第2話 フケを大量に集めて飲み込むのだけは、絶対にやめたほうがいい。

 オヤジが亡くなったのは、もう20年ほど前のことになります。

 オヤジは酒飲みで、ギャンブル好きで、かなりの遊び人でしたが、仕事もよく頑張りました。製造業の会社を起こし、家族を養ってきたのですから、今、私がこの歳になると、その一つ一つがどれほど大変なことだったか、よく理解ができます。

 オヤジは戦争へ行きました。海軍の通信兵だったらしいです。心臓が弱かったらしく、検査で撥ねられて潜水艦には乗れず、結果的に命を拾ったというのですから、皮肉な話です。もしも検査に引っかからず、潜水艦に乗っていれば、私が生を受けることもなかったわけです。

 戦争が終わって内地に戻ってきてから、しばらく消防署に勤めていたそうです。でも気ままな人でしたから、サラリーマンは向かず、パン屋に弟子入りして、パン職人を目指します。そのうち家でパンを焼き、家の前で自作のパンを売り出すと、これがかなりの大ヒット、壁紙の裏に売り上げを隠すくらい儲かったというんだから、驚きです。

 オヤジの妹である叔母も手伝ったと話していました。しかし弟が毎晩、壁から売り上げを抜いて、夜の街に繰り出していたせいで、結局は元の木阿弥、くたびれ損のただ働きになってしまったというんだから、もっと笑えます。酔うとその当時の話を、大声で話して笑っていました。

 お酒の量が増えると、戦争中の話もよくしてくれました。どうやらオヤジは、かなりの食わせ者だったらしく、怪しげな話をいっぱいしてくれました。戦友たちとの悪あがきめいた話もありました。

 何やらフケをたくさん集めて、それを一気に飲み込むと、一時的に盲腸のような状態になるらしいです。最前線に行くのを逃れるために、戦友たちといろんな策を講じたと、不埒なことを面白おかしく話していました。実に不真面目で、でも憎めない、不思議な人でした。

 ひょっとすると、潜水艦に乗るのがいやで、検査前に大量のフケを集めて飲み込んでいたのかもしれないと、小さかった私はオヤジの話を聞きながら、想像をたくましくしていました。

 今から思えば、戦死してしまった人たちには、大変、申し訳ない話です。心よりお詫び申し上げます。でもオヤジには悪気はなかったはずで、亡くなった戦友たちのことを話しながら、涙を浮かべていたことも付け加えておきます。

 とにかく、オヤジの若い頃は、世の中が波乱万丈でした。オヤジ自身もそれに振り回されながら、無我夢中で生きていたに違いありません。ずっと忙しく働きづめだったオヤジが、多少なりとも楽ができるようになったのは、65歳を過ぎた頃です。65歳を過ぎて会社を私に譲ると、毎日、孫と遊ぶ、好々爺に姿を変えました。私の長男もかわいい盛りで、孫を抱きながら、満足そうに笑っているオヤジの姿を、今でもはっきりと覚えています。

 とにかくオヤジは孫を溺愛していました。それと同時に、私の顔を見ながら、不思議そうに呟いたのを覚えています。

「お前の小さい頃のことが、悪いけど全然、思い出せんわ」

 生きることで必死だったのだと思います。だからがむしゃらに働いた。しかも若かったから、オヤジはオヤジの人生を楽しむことも忘れていなかった。あの人のことだから、毎日、底抜けになって遊んだに違いありません。

 小さかった息子のことなど、若かったオヤジの眼中にはなかったのでしょう。それも仕方のないことです。

 私は今、この歳になってようやく、オヤジのいろんな気持ちが理解できるようになりました。ところがその頃です。たまたま時間に余裕ができたので、病院で精密検査を受けるとオヤジが言い出したのは――。

 別段、体に不調があったわけではなく、気が向いたから、病院で検査を受けただけです。なのにそれからしばらくして、急速にオヤジの人生は変わってしまいます。

 検査結果は、肝臓ガンでした。

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