第19話 駅前第四ビルの最後の嘆き。
私はなぜか恐ろしくて、ただ震えている。だから帰るために、駅へ向かったでのある。
駅前でバスをおりて、雑貨屋へ立ち寄ることにした。店先は明るかったが店内に入ると薄暗かった。それでも少し埃っぽい臭いが私にとってはときめきで、小さなころ、ここで見た宝の山がよみがえる。お店の中をぐるりと見渡しながら、お気に入りのものを探してみた。子どもが喜びそうなものはそこらじゅうにあったんだけど、私の欲しているものは見あたらなかった。その代わり懐かしい欠片を見つけたので、たった一人で大喜び。
七色のあめ玉の入った大きな瓶が棚の上できらきらと光っている。一個十円、ラベルにはそう書いてあったので、淳平のやつに昨日、河原でもらった十円玉を取り出して、お店の奥に向かって声をかけた。
「すみません」
しばらく呼んでみたが一向に誰も現れない。仕方なく十円玉を棚の上に置き、あめ玉を一個、取り出して、口の中にほうり込んだ。
「淳平のキッスは甘い」
代金として払った十円玉は、淳平が少女のキッスを買ったものである。それがこんなに甘かったとは、私としても意外な感じがして、思わず吹き出した。
店を出てから、駅のほうへ向かってみると、改札口の前に立つ、淳平の姿を発見した。向こうも私を見つけると、にやりと笑って近づいてきた。でも私は一瞥をくれたのみ、口もきかずに改札を通り抜けようとした。そのときにまた、駅長さんと目が合ったので、仕方なく立ち止った。
「こんにちは」
駅長さんは相変わらず愛想がよくて、こぼれるような笑顔で私を迎えてくれる。
「おやおや、久しいかたにお会いできて光栄です」
この間のことは、もうすっかり忘れているみたいである。
「おとといも会ったじゃないですかぁ」
意地悪く、横目で睨んでやった。
「いやいや、あんたのことを忘れるなんてなかろうに」
そう言ったあと、駅長さんは切符売り場にいる奥さんに向かって、大声をあげた。
「母さんや、珍しい人に会ったぞい。早くこっちへ来んかいな」
すると奥さんがこちらに近づいてくる。
「このもうろくじじいが、うるそうてたまらんわ。ちったぁ静かにせんかいな」
「そんなことよりほら、見てみぃ。懐かしいじゃろ」
「あらまあ、美子さんじゃないの。元気だったかえ」
どうやら今日もまた、誰かと間違われているらしい。
「何を言うとるんじゃ梅干しばばあ。この人は和美さんじゃろうが」
今度は駅長さんが奥さんに向かってつっこみを入れた。
「おやっさん、もうええ加減にしとき。しっかり仕事せんとクビになるでぇ」
淳平のひと言で二人はようやく長年の持ち場へ戻ったが、駅長さんは向こうで何やらぶつぶつとぼやき始めている。その声が、私の耳にまで届いていた。
「淳平、お前のほうこそ、今ごろこんなところで何をやっとるんじゃ。わしがこうこうこうやと役場で話をしたら、間違いなくお前のほうがクビになるわい」
どうやら淳平の名前だけは覚えているらしい。それは私にとっては残酷な仕打ちである。
ここでは私にだけ、名前がない。
ローマ字のA子というのが、ここで私に付けられた名前と言うわけだ。それが私の本当の名前でないことを、私は昨日の夜から感じていた。駅長さんも奥さんも、私の名前をどうしても口には出せなかった。実は淳平も同じである。
私の名前とは言えない名前でしか、私を呼べない規則のようなもので縛られている。私の家にはそもそも父も母もいなかった。父や母があの家にいるはずなどなかったのだ。あの家は私の家とはまったく違っていたからだ。
ここにあるものはすべて、まやかしである。
私はようやく改札口を抜けたが、そこで足を止め、後ろ髪を引かれるようにして振り返った。淳平や駅長さんばかりか奥さんまでが改札に立ち、にこやかな笑顔で送ってくれる。
「元気でなあ、京子さ~ん」
彼らは最後まで、私の名前を教えてはくれなかった。私にはわからないことが多すぎた。自分がそもそも誰なのか、どこからやって来たのか、始まりはいったいどこだったのか、それらが何一つ、わかっていないのだ。だから私がこれからどこへ帰ろうとしているのか、それさえも今の私には確信がない。なのに私には子供のころの記憶があった。でもそれは本当に、私の記憶だったのだろうか。それは記憶ではなくて、願望と呼ばれる種類のものだったのかもしれない。
やがて電車がホームに入ってくる。ドアの前に立ち、乗り込む準備をした。ところがそこで、予期せぬ事態に遭遇した。開くはずのドアが閉まったままだ。私は助けを求めるために、改札口の三人のほうへ視線を向けた。
