第15話 凱旋門みたいなもんやと思うてくれたらええわ。

 私の部屋は二階の隅にあった。八畳ほどの和室である。ところが入り口近くに置いてある勉強机のおかげで、今となってはなんだかひどく狭いように感じてしまう。その横にはファンシーケースが並んでいて、周囲には昔、読んだ雑誌なんかが山のように積んであった。それを交わして布団を敷くと、畳のありかでさえも行方不明になってしまう。

 母がこの部屋をいまだに片づけないのは、きっと私がまた戻ってくると勘違いしているからだ。それも子どものときのような、マンガ大好きの私がだ。

 布団の上にあおむけになって、少し考え事をした。電灯も消してあったので今の私には、ただぼんやりと天井が見えるだけである。

 こうして故郷に帰ってくると、今までは気づきもしなかったことを、いやでも思い知らされているような感じがした。淳平のことだってそうである。やつのことなんて、大阪で生活をしていた私にとっては興味も関心も、思い出すことでさえなかったわけで、その上もっと意表をつかれたのは、私の遠い記憶を淳平が今でも大事に守っていることだった。

 同じころに同じ時間を過ごした者たちが確かにいる。それって通勤電車で毎朝顔を合わせる人たちと、どこか似ている。人生という電車に私と淳平はきっとある時期、いっしょに乗っていたに違いない。その電車には絶えずみんなが乗りおりするわけで、時間が過ぎ去るといつの間にか、知らない人の顔ばかりが周りにある。電車からおりた人とまた会える確率なんて、おそらく宝くじに当たるよりも難しいことで、淳平の場合にしても、たまたま私がやつの電車に乗り込んだから会えただけだ。だけど私はすぐにこの電車をおりるから、そしたらまた、淳平のことなんか思い出さなくなる。

 なんだかむしゃくしゃしたから布団の上で、うつぶせになった。足を突っ張ってお尻を持ち上げる。首の後ろに力を込めて顔を正面に向けた。あとは腰を上下させながら部屋の中をはいずり回る。いもむしみたいにサムウオーク。これをやると気分が落ち着いてくるんだから、私ってやっぱりちょっと変だ。

 夕食が終わったころに約束どおり、淳平が玄関先に現れた。

 やつはなんだか妙に、不機嫌そうな顔をしている――まったく、おかしなやつである。私は言われたように、浴衣に着替えていた。にもかかわらず、なぜか淳平は眉間にしわを寄せていた。

「ちょっとだけ待っててね。すぐに用意するから」

 手提げ袋に必要なものを素早く詰め込んだ。私にしたって、普段とは少し違っている。少年のときのようなハニカミこそなかったものの、淳平の姿は私にとっても十分に新鮮で、今夜はやつの好きなところへ、無条件というもったいをつけて従ってあげてもいいと思った。

 姿見に視線を向けるとなんだか妙に、胸がどきどきした。私の髪型はベリーショートでどこかポップな感じ、B子にいわせると、それじゃあ角刈りの一歩手前じゃないの、なんて酷評されたりするもんだから、浴衣なんて似合わないかもしれないと思っていたが、どうやらそれほど悪くなかったので安心した。

 淳平の前に立って、にっこりと笑う。

「待たせて、ごめんね」

 こういう場合、たいていの男は同じことばを口にするものだ。

「別にええ」

 思った通りだった。ただし横に並んだあとも、淳平はひどく無愛想な顔をしながら、ほとんどこちらに視線を向けようとはしなかった。このあたりはおそらく、テレくさくてとても顔を上げられないに一票、そのくせ背中にある触覚みたいなもんで、私のことをずっと監視しているのは明白だった。

 男という動物には似たり寄ったりの習性がある。だからこういう場合は、見られていることを前提に振る舞うのがよい、確かB子がそんなことを話していたのを覚えている。

 土手沿いの道を二人でいっしょに歩いた。

 こういう田舎道を下駄で歩くのは、不自由なこときわまりない。だけど今の雰囲気だと、助かることも多かったのは事実である。下駄がじょりじょりと愚痴ってくれるおかげで、会話がなくても間の抜けた感じはしなかった。しかしそれよりも何よりも、視線が下を向くのは私にとっては好都合である。

 それにしても、無言競歩などという競技がオリンピックにでも採用されたら、淳平のやつはまちがいなく日本代表に選ばれる。ついて行くだけでも大変な思いをした。

「ちょっと待ってよ」

 たまらず不平を漏らして淳平を呼び止めた。やつは振り返ってこちらに注目をしたんだけど、やっぱり無言のままで視線をそらす。それでも何とかがんばって追いついてはみたものの、そのかいもなく、またもや用意ドンから始まって、淳平のやつは懲りもせずに、無言競歩を始めるつもり。

