第5話

「雪奈、心して聞け。今回の〈鬼溢れ〉には大型の〈鬼〉が出現する」

 大型の〈鬼〉。

  その言葉を耳にした瞬間、雪奈の全身に戦慄が走った。

 大型に属する〈鬼〉の存在は百戦錬磨である左衛門から聞いたことがある。

〈鬼〉の中でも最大最凶の存在である大型の〈鬼〉。約三十年前の〈鬼溢れ〉でもやはり出現し、鬼啼島全体に甚大な被害を与えたという。

 雪奈は苦々しく唇を噛み締め、膝の上に乗せていた拳を堅く握った。その様子を見た秀柾は初めてくすりと笑った。

「ただ、そう気負うことはない。確かに〈鬼溢れ〉では小型、中型はもちろん大型の〈鬼〉も出現するだろう。しかし我々には先人たちから受け継いできた力と知識がある」

 秀柾の言葉の中には確固たる信念と強靭な意志が感じられた。

「おじ様、〈鬼溢れ〉については何となく理解できました。それで私は今回の〈鬼溢れ〉において一体何をすればいいんでしょう?」

 改めて背筋を伸ばし、雪奈は真摯な眼差しで秀柾を見つめる。

「その前に――」

  秀柾は外で待たしていた君夜を呼びつけた。君夜は両手で行儀よく扉を開けると、軽快な足取りで部屋の中に入ってくる。

「雪奈、お前をここに呼んだのは他でもない。今回の〈鬼溢れ〉での陣頭指揮をお前に任そうと思うのだ。大変なお役目だが君夜を常に傍につけるから安心してくれ」

 雪奈は隣に座った君夜に顔を向けた。微笑を浮かべていた君夜の表情を見る限り、すでに前もって知らされていたようである。

「ですが私は陣頭指揮を任されるような人間ではありません。技量も若年ですし実戦経験も決して多くありません

「そんなことはない。我ら九頭竜家に伝わる異能の力は〈鬼〉の出現場所を予知する〈鬼詠み〉の力だけだが、お前は自分と〈鬼〉との〝気〟を強制的に同調させる〈合鬼〉が使える。それにお前は青柳先生から手解きを受けている合気柔術に〈合鬼〉を加えて使用しているというではないか。前々から皆とも話し合っていたのだが、お前の〈合鬼〉は近年稀に見る凄まじい潜在能力を持つ力だ。だからこそ、私は若いうちからお前に陣頭指揮を執って経験を積んでもらいたいと思う」

 これには雪奈も大きく目を見張った。〈鬼〉たちとの戦いを指揮する者は、昔から統率力に優れた人間が選ばれると決まっている。

  本当ならば実に名誉なことだ。ある意味、この島の象徴を意味している。

  しかし、と雪奈の脳裏に疑問が過ぎった。

「おじ様は陣頭指揮を執らないのですか? おじ様ならば私よりも完璧に指揮を執れると思うのですけど」

 雪奈の言う通りであった。

  秀柾は幼少の頃より文武に優れ、島民たちの顔役であった。それに普段の〈鬼還し〉では秀柾が陣頭指揮を執っており、ここ十数年で死亡者が一名も出ていないのは秀柾の指揮が的確だという意見も多い。

「そうしたいのも山々なのだが、今回において私はこの本殿に篭って結界を強化しなければならない。それ故に君夜をお前の傍につける。君夜、〈鬼溢れ〉の最中は全力で雪奈に助成するのだぞ」

 そのとき、一瞬だけ君夜の表情に翳りが見られた。が、すぐにいつもの屈託のない笑顔に戻ると、君夜は三つ指をついて深々と秀柾に一礼した。

「此度のお役目謹んで承ります」

「うむ、頼んだぞ」

 話がすべて終わると、秀柾は二人に背中を向けた。

 本殿の奥には木台の上に枠を組み立てた八脚台が置かれていた。その中央には榊の枝が立てられ、紙垂と木綿が取りつけられている。

 神籬である。これは神事を行う際、臨時に神を迎えるための祭具であった。

 二人に背を向けながら秀柾は言った。

「私はこれより結界の強化に努めるが、お前たちは今のうちに身体を休めておけ」

 君夜と顔を見合わせた雪奈はそつなく立ち上がると、秀柾に一礼して静かな足取りで本殿を後にした。君夜と一緒に木段を下りて本殿の敷地内から境内へと歩いていく。

 そして拝殿の前を通り過ぎ、朱色の鳥居を潜り抜けたときだった。

「あれ?」

 雪奈は頓狂な声を上げた。境内に場違いな格好をしている人間を発見したからだ。

 遠くからでも分かる金色の短髪に、がっしりとした筋肉質の体型。その身体を見せつけるかのように上半身には黒のタンクトップ、下半身には迷彩柄のカーゴパンツを腰より低い位置で穿いている。