そこで私は言葉を失った。私には名前がなかったが、彼ら三人には顔がなかったのだ。それで私はすべてを悟った。
本当に、淳平が幼馴染みだったら、良かったのに――。あんなに気のいい駅長さんや奥さんが、私の故郷の駅にいたら、どんなに楽しかったことか。
やがて私の体から、大量の血液が抜け出ていることに気がついた。水の音が聞こえている。湯船の中だ。周囲を取り囲んでいるお湯は、真っ赤な色をしていた。もはや駅もホームも改札口も、そこに立つ三人の姿も見えなかった。
私はおそらく、狭い場所に閉じ込められている。緑の山々だった景色も今はなく、代わりに白い壁が四方を塞いでいた。正面だけに窓があった。窓の向こうから私を呼ぶ声が聞こえてくる。
あの声は、B子の声である。B子はアルファベットの名前ではなくて、元々の名前で私を呼んだ。窓にあるのは外の明かりと、B子の声だけである。かすれた声が喉の奥からにじみ出た。自由になる片方の手を懸命に伸ばした。届きそうもない正面の窓に向かって、私は必死な思いで片手を伸ばしている。それが私の記憶、もしくは願望の最後の瞬間だった。
こうしてA子のたった26年間の人生は、あえなく幕を閉じたのである。
* * *
地面の下からアレが伸びてくる
確かに彼女は倒れていた。駅前第三ビルに言わせると、嵐のせいではなくて、ガン細胞に蝕まれた鉄の塊が、彼女の体に激突したために起こった不幸であったらしい。
僕はその瞬間を目撃してはいなかった。正確に言えば、眺めていたのは事実だが、記憶には一切、残っていないと言ったほうが確かである。
「かわいそうだったよね。見ているのも痛々しかったよ」
駅前第三ビルはどうやらしっかりと、現場を目撃した様子である。いまだに拗ねて黙ったままの僕をしきりに慰めようと、いつにも増して雄弁だった。
「あの勢いでぶつけられたら、小さなビルだって、倒れるさ。僕らのほうへ突っ込んで来なかっただけでも、不幸中の幸いだったと喜ぶしかないんだよね」
僕らビルは建つだけを生業{なりわい}にしているが、倒壊に関しては過剰なくらい敏感で、臆病で繊細な神経が鉄骨の隅々にまで行き渡っている。
ビルが一気に崩れ去る、そんな状況はおそらく珍しい。けれども建つものは必ず、劣化する。内部を浸食するネズミ、アリ、壁のひび割れ、自覚できる症状にしても、ごく頻繁にかつ、日常的にあるものだ。やがてはそれが、逃れることのできない倒壊への道しるべである。
それでも僕らが本当に倒壊する場面をリアルに想像できるのかと聞かれたら、それもまた怪しい限りだ。若いビルは頭では分かっていても、やがて倒壊する自分の姿を、無意識のうちに否定している。自分だけは違う、否定しながらも否定している自分でさえも、さらに否定し始める。だからことさらに、始末が悪かった。
「あの植樹のことが、よほど気に入ってたみたいだね」
駅前第三ビルはいつだって一言多くて、鈍感なくせに、他人のことになると妙に勘が鋭くて、はぐらかすのがいつも大変だった。
「そうでもないさ。一人で退屈な気分だったし、嵐の夜に話し相手もいなかったから、目についた物をじっくりと見物していただけさ」
十メートルほど先の対象物をただ見つめるだけ。いつだってビルにはそれしか許されなくて、あれこそが唯一無二の恋愛だったと、いくら僕が声を大にして言い切ったとしても、彼女が生命を落とす瞬間でさえも、お前はただの傍観者でしかなかったんだと、責められてしかるべきだ。だからこそ、絶望感を味わっている。無力である自分を恥じ入って、基礎部分の隅々に至るまで、痛烈な振動を感じ取っていた。
ところが、おかしい。
確かに基礎部分には、はっきりとした振動があるにはあった。しかしてそれは、どうやら羞恥の意味での、精神的な震えではないらしい。
何かが触れている。僕は確かに、感じ取っていた。
この振動は誰かが何らかの意図で、自らの存在を主張している結果であるのかもしれない。そう考えたほうが論理的な気がしてならなかった。地面の下には間違いなく、何かがいる。もしくは誰かが存在している。そんな風に感じ取った僕は、あわてて神経を基礎部分の周囲に集中した。
触れているものは柔らかくはなかった。けれども細い。か細くいくせにどこか力強い振幅を持ち、かすかだが、しなやかに揺れているような感触があった。
「地面の下に潜んでる物といったら、いったい何が考えられるだろうね」
