第29話
君夜は〈闇烏〉を再び懐の奥へと戻した。
どうやら身の内に忍ばせているだけで効果があるらしい。ならば先ほどの九十九は竹彦たちだけを境内から引き離すよう君夜に命令されたのではないか。
何のために? 決まっている。二人きりで話をするためだ。
だとすると境内を警備していた人間たちを皆殺しにさせた辻褄が合う。
君夜は境内で自分と二人きりになって話すため、いっそのこと境内を警備していた邪魔者は早々に排除しようと思ったのではないか。
だが、考えれば考えるほど背筋が凍りつく。
正直、雪奈は目の前にいる君夜が十数年来の親友なのか心底不安になった。
同時に君夜こそ大型タイプの〈鬼〉ではないかと疑ってしまった。それだけ今の君夜と一時間前に別れた君夜の性格も態度も別人だったからだ。
一方、無言を貫いている雪奈に対して君夜は小首を傾げた。
「その様子だとまだ私の本性を信じられないようですね。まったく、貴方の悪いところはその愚鈍で思慮浅い性格です。人間の本質というものをまるで見ていない。いえ、見ようとしない。だから私の本性にも気づかないのです」
そう言うと君夜は左手に持っていた梓弓を構えた。それでも雪奈は必死に親友が言い放った言葉の意味を考えていた。
君夜の本性とは何だ? 唯一無二の親友として心を分かち合い、十五の頃からは一緒に様々な〈鬼〉と戦ってきた。だからこそ分かっている。君夜はこんな人間じゃない。同じ島に生きる人間を死に追いやるような残酷な人間なはずがない。
雪奈は面と向かって自分の正直な気持ちを君夜に伝えようとした。しかし、思いに反して上手く言葉が口から出てこない。
そんな雪奈に君夜は憐憫な眼差しを差し向けた。
「思えば貴方も哀れですね、雪奈さん。心では認めたくないのに身体は反して今の私を敵だと認めている。咄嗟に言葉が出てこないのがその証拠です」
直後、君夜は梓弓を構えたまま白い歯を覗かせた。
「でもね、そういうところも含めて私は貴方のことが好きでしたよ。少なくとも他の人間よりも付き合いは長かった……だからこそ訊きたい」
一拍の間を置いて、君夜は口を開いた。
「雪奈さん、私と一緒にこの島から出ませんか?」
鳥居の側に焚かれていた篝火の炎により、墨を落としたように黒々とした君夜の瞳が赤く揺らめいて見えた。
「こんな〈鬼〉が出る島なんて見捨ててどこか遠くへ行きましょう。大丈夫、私たち二人ならどこへ行っても上手くやっていけます」
桃色だった君夜の唇から甘い言葉が紡がれる。一種の誘惑とも取れる言葉だったが、雪奈にとってそれは呪い言葉のようにしか聞こえなかった。
「鬼啼島を見捨てて遠くへ逃げる? そんなことできるはずないじゃない。ここは私たちの故郷なのよ。確かに〈鬼〉なんて化け物が出るけどそれは今に始まったことじゃない。それに私たちの先祖はその〈鬼〉たちを島外に出さないために血を流してきた。だったら子孫である私たちは先祖の教えを末代まで守り抜いていく義務がある。見捨てるなんて絶対にできない」
このとき、雪奈は嘘偽りのない本音を言の葉に乗せて言い放った。
「残念だわ。本当に……残念」
柔和だった君夜の笑顔が能面のような無表情へと変わっていく。
直後、君夜は矢を番えていない状態のまま弦だけを後方に引き絞った。
同時に雪奈の肌の粟立ちが最高潮に達した。
君夜が弦を引き絞っている間、周囲の空気が恐ろしい速度で張り詰めていく。
それだけではない。隣で焚かれていた篝火の炎が風もないのに激しく揺れ始める。
(〝何か〟が来る!)
