいしっぺ返しを食らうのは目に見えていた。そうなると黙って従う以外に道はなかったが、私は追い詰められたら、たいてい不自然な行動に出る。

『もう少し、かがんでよ』

 私の要求に対して、健次は目をつぶったままでひざを折った。彼の格好はあまりにも無防備な態勢としか言いようがなく、しかもどこまでもまぬけな顔で、私のキッスを待っている。そんな健次に向かって私はキスではなくて、こん身の力を込めた拳をぶつけてやった。しかも二度までは覚えているが、それから先の記憶はあのときも、大人になった今でも、まったく覚えていない。

『なにをするんや』

 健次もようやく自分が被害者であることを悟ったらしく、私に向かって激しく抗議をし始めた。

『女の子におかしなことをしようするからや。たたりがあるかもしれん。あしたになったら、唇が腫れるわ』

 このたんかは彼らには相当な効き目があった。おびえたような目をぱちくりさせ、三人そろって私の前に整列した。私は辰男と淳平からも十円玉を取りあげて、そこに座れと命令した。そのときの彼らはまるで、上品なシバイヌのようだったと記憶している。

『三人とも目をつぶれ。私がいいというまで動いちゃだめ』

 私はそういったあと、彼らの額に唇をつけた。汗の浮いたおでこは多少の不快感を伴っていたが、なめくじのような唇よりはずいぶんましだと思った。

『もう目を開けてもいいよ』

『なんや、おでこか――』

 健次が不服そうな声を漏らしている。辰男と淳平はただぼう然としていた。

『順番はおれが一番やったやろうな』

 健次はいまだにそんなことにこだわっている。

『みんなが一番だよ』

『そんなはずはない』

 健次はしきりに不平をたれた。だけど実をいうと、迷ったことは事実だが、私は健次の額に一番先に唇をつけた。

『よし、次は交代や』

『なにが交代なのよ』

『店員とお客さんが入れ代わるんや。今度はA子がお客さんになれ』

 どうやら彼らが懲りる様子は、まったくないようである。

『そんなのずるい』

『いったいなにがずるいんや』

『私からまた、お金をまきあげるつもりでしょ』

 唇を売った三十円には結構な執着があった。

『交代せぇへんほうがずるいやろ。いくらお客さんでも、いつまでもお金は続かんもんや』

 健次の理屈には納得する部分もあったんだけど、やっぱり私には割り切れないものが残っていた。

『だって、買う買わないはお客さんの自由なはずだよ。私はみんなのパンツなんていらないもん』

 理屈は通っているはずだった。

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