第13話 穴の開いていないちくわ。

 空がやや赤らんできたことに気がついて、過去に向かった私の時間はようやく元の鞘に収まった。

 結局私は、後からやって来たバスに乗せてもらうことになる。一番、後ろの座席に腰を下ろして、そこから車内の様子を見渡した。乗客の姿は残念ながらどこにもない。これではまるで、超大型のタクシーもどきと言っても差し支えなかった。営業的にも会社経営が成り立つのだろうかと、余計な心配までしてしまう。それにもまして、お尻の下がなぜかとてもあったかい。これが夏ではなかったら、きっとこの座席には心から感謝したに違いない。だけどこの気温で、この状態を考え合わせれば、恨み言の一つもいいたくなった。

 それからもう一つ、鼻の奥がつぅんとするようなにおいは田舎のバス特有の体臭で、小さなころは乗り物酔いがひどくなりそうでたまらなくいやだった。だけど久しぶりという感覚は特別な思いを呼び込むらしく、どことなく懐かしく思えてしまうんだから、不思議としか言いようがなかった。

 そんなことを考えながら、バスに揺られている。

そろそろ村が見えてくるころではないかと思い、私は窓ガラスに張りついて、見覚えのある目印を懸命に探していた。

 緑に覆われた景色の中では距離感というものがひどくあいまいで、すぐそこに見えるからといって近いとは言い切れず、頼りない確信しかなかったんだけど、熱気の向こうで揺れている白い建物には確かに、見覚えがあった。記憶の中にある村の役場とそっくりで、しかも近づくにつれて、二つのイメージは寸分の狂いもなくぴたりと重なった。

 これでようやく、一息ついた。

 バスをおりたあと、懐かしく感じたもんだから、すぐに家路にはつかず、役場のほうへ足を向けた。

 建物の前には広場がある。広場の隅には大きな樹木が、植えられていた。奥にはフジ棚、ブランコ、滑り台と並んでいる。こうしてみると、何の変哲もない公園のように見えるが、この広場には私にとって特別な場所が、もう一つあった。フジ棚をこえて先へ進むと、その場所に出る。そこにはなんと、古ぼけたメリーゴーラウンドが設置されてあったのだ。

 役場の裏庭にメリーゴーランドがあるなんて相当、場違いな感じもしたが、この村出身の成功者が寄贈したものを、役場が管理してるんだと、当時の学校の先生から教わった覚えがあった。私が幼いころからもうすでにそこにあり、よく少年たちといっしょに乗って遊んだものだ。

 ただしメリーゴーラウンドといっても、一般の遊園地にあるものとは、ずいぶん様子が違っている。こうして見ると多少、作りが悪いように思えるのは、都会の遊園地の華やかさを知っているせいだろうか。

 中央の円柱は鏡張りになっている。キャラクターに乗ったままで、そちらへ顔を向ければ回転する地面とともに、幻想的な風景を手に入れることもできるはずだった。ところが現状は悲惨である。これだけ汚れてしまうと、今やファンタジーの世界とはほど遠かった。

 中央部分にしか屋根らしきものがなかったので、真ん中の鏡どころか円盤の上に乗るキャラクターたちまで、なすすべもなく荒れ放題である。

 近づいて円盤に足を載せてみる。キャラクターたちは今も昔と、変わっていない。シンデレラがモチーフのようで、メーンはもちろん、かぼちゃの馬車である。そのほかには馬が二頭、馬車の前後には象とキリンが一体ずつ、備えつけられてあった。全部、合わせても一度に六名ほどの者しか、乗車することはできなかったが、当時の私たちにとっては、それだけあれば何の不服もなかった。

『A子はあれに乗れ』

 健次がそういって、私を馬車に乗せる。彼らは馬に二人、あとの一人は象、もしくはキリンにまたがって遊ぶ準備をした。しかもここでも彼らにはおかしなルールがあり、決して私の隣に座ろうとはせず、周りを取り囲んで奇声をあげるというのが常だった。