そう思ったのも束の間、最大限に引き絞られた弦は君夜の手元から離された。
獣の咆哮にも似た音が高鳴り、君夜の手元からは黒い閃光が迸る。
雪奈は咄嗟に腕を交差させて防御の構えを取った。だが、前方から飛んできた〝何か〟は雪奈の腕をすり抜けて腹部に直撃する。
〝何か〟が腹部に命中すると、雪奈は口内から大量の唾液を噴出させて後方へ吹き飛ばされた。硬い石畳の上を雪奈の小柄な身体は何度も転げ回っていく。
そして回転が止まったとき、雪奈は痛みよりも熱を感じる腹部に手を当てた。
じくじくと焼き鏝を当てられたように腹部が熱を帯びている。まるで高温に熱したソフトボールを腹部に打ち込まれたような感覚だった。
やがて雪奈はゆっくりと身を起こした。腹部に手を添えたまま、梓弓を構えた状態の君夜を食い入るように凝視する。
自分を攻撃した〝何か〟とは一体何だ。君夜は一本たりとも矢を番えてはいない。それでも雪奈の身体は〝何か〟により五メートル近くも吹き飛ばされたのだ。
「無意識のうちに〈合鬼〉を使って私の〈鬼飛ばし〉を相殺させるなんて……さすが雪奈さんですね。伊達に実戦経験を積んではいないということですか」
〈鬼飛ばし〉。
今、君夜は確かにそう言った。
雪奈は視線を落として自分の腹部を視認した。衣類には傷一つなかったが、その下にある肉体には未だじくじくとした痛みと熱が残っている。
独特の呼吸法により痛みを緩和させた雪奈は、続いて自分の意識を君夜が手にしている梓弓に向かって飛ばした。
視えた! 朱色の梓弓が黒い霧状の物体に包まれている。これは普通の状態では視認できず、〈合鬼〉を使った状態で初めて視認できた。
形容するならば実体を持たない〈鬼〉だろうか。手入れがよく行き届いていた君夜の梓弓からは中型タイプの〈鬼〉と同等の気配が纏わりついていた。
(まさか〈鬼飛ばし〉というのは――)
だからこそ、雪奈は無意識のうちに〈合鬼〉が使えたのだろう。雪奈の特殊能力である〈合鬼〉は〈鬼〉だけと同調する能力があったからだ。
「〈鬼〉の意識を飛ばす能力……君夜、あんたはそんな力をいつの間に得たの?」
「昔からですよ。貴方が〈合鬼〉の能力を自覚した頃よりもずっと昔から」
まったく知らなかった。何故、君夜はそんな力を今まで隠していたのだろう。
「今まで口に出して教えたことはありませんでしたけど、貴方だけではなく竹彦さんや皆の前でも惜しげもなく披露していましたよ。ただ、全員が認識しなかっただけです」
認識しなかった? 雪奈は過去の記憶を必死に思い出す。
しかし、どんなに記憶を蘇らせても君夜が〈鬼〉の意識を飛ばすところなど一度も見たことがない。見たことがあるのは君夜が一定の距離から弓を打ち起こし、特性の護符を仕込んだ矢を中型タイプの〈鬼〉に目掛けて放つ姿のみ。
(ちょっと待って。もしかして私は根本的に勘違いをしていたじゃない)
頭が沸騰するほど思考した瞬間、ふと雪奈の脳裏に一つの予想が閃いた。
「ふふふ、鈍感な貴方でも理解したようですね? そうです。私は貴方たちの前で護符を仕込んだ矢など一本たりとも放ったことはありません。私は今まで〈鬼〉の意識を込めた矢を〈鬼〉たちに向けて放っていたのですよ」
気づきませんでした? と、君夜は勝ち誇ったように微笑した。
「それもそうですよね。目の前に本物の〈鬼〉がいればそちらの方に意識が向いてしまうのは当然。私の真の能力である〈鬼飛ばし〉に気づくはずがありませんもの」
嬉しそうに自分の能力を説明する君夜に、雪奈は産毛が総毛立つほどの恐怖を感じた。
君夜は自分の能力に酔い痴れず、ましてや過信している様子もない。おそらく、相当に長い年月を〈鬼飛ばし〉の修練に費やしたのだろう。そうでなければ先ほどのような芸当は絶対にできない。
「さて、そろそろ本気で死んでもらいましょうか。言っておきますけど先ほどの〈鬼飛ばし〉は挨拶程度の威力しか込めていませんでしたよ」
君夜は愕然とする台詞を口にすると、再び弦を後方に引き絞ろうとした。間違いなく第二射を放つ気なのだろう。今ほどの言質通りに自分を本気で殺すために。
「ちょっと待って!」
雪奈は君夜に向けて開いた右手を突きつけた。君夜は弦を二本の指で握ったが、後方には引き絞らなかった。目を細めて、雪奈が何を言うのか待っている。
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