堪えきれずに僕は、駅前第三ビルに尋ねてみた。
「地面の下?」
駅前第三ビルはそんな風に聞き返してから、しばらく黙ってしまう。窓という窓をわずかに軋ませながら、しきりに考え込んでいる姿を僕の前で強調した。
「四{よん}ちゃん、どうも不可解なんだけど、地面の下に潜んでいる物という、質問の意味がわかりにくいんだよね」
僕らの意思の疎通は、道路を隔てた立ち位置のごとく良好とはいえず、いつも誤解と思いこみの危険を孕んでいる。
「何かに触れられているみたいなんだ」
「どこが?」
いつにも増して、僕らのコミニュケーションは滞っていた。
「だから、地面の下の基礎部分を、何かにいじくられてるって言うか――」
僕の言葉を聞くと、駅前第三ビルは窓を閉め忘れたビルの如く、空気が抜けたような声を出した。
「それは、ひょっとすると、モグラかな」
どう考えても、モグラのような感じではない。
「もっと繊細だし、持続性があるんだ。しかも、どこか心地よい感触だといえるんだから、始末が悪い」
僕は四方の窓を微動させながら、現在の心境を正直に、駅前第三ビルに向かって吐露したが、すぐに思い直して言い換えた。
「心地よいというのは、やっぱり違うな。未知の感覚だと理解してよ」
変な誤解をしてほしくなかった。それでなくも駅前第三ビルは下世話なビルだ。基礎部分の先っちょ辺りが心地よいなど言い出したら、おかしな想像をするに違いない。
ビルにとって基礎部分は秘められた、決して他のビルには見せてはいけない繊細な場所である。そんな大事な場所を表現する場合には、慎重な言葉遣いが必要だと、胸のうちで深く反省した。
「だとしたら、かなりやばいかもしれないよ」
僕の弁解を聞いたとたん、駅前第三ビルの声のトーンが、いきなり一段上がった。
「モグラじゃなかったら、ひょっとすると、アレかもしれないね」
アレというだけでは、当然、何のことだか分からなかったし、物事を特定するにはあまりにも言葉足らずな表現だと思う。でも駅前第三ビルの話し方から判断すれば、アレというからには、相当なアレという感じがして、なんとなく怖くなって、僕はいきなり言葉を失った。けれどもだからこそ、気になって仕方がないというのが、ビルなら誰もが持っているビル的な性質であることは、紛れもない事実である。
「アレって、いったいどんなアレのことを指しているんだい」
「アレって言ったら、アレに決まってるじゃないか。誰もが真っ先にぴんとくる、アレのことだよ。だって、基礎部分がむずむずするんだろ?」
言っておくが、むずむずするなんて表現した覚えは決してない。
「それはきっと、繊細な状態なんだと思う」
確かに、言うまでもなく繊細ではある。
ここで駅前第三ビルは、複雑な気持ちを壁の色にきっぱりと滲ませた。壁一面を塗り直すほどの手間暇をかけたわけではなかったが、日の照りようから埃の乗せ具合、窓の曇り方に至るまで、明らかに迷惑な心情を表していると考えて間違いなかった。
「ビルにとって、もっとも忌み嫌う言葉を口にするのは、さすがの僕にしたって気が引けるんだ。責任や義務なんていうもんはさ、その場を決して離れられないビルにとっては、荷が重すぎる。だからさ、アレはアレとしか、僕にしたって言いようがないというのを、君だってビルらしく理解してほしいと思うんだ」
駅前第三ビルは言い訳ばかりで、まるで真実を伝えようとはしなかった。
「どんな言葉でも受け入れるからさ、頼むからはっきりと言っておくれよ」
自分で言うのもおかしいかもしれないが、僕の声にはもはや、悲壮な決意が溢れている。お願いだからとどめを刺してくれ、そんな風に、心底、泣きが入っていると白状したい。
「わかった。それじゃあ言うよ」
言葉は端的だったが、声の質には倒壊を宣告する、まるでホスピタルのような重みが感じられる。今度こそ、駅前第三ビルは本気なんだと、僕にしたって覚悟せずにはいられなかった。
それにしても、事情を知らないそこらのビルが、今の僕らの状況を眺めていたら、なんてオーバーなビルが立ち並ぶ場所だとあきれるに違いない。けれども緊張感満載の瞬間が、僕と駅前第三ビルの間を隔てた路地という路地を、今まさに埋め尽くしている。それだけは、紛れもない事実である。
「一度口に出したら、もう二度と後には引けないからね」
駅前第三ビルがまたもや、しつこいくらいに念を押した。