『A子、靴を脱いでほうり投げてみろ』

 ここでやる遊びは現在のコンピューターゲームなどとは、いささか趣が異なっている。田舎育ちの私たちにとっては、童話の中へ入り込む自分の姿を容易に想像できたから、小生意気な三人の小じゅうとたちでさえも、どこか少女趣味な一面をのぞかせていた。

 今から思えば、大笑いである。

 もちろん私はこの遊びが特別気に入っていて、赤いエナメルの靴を馬車の上からほうり投げるときの気分はそう快だった。

『みんな、いくぞ』

 円盤の上を赤い靴が転がると、彼ら三人はぐるぐると回る地面に着地して、勇敢にも私の靴を奪い合おうとやっきになった。シンデレラのガラスの靴を真似ているような感じではあったのだが、三人の小汚い王子はここでもやはり、性格の悪い小じゅうとと言ったほうがぴったりだった。

『健ちゃん、ずるいわ。おれが先にとったのに』

 辰男は機敏な動きをしていたので、こういった遊びにはもっとも適していた。だけど残念ながら健次がたいてい、辰男の手から私の靴を奪ってしまう。

『うるさい。油断してるほうが悪いんや』

 苦労して靴を手に入れたからといって、大した褒美があるわけでもなかったんだけど、男っていうのは人に負けるのがどうしようもなくいやみたいで、彼らはいつも真剣な顔をしながら、この遊びに熱中した。

 やがて勝者が決まるとご褒美として、私の足に拾った靴をはかせることができる。ただそれだけのことだったんだけど、女もやっぱりこういう対象にされることが、あこがれみたい。とにかく気持ちがよかったと今なら正直に白状できる。

 それにしても、彼らのがんばりには頭の下がる思いがした。古ぼけたメリーゴーラウンドは当時からすでにくせ者で、彼らを振り落とさんばかりに暴れていた。その上で靴を奪い合うことはおそらく大変な作業だったはずだ。にもかかわらず、健次と辰男は回る地面よりも早く、円盤の上を喜々として移動した。ただ一人淳平だけは、この遊びが苦手だったようで、いつも終わったあとには真っ青な顔をしながらうつむいていた。よほど怖かったのか、それとも目が回って気分でも悪くなったのか、そのあたりの事情は飲み込めなかったが、淳平には一度も靴をはかせてもらったことがなかったように思う。

 懐かしい思い出がすぐそばにあった。近づいてあちこちに触れてみる。かつてにぎやかに動き回った巨大な玩具も、今ではひっそりとおとなしいものである。

 しばらくしてから、あたりをしっかりとうかがった。そのあと私はかぼちゃの馬車に近づいた。うまい具合に人の姿はそこらに見あたらなかった。喜び勇んでステップに足をかけ、お尻を座席に無理やり沈めようとがんばってみた。少し窮屈だったんだけど、なんとか乗車することができてほっとする。

 それからしばらくの間、一人ぽっちではしゃいではみたものの、動かないメリーゴーラウンドというものはかなり寂しくて、私はすぐに飽きてしまう。

「いくらなんでも、一人で楽しむなんて無理だよね」

 とは言ってもせっかくだったので、サンダルを脱いでほうり投げてみることにした。かかとの高いサンダルは、あのころのものよりも、よほどガラスの靴に似ているはずだった。なのに残念ながら、それを拾ってくれる者はもはやここには存在していない。私のサンダルは円盤の上をむなしく飛び跳ねて、音を鳴らしながら裏の茂みへと転がった。

「こらっ、健次、辰男、淳平、ほうり投げてやったぞ。早く拾ってガラスの靴をはかせてみろ」

 わけのわからないことを口走る私は、おかしなことになぜか上機嫌である。記憶の中から彼らが飛び出して来て、あのサンダルを奪い合う光景が脳裏にはっきりと浮かんでいた。

「あぶないあぶない」

 ようやくあきらめて馬車からおりようとした。ところがそのとき、見知らぬ男が私のサンダルを拾い上げてこちらに近づいてきた。私はすぐに身構えた。

 どうやら若い男で、グレーの作業服を着用している。帽子を目深にかぶっているため、人相のたぐいはよくわからなかったが、背の高さの割には肩幅が広くて、服の上からでも屈強な体を連想させる。

