第26話
九十九が何処かへ飛び去った直後、雪奈は無我夢中で公園から飛び出した。
しかし、公園から二十メートルほど離れた場所で竹彦に腕を摑まれた。冷静さを失いかけていた雪奈は必死に抵抗したが、竹彦はそんな雪奈に怒声を浴びせて我に返させた。
九頭竜神社へ行くのなら走りより断然バイクの方が速いですよ、と。
なので雪奈は竹彦が運転するスクーターに乗って九頭竜神社へと向かった。
二人乗りのスクーターは凄まじい速度で商店街地区を抜け、小川の上に架かっている橋の上を通り過ぎていく
やがて時速60km/hで走っていたスクーターが森林に覆われた小道に侵入すると、竹彦はエンジンを切ってライトを消す。
「着きましたよ、お嬢」
雪奈はスクーターから飛び降りると、神社へと続く石段を見上げた。石段の両側には周囲を赤く染めている篝火が煌々と焚かれ、それが五十段間隔で境内まで続いている。
「竹彦、行くわよ」
石段に足を踏み出すなり、雪奈は三段飛ばしで駆け上がっていく。竹彦はスクーターに括り付けていた猟銃を携え、雪奈の後を慌てて追った。
疾風の如き速度で石段を駆け登っていくと、雪奈の耳には生木のはぜる音に混じって悲鳴のような声が聞こえてきた。中型タイプの〈鬼〉の悲鳴ではない。
紛れもない人間の悲鳴であった。
そして石段を半分以上まで登ったときだ。人間の悲鳴と同時に何発かの銃声が響く。猟銃の発砲音である。
(何がどうなっているの?)
言い知れぬ不快感に満たされながら、雪奈は数分足らずで百四十二段もあった石段を頭頂部まで登りきった。すぐに首を動かして境内を一望する。
雪奈は口を手で覆い隠した。目の前に広がる光景を見て瞳孔は拡大し、心臓の鼓動がありえない速度で加速していく。
数十秒後、境内に足を踏み入れた竹彦もその光景に激しい嫌悪感を抱いた。
九頭竜神社の境内には人間の死体が散乱していたのだ。酸鼻たる血の匂いが充満し、境内の所々には人間の血で描かれた赤い花が咲いている。
ざっと確認したところで死体の数は七体。どれも島域管理組合の人間たちであり、この九頭竜神社の警備を担当していた人間たちであった。
そんな光景を目にして正気を保てるはずがない。雪奈はその場で四つん這いになると、胃の中に溜まっていたものをすべて地面に吐き出した。胃液により溶かされた夕食が地面に円形状に広がっていく。
竹彦は雪奈の背中を優しく擦った。そのお陰で雪奈は平常心を取り戻したが、気を抜くと意識がふっと消えそうになることは否めない。
しばらくして雪奈は口元をハンカチで拭いつつ立ち上がった。
肩を貸しましょうか? と心配そうに声をかけてきた竹彦に雪奈は「大丈夫よ」と強気な態度を取り、なるべく散乱している死体を見ないように境内の奥へと進んでいく。
鳥居を潜り抜けて拝殿の前へと辿り着いた。
突如、竹彦が雪奈の肩を摑んだ。猟銃を構えながら雪奈を庇うように前へと出る。
「ど、どうしたの?」
雪奈が問いかけると、背中越しに竹彦は「気づきませんか?」と言った。
「何が?」と訊き返す雪奈。だが、竹彦は雪奈の問いに答えなかった。
その代わりに竹彦は猟銃の引き金を引き絞った。
拝殿の屋根に向かって猟銃の銃口からは五・五六ミリ弾が発射される。
そのとき、雪奈は竹彦の「気づきませんか?」という言葉の意味を理解した。
中型タイプの〈鬼〉である。
拝殿の屋根の一角には剛猿ほどの体格があった中型タイプの〈鬼〉――狒狒鬼が潜んでいたのだ。全身を覆っていた体毛は染めたように白く、炎のように逆立って見える。
そんな狒狒鬼は右肩を掻き毟りながら苦しんでいた。竹彦が撃った銃弾が右肩の付け根に命中していたのだ。
竹彦は瞬時にボルトを引いて空薬莢を排出。再び新しい弾薬を再装填させた。命中した箇所から考えて絶対に致命傷ではない。
それは雪奈にも理解できた。中型タイプの〈鬼〉はそれこそ首だけになっても反撃してくるような化け物だ。確実に急所を攻撃して仕留めなければ異界には還せない。
直後、狒狒鬼は拝殿の屋根から驚異的な脚力でもって跳躍した。
空中で五回ほど回転しながら地面に音もなく着地。剛猿のような体格にもかかわらず凄まじい身軽さである。
竹彦は猟銃の照準を狒狒鬼に合わせ、一方で雪奈は〈合鬼〉の準備に入った。
自分たちから数メートル手前に着地した狒狒鬼は明らかに怒っていた。虎のような低い唸り声を上げながら今にも飛び掛ってきそうな雰囲気を発している。
雪奈と竹彦に身の毛がよだつほどの戦慄が走った。数メートル手前に存在する狒狒鬼の潜在能力の高さに気づいたからだ。