 武舎九十九。

  由緒正しい漁師の家系であり、雪奈たちと同年代の少年であった。

「九十九じゃない。あんた、こんなところで何してんのよ?」

 呆れた声で雪奈が話しかけると、九十九はちらりと君夜を見た。しかし、すぐに雪奈の方に顔を向き直して鼻息を鳴らす。

「あのクソ野郎からお前らがここにいるって聞いたんだよ」

 クソ野郎とは言わずもがな竹彦のことである。

  子供の頃から気性が激しく喧嘩好きの九十九は、昔から何かと竹彦対して悪態や難癖をつけて喧嘩を吹っかけていた。もちろん竹彦は露にも相手をしなかったが、それが一層九十九の不快感を倍増させるらしい。そんな目の敵にしている竹彦に聞いてまでも自分たちの居所を探していたとなると、相当な用事なのだろうと雪奈は漠然と思った。

「それで、九十九君は私たち二人にどんな用事があるのですか?」

 改めて訊いたのは君夜である。九十九は顎をしゃくらせて雪奈を示した。

「用があるのは君夜じゃねえ。こいつだ」

 あまり親しくない人間に「こいつ」呼ばわりされると無性に腹が立つ。雪奈は軽く技でもかけようと思ったが、この九十九も武術に関してはまったくの素人ではない。

 九十九は実戦空手の猛者であった。そんな空手も大別すれば二種類に区分される。

 相手の身体に直接触れない伝統派空手、防具などを纏って相手の身体に直接触れるフルコンタクト空手、などである。

 九十九が使う空手は後者であった。

  鬼啼島に生まれた人間特有の並外れた体力と、日頃から荒波の海で揉まれて培われた堂々とした体躯。そして修練で養われた空手の力は、もしかするとプロの格闘家と戦っても引けを取らないかもしれない。

  戦ったら両方とも無事では済まない。九十九もそれが分かっているのか、今まで雪奈に直接何かしてきたということはない。

  だが今日は何かが違った。今にも襲いかかってきそうな迫力を感じる。

「管理組合の人間から聞いたぞ」

 九十九の怒気を孕んだ言葉に、勘の鋭い雪奈には何のことか見当がついた。

「何でてめえみてえな女が陣頭指揮を執るんだ! 〈鬼溢れ〉は特別なんだぞ!」

 つまりそういうことであった。九十九は島の象徴とも呼ばれるほど名誉な〈鬼溢れ〉での陣頭指揮を雪奈に執られることが気に食わないのである。

 普段の〈鬼還し〉の陣頭指揮は主に秀柾が執っている。その他にも何人もの人間が状況に応じて指揮を執るのだが、三十年に一度の割合で起こる〈鬼溢れ〉は違う。すべて一人の人間が取り仕切り、他の人間は全員が指揮者の命令を聞かなければならない。

  それが九十九にとっては我慢できないのだろう。同じ年代、それも目の敵にしている男の主人である雪奈のこともやはり九十九は目の敵にしていた。

  そんなことを言うためにここまで来たのか。今は島中の人間が〈鬼溢れ〉の損害を抑えるべく奮闘しているというのに、個人的な私見を述べるために九頭竜神社まで押しかけてきたのならば相当な馬鹿である。

  少し目を覚まさせてやるべきか。雪奈が自然体のまま身体を半身に構えると、九十九は咄嗟に地面を蹴って後ろに跳んだ。

  九十九も伊達に〈鬼還し〉に参加してはいなかった。一瞬で変化した雪奈の雰囲気を見逃さなかったのだろう。

 九十九は両拳をしっかりと固めて顔の高さまで上げた。

  それだけではない。重心を落として臨戦態勢に入ったのである。

 しかし、二人が境内で戦うことはなかった。

「二人ともやめなさい!」

 雪奈と九十九の間に割って入ってきた君夜は、両腕を大きく広げて叫んだ。雪奈に背を向けて九十九の方に顔を向けていた。

「九十九君、ここは神聖な場所です。ここで争うことは私が許しません」

 険を込めた声で君夜が一喝すると、九十九は鼻息を荒げてゆっくりと構えを解いた。

「そんなに怒んなよ。本当にやるわけねえだろ」

 九十九はズボンのポケットに手を突っ込み、雪奈と君夜に背を向けて歩き出した。だが十歩ほど歩いたところで顔だけを振り向かせる。

 目線の先には未だ臨戦態勢を解いていない雪奈がいた。

「絶対に俺は認めねえからな」

 吐き捨てるように言うや否や、九十九は肩を揺らしながら石段を下りていった。

 やがて九十九の姿が見なくなると、雪奈はどっと肩をすくめる。

「まったく、問題は山済みだわ」

 うな垂れる雪奈に君夜がそっと近づいた。

「大丈夫、雪奈さんならきっと誰よりも立派に指揮を取れますよ。だってお父様が認めたんですもの。もっと自信を持ってくださいな」

 君夜の太陽のように明るい笑顔に触発されて雪奈の顔も笑顔になった。

 何時だって雪奈はこの笑顔に励まされてきた。隣で君夜が笑っていてくれる限り、自分はどんな困難なことでも乗り切れる。

「そうだよね。私がくよくよしていたら皆も不安になるもんね」

 顔を両手で叩いて気合を入れた雪奈は、自分に課せられた責務を果そうと歩き出した。君夜も「その意気ですよ」と雪奈の後に続いて歩き出す。

 緩やかな風に誘われながら、二人は九頭竜神社の境内を後にした。

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