 ごめんなさい、そういいながら男に向かって頭を下げた。それでも彼からの返事はなくて、拾ったものを手渡してくれる様子も見えなかった。しかも男はもっとこちらへ近づいてくる。

 もう私のすぐそばに立っていた。なのに彼は相変わらず沈黙を守ったままで、帽子のひさしの下からのぞく、きつい瞳だけで意思を表すのみ。

 これはやっかいである。

 緊張感から思わず顔を背けてうつむいた。するとひざの上にある、自分の手が小刻みに震えていることに気がついた。

 正直にいうと、どうしようもなく怖かった。無口な感じは明らかに悪印象だったし、返事もしない態度からは危ない雰囲気が、やたらとにじみ出ている。とにかくここから早く逃げ出したい、そう思ったんだけど故意か偶然か、男の立つ位置が私にとっては最悪で、乗り物からおりるための出口をふさがれていた。

 もっと早く馬車からおりればよかったと後悔しても、あとの祭りである。今のところ飛び出しようがなかったし、近くに人の気配があるかもしれないと探ってみても、閉じられた風景の中にはどこにも人影は見あたらず、大声をあげてもおそらくは無駄だと思い知るしかなかった。もしここで襲われたら、今のところ、私には手の打ちようがないというのが本音である。

「すみません、もうおりますので、そこをあけてください」

 そういって腰を浮かしかけた。そのとき男がいきなりその場でひざを折り、私の足に向かって片腕を伸ばした。息を殺して体を緊張させる。もう少しで声が出そうになった。それをこらえて、やっとの思いで歯を食いしばる。変態である可能性、現在の状況から判断すれば九十パーセント強といったところである。

 こうなったら、おとなしくしてばかりはいられなかった。彼が私の足に触れようとした瞬間、前にある顔をめいっぱいの力でけり上げてやった。ちょっとかわいそうな気もしたんだけど、ちょうど具合のよい場所に彼の顔があったわけだし、ここから逃げ出すためにはそれしか方法がないように思えたのだ。

 男がひるんだすきに、今度はこん身の力を込めて体当たり。そのために彼の体はぐらついて、ここぞとばかりに私は急いで馬車からおりた。

 もう二、三発けりを入れてやろうかとも思ったが、それよりも逃げ出すことのほうが先決だと思い、役場の建物に向かって一気に駆け出そうとした。そのとき男の手がこちらに伸びて、私の二の腕をがっしりとつかんだまま離さない。

「痛いな、A子――お前は相変わらず、むちゃくちゃなやつやな」

 変態はいきなり私のことを呼び捨てにした。だけど興奮状態にある私の耳には当然、そんな声は届かない。思考がひどく乱れていた。的確な判断を下すには無理があった。しかも追い詰められたネズミのような焦りが背中に張りついたままだ。私の場合、とっさの決断はたいてい凶暴になる。

 振り向きざま、男の股間めがけてひざをお見舞いしてやった。

 彼の顔が一瞬でゆがんだ。そのあと無残にうずくまる。今がチャンスだ、そう思って私は一気に走り出した。

「おれや、A子。淳平や」

 背後で悲鳴のような叫び声がした。え? 淳平――私は立ち止まって振り返った。すると男は立ち上がり、帽子をとって笑顔を見せる。

「まともにひざが食い込んだぞ。玉がどうやら行方不明や」

 ぼう然と立ち尽くし、男の顔をしげしげと観察した。太いまゆは真ん中でつながりそうなほど乱暴な感じ、その下であぐらをかく鼻は、細かい血管が密集しているため相当、赤い。まるで赤いお鼻のトナカイさんである。

 そう言えば、幼いころの面影があった。

「ひょっとして、記憶の中から一人飛び出して来たの」

 私のことばに男は目を丸くした。

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