果たして今の自分たちだけで還せるか。まさにそう思った瞬間、拝殿の周囲を覆っていた林の中から小さな物体が飛んできた。
四角形の小さな物体。意識を奪われた雪奈は空き缶かとも思ったが、傭兵だった竹彦には一目見て四角形の物体の正体に気がついた。
だからこそ猟銃を構えるのを止めた竹彦は、呆然としていた雪奈の身体を両腕で抱きしめつつ後方に跳躍した。
次の瞬間、雪奈が空き缶だと思った四角形の物体は空中で爆発。耳をつんざく大音響が轟き、同時に視力を麻痺させる閃光が周囲を真昼以上の明るさに変えた。
どれほどの時間が経っただろう。麻痺していた聴力が正常に戻ってきた頃、竹彦は雪奈の上半身だけを優しく抱き起こした。
「お嬢、怪我はありませんでしたか? どこか痛むところは?」
雪奈は適当な言葉を発して聴力の有無を確かめる。まだ少し耳鳴りがしているものの、先ほどよりも音の聞こえはいい。これならばすぐにでも回復するだろう。
「ちょっとだけ痛むけど大丈夫。鼓膜は破れていないみたい」
続いて雪奈は目もぱちぱちと開閉したりしたが、どうやら視力にも問題はなさそうであった。抱き起こしてくれた竹彦の顔もはっきりと見える。
「そうですか……よかった」
竹彦は雪奈の身体に異常がないことを確認すると、空き缶のような四角形の物体が飛んできた方向を見やった。すかさず怒声を発する。
「この馬鹿野郎っ! いきなり閃光手榴弾を投げる奴がどこにいる!」
雪奈は竹彦が怒声を発した先に目を馳せる。すると鬱蒼と生い茂る林の中からケリーとピンハートが姿を現した。
「命が助かったんだからそれでいいじゃねえか。怒るな怒るな」
「それが俺ばかりでなくお嬢までを囮にした言い訳か? いいか? 二度とこんなふざけた真似はするんじゃないぞ」
語気を荒げながらピンハートを睨みつけた竹彦。そんな竹彦に対してピンハートは苦笑いをしつつ「分かった、分かった」と悪びれた様子もなく頷いた。
一方、件の狒狒鬼はすでに土塊と化していた。おそらく閃光手榴弾が爆発したと同時にピンハート辺りが狒狒鬼を銃撃したのだろう。
などと考えていたとき、ケリーが雪奈に近づいてきた。
「さっきの電話のことなんだけど全部聞きました?」
雪奈は身体に付着した土を払って立ち上がると、乱れた純白の上着や緋色袴を調え直してケリーに頷いて見せた。
「竹彦から聞きました。君夜が〈鬼〉に連れ攫われたって」
申し訳なさそうにケリーが首肯する。そんなケリーを見て雪奈は立ち眩みにも似た症状に襲われた。信じたくはなかったが、やはり君夜が中型タイプの〈鬼〉に連れ攫われたということは事実だったようだ。
それはこの場に君夜の姿がなかったことが何よりの証拠であった。
だが、心のどこかでは嘘ではないかという気持ちも少なからずあった。しかし、こうして現実を目の当たりにすると受け入れないわけにはいかない。
「何でしたらそのときの状況を詳しく話しますよ」
ケリーの申し出を雪奈は丁重に断った。
君夜が連れ攫われた状況はすでに竹彦から聞いている。小島に存在していた〈結界柱〉の場所から二手に分かれた後、君夜たち三人は九頭竜神社に到着した。そこで島域管理組合の人間と出会い、君夜がケリーたちを紹介しているときに襲撃に遭った。
襲撃したのは中型タイプの〈鬼〉が約十体。不意に奇襲されたこともあり、管理組合の人間たちやケリーたちは対処に遅れてしまった。そして再びケリーたちが態勢を整えた頃には、飛行タイプの〈鬼〉が君夜を連れ去った後だったという。
「本当にごめんなさい。私たちが傍にいながら〈フリークス〉に連れ攫われるなんて」
このときのケリーは本当に悔しそうな表情をしていた。
知り合って間もない人間のためにこんなにも感情を露にできるのは、ケリーが本気で君夜を守る気であった証である。そんなケリーの態度を見てしまった雪奈は、もはやケリーたちに対して文句を言うことはできなかった。
溜息を漏らした雪奈はふと本殿のほうに目線を移行させた。今頃、本殿の中では秀柾が必死に祈祷をしている最中だろう。
前もって君夜から聞いていたのだが、祈祷が最終段階に入ると秀柾は一種のトランス状態に陥り、周囲の状況が把握できなくなるという。だとすれば先ほどの銃声や爆発音はもちろん、君夜が〈鬼〉に連れ攫われたことなど知る由もできない。
雪奈は本殿に向かって歩み始めた。
「どこへ行くの?」
自分の横を通り過ぎていく雪奈をケリーは呼び止めた。
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