第23話

  話は少しだけ遡る。

  午前一時三十二分。

  夜空に煌々と輝いていた月が暗色の分厚い雲に遮られ、極光の光がより一層強く輝いて見えた頃、右手に刃渡り二十センチほどの短刀――〈闇烏〉を持った九十九は三体の中型タイプの〈鬼〉に囲まれていた。

  場所は商店街地区を抜け出た先にあった、小さな公園の中である。

「来るな、来るんじゃねえよ!」

〈闇烏〉を突きつけて激しく抵抗する九十九。そんな九十九を三体の中型タイプの〈鬼〉たちはじっと窺っていた。

  本来ならば単独行動をしている人間などは絶好の餌だ。中型タイプの〈鬼〉が三体も集まっていれば人間の一人や二人ぐらい造作もなく仕留められるだろう。にもかかわらず、三体の〈鬼〉たちは九十九の言葉を理解したかのようにその場を去っていった。

〈鬼〉たちの姿が視界から消え去った途端、九十九はその場にしゃがみ込んだ。額、脇の下、背中とありとあらゆる部位から冷汗が浮き出てくる。

 予め聞かされてはいたが、やはり一人で中型タイプの〈鬼〉と対峙すると恐ろしい。九十九は緊張と恐怖を緩和させるために何度も深呼吸を繰り返した。

 九頭竜神社に伝わる宝刀――〈闇烏〉。

  刃はもちろん柄も鞘もすべて〈結界柱〉と同じ材質で造られている〈闇烏〉は、所持者の意識を通じて〈鬼〉を退ける力があると前もって聞かされていた。

  しかし九頭竜家はこの〈闇烏〉を封印し、表舞台からその存在を掻き消した。なので島の人間でも〈闇烏〉の存在を知る人間は極少数であり、その人間たちの間でも〈闇烏〉の話しは半ば禁忌として扱われているのだという。

 それは何故か? 本当に〈鬼〉を退ける力があるのならば、普段の〈鬼還し〉でも大いに役立つはずだ……と、何の事情も知らない人間ならばそう思うかもしれない。

 だが、この〈闇烏〉には〈鬼〉を退ける力の他にそれ以上の力が隠されていた。それはまさに鬼啼島の伝統を根底から覆してしまうほどの大いなる力が。

 数分後、ようやく九十九は落ち着きを取り戻した。周囲を見渡しながら立ち上がり、尻に付着した砂を払い落とす。

 どうやら公園の付近を徘徊していた中型タイプの〈鬼〉は三体だけだったようだ。

「へ、へへへ……すげえぜ、これは」

 九十九は改めて〈闇烏〉の全体に視線を彷徨わせた。

  管理組合の猛者たちが苦戦する中型タイプの〈鬼〉であろうと、この〈闇烏〉を突きつけただけで黙って立ち去っていくのだ。はっきり言ってこんな強力で便利な武器など見たことがない。