 五百メートルほどそんなことを続けていると、やっと役場の前に到着した。ところが淳平はそれでも歩くのをやめず、広場を抜けたところでようやく足を止めた。

 そこで今度は私のほうが目を見張る。

「なによ、あれ?」

 目の前にはフジ棚があった。だけどそこには、色つきの豆電球がいくつも載っている。田舎の景色の中では明らかにそこだけが浮いていて、とにかくにぎやかしいこと、この上なかった。まるでその様子は季節外れのクリスマスツリーが、向き合って握手をしているような格好だったし、その下のベンチは両側に寄せられてあり、二人並んで通れるほどの通路が作ってあった。

「歓迎の印や。凱旋門みたいなもんやと思うてくれたらええわ」

 なるほどね――ここを並んで歩けというわけですか。仕方がないので、今夜のところはサービス精神に徹することにした。淳平はいまだに田舎という鉢の中に閉じこめられたピラニアである。そこへ金魚をほうり込んだら、おそらくは私と同じ体験をするだろう。とは言いながらも、たいていの女性はこういう雰囲気には弱かったし、未知の世界に連れて来られたような気分になったのも事実である。

「すごくきれい」

 そんな言葉を何度も発しながら、淳平作の凱旋門に向かって駆け出した。すぐそばまで近づくと、首が痛くなるほど上半身を反らしてみる。空をバックにした電気の星が目前に迫ってきた。これほど近くにある星くずなんて最高だったし、一つくらい指でつまんで体の上に載せてみたい、そんなことを思いながら両腕を伸ばし、近くにある星との距離を測ってみた。だけどどうやら、私の手には届きそうにない。それを確認したあとかわいい声で、淳平に向かって呼びかけた。

「はやくはやく」

 とりあえずはしゃぐことにした。このあたりの呼吸は都会へ出てから覚えたように思う。対する淳平は急ぐわけでもなく、ただもっさりとした様子でやって来る。そこで私はやつのそばに駆け寄って、太い腕にしっかりとしがみつく。二人そろって、光の門をくぐることにした。

「なんや、恥ずかしいやろうが、一人で行けや」

 などといいながら、やつは図々しくも私のほうへ体をぴったりと寄せてくる。

「すてきだね」

 ただし本当のことをいうと、私は相当、無理もしている。精いっぱいの感動はどんなメークよりも女を飾ってくれるもので、それをまとわなければお膳立てをした男のほうが、残念ながら惨めになる。だから今夜の私は自分でもおかしいくらい、かわいい女である。

 暗闇の中で明かりを放つフジ棚は、確かにきれいだとは思うんだけど、都会のネオンとは比べようもなかったし、その上、発電機のようなものがすぐそばに置いてあり、ずんずんごろごろなんていうエンジン音を響かせながら、私たちを常時、監視していたんだからたまったもんじゃなかった。

 こうなると、ムードも何もぶちこわしである。

「ちょっとうるさいよね、あの音――」

「大型の発電機しかなかったからのぅ。ガソリンで動いとるから、においも相当きついやろ」

 そう言えば、あたりは異臭だらけである。だからと言って、ここまでしてもらってうれしくないはずがなかった。鼻をつまんで肩をすぼめ、淳平の顔を見ながらくすりと笑い、そのあといよいよ、やつといっしょに並んで歩く。光の門の中へ歩を進めたのである。

 すると妙なものが現れた。七色のメッキを施された気泡が、浮かんでは消える。私は空いてるほうの手で、懸命にそれをつかもうとした。けれどもそう易々と思ったようにはいかず、私の手を上手にすり抜けて、姿をくらましたかと思えば突然、すぐまたそばに現れた。光の玉は色彩の衣を脱ぎ捨てて、次の色へと見事な変化を繰り返していた。

「おかしな気分だよ。頭が変になりそう」

「ほんまや、幻想的やな」

 ふだんは使っていない感覚が、人間にはひょっとするとあるのかもしれないね、そんな風に思えるほど、私の皮膚は敏感になった。でも私はそのとき、淳平に対しても違和感を感じていた。隣にいるのは私の知っている淳平じゃなかった。この村だって、私の家だって、知っているはずのものが、いつの間にか知らないものと、すり替わっている。

 凍った時間の中で、まるで私だけが置き去りにされている、そんな感覚を味わっていた。

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