最後の最後まで煮え切らない、その上、冗長でどこまでも前置きの長い言動に対して、僕はこれでもかっていうくらいあきれていた。ところがようやく決心した駅前第三ビルの口から出た言葉は残酷にして、無責任、デリカシーの欠片{かけら}も、全く感じられないような内容だった。
「四{よん}ちゃんが自覚している振動の原因はきっと、腐食だと思う。基礎部分が腐っていく課程での違和感だと思って間違いないよ。そんな話を古いビルから聞いたことがあるんだ。腐食っていうのはね、たいていの場合、基礎部分から始まってどんどん上の階へと進んでいくんだ。老化は下の階からっていう格言は、まさしく真理だと断言してもいいよ」
なんて卑怯な断言なんだ。驚きとしか言いようがなかった。ビルにだって最低、最小限の常識や、そうでなかったら、ビル同士の礼儀というものがあるはずだ。ビルがビルに向かって、無神経にも腐食を口にしたことなんて、かつてあっただろうか。
「それを言っちゃだめだろ。何にでもルールや、思いやりってものがあるのが普通だ。腐食を口にするなんて、ビルとしての品性に欠ける。今度こそ、本当に見損なったよ」
僕は四方の壁をこれでもかっていうくらい震わせながら、言葉以上の抗議を体全体で表した。
「だから言いたくないって、最初から断ってるのに――」
さすがの僕も、駅前第三ビルとの悪意に満ちた会話を続けることに嫌気がさし、今は亡き彼女、例の不幸な植樹が植えられていたはずの地面に視線を落とした。
するとおかしなことに気がついたのである。
僕が感じている振動は、彼女がいた場所と同じ方向からやってくる。しかもそれに気づいたとたん、さらに振動が大きくなったのだから、驚きだ。
振動は今や震えではなくて、僕自身が発している鼓動といっても差し支えなかった。借り物ではなくて、いつの間にか自分のものになってしまったのである。こうなったらもう一言いわせてもらう。実際のところ、基礎部分を刺激する震えを詳細に判断すれば、どうやら振動と言うよりも、まるで音楽のように僕の神経には届いていた。触れられることが、音符のように感じられるのである。
一瞬にして、気分を極上に持ち直した僕は言うまでもなく、いつにもまして上機嫌で、不自然なくらいポジティブな思考に溢れていた。だから久しぶりに親愛の情を込めて、隣のビルに対しても、にこやかな態度で呼びかけることができた。
「ねえ、三{さん}ちゃん、あの植樹も僕らと同じ植物である限りは、基礎部分があるはずだよね」
「なんだよ、その基礎部分って言うのは、植樹の場合はね、根っこって言うんだよ。それくらいのことは、覚えておいてほしいもんだ」
駅前第三ビルは相も変わらず憎々しげで、それを聞かされる僕のほうは、いつもなら耐え難い屈辱感に駆られているはずである。ところが今日の僕は気持ちに余裕があった。ゆとりはいつの場合でも、大事である。ビルの内装にしたって、豪華さと共にゆとりというのは、ビルを評価する上での最重要項目だと言われている。
とにかく今日の僕は、気分がいい。だから駅前第三ビルの不遜な態度を許すことができた。寛大な気持ちで対処できるだけの、精神的な余裕があったからだ。
「なんだよ、おかしなやつだな。何か変わったことでもあったのかい。窓ガラスが曇って、今にも窓枠から水滴がこぼれてきそうな感じじゃないか。不潔としかいいようがないね。何をそんなに汗ばんでいるんだい」
駅前第三ビルは僕の様子をひどく訝ったが、他人の目なんて気にはならなかった。僕は汗ばんでいたわけではない。今まさに、深く感動していたのである。長い時間の繋がりの中には、極上の瞬間を味わう場面が必ずある。僕にとっては、今がそのときだった。
基礎部分に当たる刺激に、心を揺さぶれている。しかもこれほどの喜びを享受できるのは、ほぼ初体験であると白状してもかまわなかった。
僕の基礎部分は彼女の根っこに、しっかりと絡まれていた。絡んでいるのが彼女の根っこであると、はっきり確認したわけではなかったが、情況証拠と願望が入り交じった現在の様子から判断すれば、おそらく確実である。むしろ間違いないと言い切っても、差し支えなかった。
こうなったらドアというドアを開け放ち、すべての部屋を開放感でいっぱいに満たしてから、思う存分、幸せな時間を楽しんでみようと思っている。ビルにしては珍しく、大きな声をあげながら笑って見せた。
(了)
駅前第四ビルが愛した植樹 春 @8ssan
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