第25話

「答えなさい、九十九。ここで一体何をしていたの?」

 雪奈の呼びかけに九十九は地面に向けていた顔を緩慢な所作で上げた。

  九十九が佇んでいた場所は外灯の光が何とか届く範囲だったため、雪奈は顔を上げた九十九の表情を視認することができた。

 だからこそ、雪奈と竹彦は心身ともに凍りついた。九十九の虚ろな表情の中に収まっていた双眸が周囲の闇よりも深い漆黒だったのである。

 瞳孔だけでなく白目の部分であるガラス体も漆黒。間違いなく普通の状態ではない。それに異常だったのは何も眼球だけではなかった。

 九十九が佇んでいる場所は公園内のほぼ中央である。先ほど九十九が座っていたブランコの場所から十メートル以上は離れていた。

 そんな距離を九十九は助走もなしに跳躍した。いくら島の人間が先天的に身体能力に優れているとはいえ、十メートル以上の距離を助走なしに跳躍するのは不可能である。それでも九十九は目の前でそれを難なくやって見せたのだ。

「くくく……ははは……ははははははは」

 静寂に支配されていた公園内に鬱屈した笑い声が響いた。発生源はだらしなく口を半開きにしていた九十九である。

 九十九は唇を鋭角に吊り上げつつ、雪奈の竹彦の顔を交互に見た。眼球全部に墨を塗ったような漆黒の双眸で。

 もはや今の九十九は普通の状態とは思えなかった。雪奈は〈鬼〉にでも憑かれてしまったのかと疑ったが、小型にせよ中型にせよ〈鬼〉自体は野生の獣を複合させたような姿をしており、生きている人間の身体に憑くなどという話は聞いたことがなかった。

  では九十九はどうしてしまったのだろう? 雪奈は回答に辿り着けない疑問に頭を悩ませていると、九十九は喉が張り裂けんばかりに高らかに笑っていた声を止めた。

  そして――。 

「行かないと……あいつが……あいつが俺を待っている」

 九十九はぼそりと呟き、鳥が翼を羽ばたかせるように両手を広げた。

 雪奈と竹彦は唖然とした表情で九十九の一挙手一投足を脳裏に焼きつけていく。

 異様な光景であった。九十九が両手を大きく広げた途端、足元の影法師から蛇のような動きの影が何十本と飛び出てきたのだ。

  しかもその影は九十九の全身に瞬く間に巻きつき、人間には絶対に入手不可能な漆黒の翼を与えた。ファンタジー小説などに登場するドラゴンの翼に似ていたかもしれない。

 だがそれは似ていただけではなかった。九十九は自分の背中から突き出た漆黒の翼を自在に操作し、大きく羽ばたかせたのである。

 その光景を呆然と見ていた雪奈と竹彦は同時に思った。三メートルほどの翼を羽ばたかせた九十九は天高く飛翔する気だと。

 人間が翼を使って空に飛び立つ。普通の人間ならばそんな異常な光景を現実の出来事として認識するはずがない。

  しかし、ここは異形の魔物――〈鬼〉が出る鬼啼島である。驚きこそすれ一概に夢幻の出来事だとは思わない。それどころか返って二人の頭は冷静になった。雪奈などは九十九の襲撃を予想して臨戦態勢を取ったほどだ。

 だが、それも無為に終わった。九十九は地面を蹴り上げると、その勢いを利用して高らかに中空に舞い上がったのである。

 二人は何もできなかった。九十九が飛翔した時点で発生した爆風により、公園内は異常な量の土煙で覆われたからだ。

 雪奈と竹彦は咄嗟に顔を腕で防御した。前方からは爆風により生じた衝撃波が土煙を仲間に引き込んで容赦なく襲い掛かってくる。

 それでも雪奈は眼球に土煙が侵入する行為を完全に回避していた。なので土煙を両手で払い退けると、雪奈は中空に浮かんでいる九十九に視線を睨みつけた。九十九は地上から五○メートルの位置に静止している。

 ただし九十九が空中に静止していたのは十秒ほどだった。その後、九十九は器用に両の翼を操って何処かへ飛翔。あっという間に九十九の姿は視界から消えてしまった。

「ねえ、何が起こったか説明できる?」

 雪奈が問いかけると、竹彦は顎の先端に手を当てながら唸った。

「はっきりとは言えませんが、今のは本当に九十九君だったのでしょうか?」

「それって九十九の形をした〈鬼〉だったってこと?」

 う~ん、と竹彦は押し黙った。竹彦も本当は気づいている。人間の形に変化する〈鬼〉などは存在しない。それに〈鬼〉は人間の身体に憑依することもない。

 そのとき、緊迫した雰囲気が残っている公園内に場違いな電子音が鳴った。竹彦が持っている携帯電話の着信音だ。

 竹彦はズボンから携帯電話を取り出して通話ボタンを押した。

「はい、もしもし」

 電話に出た竹彦は最初のうちこそ頷いたりしていたのが、次第に顔が険しくなっていくのを雪奈は見逃さなかった。

「分かった。すぐに向かう」

 相手との通話を終えた竹彦はすぐさま電話を切った。

「電話を掛けてきた相手は誰だったの? 管理組合の人?」

  雪奈が誰と何を話したのか尋ねると、竹彦は苦々しい表情で通話内容を話した。

「嘘……でしょ?」

 竹彦から通話内容を聞かされるなり、雪奈はよろよろと後ずさった。

 信じられなかった。信じたくなかった。

 気づくと雪奈はその場から勢いよく駆け出していた。

「お嬢、待ってください!」

 手を伸ばして雪奈の身体を摑もうとした竹彦だったが、雪奈の俊足は竹彦の手を振り切り公園内から飛び出していく。

「嘘でしょ……嘘でしょ、君夜!」

 雪奈は真相を確かめるため、〈結界柱〉から別の場所へと目的地を変更した。

 変更した目的地は何度も足を運んだことがある九頭竜神社。

 唯一無二の親友である君夜が向かった場所であった。

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