  九十九は左手に握っていた鞘に刃を納刀すると、息を潜めながら駆け出していく。

  やがて九十九は公園から目的の場所へと辿り着いた。

  まず見えてきたのは立派な竹林群である。しかし今はすでに日付が変わった深夜。それに近くには外灯がなかったため、笹の葉が風に揺られている音しか聞こえてこない。

  それでも九十九は闇に包まれた竹林の中に足を踏み入れた。

  場所は大体見当がついている。それに暗いといっても夜空に浮かんでいる極光のお陰で自分の手の形ぐらいは視認できる。これぐらいならば大して苦にはならない。

 まるで鉄格子のように地面から突き出ている竹の間を進みながら、九十九は真に目指していた場所へと無事に到着した。

 眼前には〈結界柱〉が堂々とそびえ立っていた。普段は絶対に訪れない場所だが、こうして〈鬼〉が出ている夜に足を運ぶと自ずと理解できる。

 やはり自分たちの住んでいるこの鬼啼島はおかしいのだと。

  こんな訳の分からない代物が存在する限り、島民たちは末代まで〈鬼〉に縛られて生きていくだろう。だが島の人間は誰もそのことを疑わない。

 刷り込みというのだろうか。生まれたての雛が最初に見たものを自分の親と認識してしまうように、この島の人間は物心がつくと同時に〈鬼〉の存在を認識させられる。

  ――〈鬼〉というものがこの島には出るんだよ。

  ――〈鬼〉は怖い存在なんだよ。

  ――〈鬼〉が出たら早く還ってもらうんだよ。

  と徹底的に大人たちの口から〈鬼〉という存在を寝物語で聞かされるのだ。

  幼い頃の記憶というのは善悪の区別なく記憶の奥底に植えつけられる。純真無垢な子供時分はその善悪の境がどこにあるのかが理解できない。

  しかし、時が経つごとに子供たちは世の事柄を自ずと理解するようになる。

 鬼啼島以外の地域では〈鬼〉は出ず、鬼啼島には必ず出るということを。

 何故、鬼啼島にだけ〈鬼〉が出るの?

  この島に生まれた子供は必ず一度は親に問いかけるだろう。だが大人たちは子供に〈鬼〉が出るという現実だけを見せつける。

 即ち、〈鬼還し〉に強制的に参加させるのだ。

「ふざけんじゃねえぞ」

 九十九は怒気を含ませながら地団駄を踏むと、確固たる現実として存在する〈結界柱〉へと歩み寄っていく。

 見れば見るほど〈結界柱〉という代物はおかしな存在だった。

 何百年か前に造られた石か金属か判断できない不可解な代物。黒曜石のように黒々とした全体からは紫色の光が放たれており、とある場所には奇妙な紋様まで彫られていた。

 この紋様は一般的に〝唵〟と呼ばれ、密教では真言、仏教では大日如来を表す梵字として知られているという。

 九十九は紋様から少しだけ目線を下げた。紋様の数十センチ下には〈結界柱〉と同じく紫色に輝く勾玉が綺麗に収められている。

「これさえ……これさえどうにかすれば」

 ごくりと生唾を飲んだ九十九は、勾玉に触れようとそっと手を伸ばした。

「ぐわっ!」

 恐る恐る伸ばした手の指先が勾玉に触れた瞬間、九十九の指先が見えない力によって弾かれた。静電気をより強力にしたような感覚である。

「やっぱり素手じゃあ無理ってわけか」

 九十九は〈闇烏〉の鞘から黒光りする刀身を引き抜くと、すかさず逆手に持ち返して柄頭の部分に左手を添えた。そのまま頭上を跨ぐように振りかぶる。

「こんなもの……消えてなくなっちまえ!」

 次の瞬間、九十九は〈闇烏〉の切っ先を勾玉に向かって振り下ろした。

〈闇烏〉はあっけないくらい簡単に勾玉に突き刺さった。その際、先ほど指先に感じた力は発動しなかった。それこそ豆腐に針を指したように何の抵抗もなかったのだ。

「やったぞ! これで、これで島の人間は救われる。あいつもこれでようやく俺を」

 そう九十九が喜びを露にしたときだ。

 不意に九十九の身体が激しく上下に揺れ動いた。

 地震であった。それも建物が少々揺れるくらいの微震ではない。その場に立っていられないほどの強震に襲われたのである。

 気がついたら九十九は地面にうつ伏せで倒れていた。顔から地面に接触したせいで口内には大量の土が侵入してくる。

「何がどうなったんだ……くそっ!」

 うつ伏せの状態で地面に伏していた九十九は、一分足らずで治まった地震の後に口内に入り込んだ土を唾液とともに残らず吐き出した。

 そのときである。

  九十九は顔だけを上げた眼前の〈結界柱〉を見上げた。

  異様な光景が目の前に広がっていた。 

〈結界柱〉からは天空に向かって巨大な光の奔流が駆け上がっていく。

 それだけではない。亀裂が入った勾玉からは夜の帳よりも深い闇が流出する。

 直後、九十九は腹の底から嗚咽にも似た叫び声を上げた。

 無理もない。勾玉から溢れ出した汚泥の如き質感を持った闇は、意思を持つ生命体のように九十九の身体を飲み込み始めたのだ。

 午前一時四十二分。

 九十九の叫びは誰の耳にも届かずに消え去っていた。

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